大切な人
泥のように眠った翌朝の目覚め。
今日は月曜日だから学校に行かなきゃ、そう考えた所で今が冬休みだということを思い出す。
だから目覚ましを掛けずに寝たんだった。
思い出してから、また眠った。
次に目が覚めたのは昼過ぎだった。
少しだけ驚いて、時計を二度確認してしまう。
こんなに眠ったのは久しぶりだった。
たくさん眠ったはずなのに、身体のあちこちに疲労感が、船の碇のように重く重くぶら下がっている。
喉の渇きを感じて、ようやく身体を起こした。
冷蔵庫を覗き込んで牛乳パックを取る。
コップになみなみ注ぐと、一気に喉に流し込んだ。
「寒い、寒っ」
牛乳を温めれば良かった、そう独りごちながらファンヒーターのスイッチを入れる。
カチカチボーッと音がすると、直ぐに暖かい風が足首を直接暖めてくれた。
その場に座り込む。
昨日の竹澤先生を思い出す。
いつもの先生では無いような気がして、空恐ろしい気持ちになった。
そう、昨日のいつの時でも、そんな風にして常に竹澤先生に対して、違和感を感じていた。
けれど、同時にあの全身包まれた巨大な焔を思い出す。
身震いがするような、うわあっと狂ったように叫んで逃げ出したくなるような、そんな体験だった。
その体験が、私の中に衝撃と猜疑心と動揺とを同時に連れてきた。
頭が混乱する中、私が助けを求めたのは、善光先生だった。
好きだと言おう。
先生が好きなんです、と。
それから、竹澤先生にも言おう。
もう、これ以上は嫌です、と。
私は食パンをトースターに放り込むと、スイッチを三分の位置まで捻り、そしてもう一杯牛乳を注ぐと、今度はレンジに入れてチンした。
✳︎✳︎✳︎
そして、そう決めたはずなのに、当の本人、善光先生を前にして、私は言うべき言葉を言いあぐねていた。
「ぜ、善光先生、」
「ん、何だ」
「……あの、ね」
「おう、」
「……ちょ、トイレっ‼︎ トイレ行ってきます」
「お、おう、別にそんな申告せんでも。早く行ってこい‼︎」
そんな風に心を決めた日の夕方近く、善光先生が様子を見に来たと言って、家に寄ってくれた。
最初は、竹とちょっと話したんだが……と言って、神妙な面持ちで話し始めたもんだから、この話の流れで告れるかなあなんて、そわそわしながらそのチャンスを待っていたのだけれど、話し始めた内容が深刻なものだったので、今日は言えないかもなと途中で諦めていたり、いや今日言わなくちゃいつ言うの的な感じで、私はすっかり迷走してしまっていた。
「なあ、お前が竹を信頼してるのは分かってて言うんだが、訓練とかいうの、もう止めろよ。今のままじゃダメなのか。お前が利用されているようで、あ、いや、竹がそんなことするはずねえんだけどな。お、俺が今まで通り、守ってやるし」
少し話して、すぐに訂正する。
「いや、違う、竹も守ってくれると思うけどな。竹に任せておけばお前は安心だろうけど、あいつお前の能力をもっと引き出して、そんで強くさせたいって言ってて。俺はそれは必要ねえんじゃねえって思うから」
そして、すぐに訂正。
「あ、いや、竹を疑えとかそう言ってる訳じゃなくって。お、俺もちゃんと見ててやるから、大丈夫だと思うし。だから、お前が強くなったり力をコントロールする必要ねえかなって」
で、繰り返す。
「だから訓練、止めろよ。危ねえし、必要ねえし。身体には負担だし、精神的にも負担掛かるっつうか。お前が倒れたらそれこそ意味ねえし。竹とは別にそんなことしねえでも、一緒に居られりゃそれで良いだろう。竹だってずっとお前の側にいるし、お前だって……」
何かきた。
何か言えそうなタイミング。
「あのさ、先生、えっと、さあ」
けれど、意に反してぐうっと口が噤んでしまう。言うべき言葉がすんなりと出てこない。どんな顔して言ったらいいのかも、分からない。
顔から火、噴きそう。
そして振り出しに戻る。
「……トイレ。トイレ行ってきます」
善光先生は頭を掻きながら、
「お前何回トイレ行くんだ、腹でも壊してんのか」
別に、と言いながら私は火照った顔を両手で押し付けながら、トイレに駆け込んだ。
どうしよう、なかなか言えないもんだ、私は小さな声でぶつぶつと言いながら、狭いトイレの中で便座に座ったり、立ったりを繰り返した。
少しだけ落ち着きを取り戻すと、一応水をざっと流して、廊下に出る。
けれど、何を焦ったのか、扉を閉めようとして指を挟んでしまった。
「痛っ‼︎」
あまりの痛みに指を握って座り込む。
何か、久しぶりにやったあ、こんなおバカなこと。
「ん~、」
すると、バタンとすごい音がして、善光先生が駆け寄ってくる。
「どうした‼︎ 何だ、何があった、大丈夫か」
私はその慌てように驚いてしまい、
「ごめん、ごめん。ドアで指挟んだだけ。大丈夫」
先生はほっと安堵の表情を見せると、笑って言った。
「そうか、何やってんだ、お前ほんっとドジだな。見せてみろ、右手か?」
手首を取って、ぐいと引っ張られる。
うっわ、照れる。
やっと、ちょっと落ち着いたのに。けれど、直ぐに手は離された。
「湿布で冷やした方が良い、あるか?」
「ないから、保冷剤で冷やすよ」
「そうだな、冷やしとけよ。じゃあ、俺は帰るよ」
え、と思った。
けれど、どうやって引き留めていいか分からない。
廊下をずんずん歩く先生の後ろを、このまま大人しくついていくことしかできないのだろうか。
玄関でスニーカーに足を突っ込むと、私の方に振り向いて、じゃあなと言う。
けれど少し間があってから、先生の手がすっと近付いてきた。
私は、また頬に触れられる、そう思った。
それなのに、いつまで経ってもそれは触れられず、私がさっきドアで挟んだ指を握っている左の手首にそっと置かれた。
「相変わらず、細っせーな」
先生はそう言うと、踵を返して玄関を出ていった。
あれ、今どうして、そんな哀しそうな顔を?
そして、私は唐突に気が付いた。
「腕輪っ」
いつもしていた左手首に、今、その存在は無い。
ドームと呼ばれたあの嫌な場所で、腕輪は焔で溶けて無残な姿と化したのだ。
昨日着ていた、上着のポケットに、入れっぱなしだ。
私は裸足で玄関を飛び出した。
腕輪をしていないんじゃない、腕輪をすることができないんだ。
そう言い訳をしたくて。
事情を説明したくて。
けれど、少し分厚い靴下でも感じられるような冷たい道の先に、先生の姿はもう無かった。




