第四十三話 黄色いレインコート
雨の日。
今も立っているんだろうか。
考えるまでもない。
今も何かを、誰かを待っている。
まさか何の理由もなく立っているってことはないだろう。
結局わからずじまいだった。理由を聞ける関係にまで至らなかった。
黄色いレインコートに、黄色い雨傘、黄色い長靴。
どうしてあの出で立ちなんだろうか。
どんな思いが背景にあるんだろう。
もう余計なお世話か。いや、はなっから余計お世話だったんだ。
今の僕にとっては随分昔のような気さえする。
「どうしたんですか?」
「ん?・・・雨だなぁって」
「そうですね。この時期の雨は少し寒く感じますね」
「だね」
先生に言われたからというわけじゃないけど、それでもやっぱりどこか彼女としてミズキさんを見ようとしている自分がいる。
今日は不意に彼女に会いたくなって連絡をした。
自分から連絡をいれることは本当にないから自分でも驚いている。
彼女は何かを期待しているんだろうか。いつもと雰囲気が違う。
なんとはしに二人で歩いている。
お互い制服のまま。
なんだか新鮮な心持ち。
高校生にしては落ちついて見える。
同級生の僕が言うのもおかしな話だけど。
迫り来る寒さを感じる季節になってきた。
こんな寒い日も立っているんだろう。
どんな思いで。
寂しくないんだろうか。
辛くないんだろうか。
彼女に臆してしまった。
先生なら「か弱いねぇ」で終わりの話かもしれない。
弱くて何が悪い。
あー・・・これも悪い意味での開き直りか。
何か大切なモノが壊れたような気がした。
彼女のことを怖いと思ったのか。
単純に彼女に氣圧されたのか。
何も聞かずに憤りを隠さなかったことを残念に思ったのか。
自分でもよくわらかない。
ただ、何か心の中で大切な一部が壊れたような、そんな気がする。
もう後戻りは出来ない。
あの翌日、僕は熱をだして休んだ。
どうやら素で具合が悪かったようだ。
それとも精神的なものか。
疲れていたのもある。
実際、大した熱でもないし。
そして久しぶりに夢を見た。
黄色い雨合羽のミイちゃん。
でも、何時もと違う。
最初から彼女は遠く霞んで見えた。
開幕から土砂降り。
僕はしばらく彼女を見た後、そのまま通り過ぎた。
どうせどうにも出来ない。
見るだけ辛いだけだ。
あの轟音が遠くて聞こえたけど、他人事のように聞いた。
それでも胃の辺りが少しズキっとする。
どうにも出来ないんだから気にする方がどうかしている。
思い込もうとする自分がいる。
どっちが正直な気持ちなのか。
何が本音なのか、もうわからない。
関わらなければ通り過ぎるだけだ。
そうすれば、きっと大丈夫。それが正しいんだ。
なんとも言えない寒々とした思いの中で目が覚めた。
(これでいいんだ。彼女は救えない。そもそも救うなんておこがましい)
元より夢だし。
バカバカしい。
その日、僕は酷く冷えた心持ちで学校へ向かった。
早朝の湖面のように静か。
自分でも意外なほど何も考えてなかった。
それでもどこか気まずい自分を感じながらも他方では気にならない。
学校へつくといつも通りの挨拶。
皆は少し動揺しているのが顔を見て取れた。
彼女が来た時、
僕はごく当たり前のように声が出る。
「おはよう」
レイコさんは少し反応したように見える。
いや、気のせいかもしれない。
以前にように頭を下げることもなく僕の前を通り過ぎる。
これは習慣のなせるわざか。
考えてみると、むしろ声をかけない方が良かったかもしれない。
声をかけることでかえって彼女を動揺させたかもしれない。
もういい。
考えるだけ無意味だ。
ああいうことがあったからって声をかけなくなるのもなんか嫌だ。
ああ、だからもうどうでもいいよ。
考えることじゃないだろ。
あれほど近くに感じていた彼女が遠い世界へ行ってしまった感覚がよぎる。
まるっきり他人。
四月に戻ったよう。
夢だったような感覚すらある。
タイムリープとか言うやつだったりして。
・・・んな、ばかな。
彼女の家で語り合った夏休み。
公園で二人してやった朗読劇。
雨の日にたたずむ彼女。
まるで気のせいだったかのような今がある。
寒々とした感覚が再び覆い、身体が本当に震える。
(おかしい、まだ熱下がってないのかな?)
その一方で平気だった。
そう悪くない。
皆が以前と違う雰囲気で僕を見ているような気がする。
不思議と気にならない。
他人事のような感覚がある。
中学二年生の頃は凄いクラスメイトに目が気になったのに。
あれは何だったのか。
あれが成長期というやつか。
めいめいが風邪の心配をしてくれたけれど、本音は別のことを聞きたくて仕方がないと言わんばかりの好奇心を向けてきた。それを気づかない振りをしてやり過ごす。
「後一日ぐらい休んだ方がよかったんじゃないか?」
マキだけが平常運転。
こういう時は本当にありがたい。
初めて思ったけど、マキって男気があるような気がした。
何も聞かなかったし、何かあったような顔すらしていない。ヤツだけだ。
なぜか涙が出そうになった。
全ての毒素が抜け落ちたような脱力感の中、どうしてか勉強だけは絶好調。
あれほど手の間から抜け落ちるような記憶や理解力が戻ってきたようですらある。
驚くほど頭に入り、理解出来る。
(仕切り直しだ)
もうスマホはどうでもいい。
母さんとの喧嘩もどうでもいい。
とにかく今の僕には勉強しかない。
アルバイトは辞めるつもり。
もうやる意味がない。
彼女と歩きながら、僕はミズキちゃんに交際宣言をするつもりだったんじゃないかって気がしてきた。その為に彼女を呼び出したのかもしれない。でも声にはならない。どこか、まだ何かが引っ掛かっている。ただ今は彼女が側にいるだけで落ち着く。
まだ早いんだ。
何せ幾らも話していない。
まだお互い何も知らない。
なんとなく馬が合うと感じているけど。
不思議なものでこの期に及んでもスズノとよりを戻そうとは思えない。
ただ今は独りじゃいけない気がする。
酷く寒い。
何か寒くて仕方がない。
今までと違う感覚で初めて彼女が欲しいと感じている。
誰かに側にいて欲しい。
切実に。
だから彼女を呼んだんだろう。
そんなことを漠然と抱きながら歩いている。
レイコさんはこの雨の中を立っているんだろう。
何を思って。
何を待って。
*
私の好きな日。
雨の日。
静かに降りしきる雨。
全てが飲み込まれていく。
大人マーさんとの出会いの雨。
私にとって幸運を運ぶ雨。
幸運を呼ぶ黄色いレインコート。
マーさんと出会ったのも今日みたいな雨の日だった。
五歳の私。
今も鮮明に思い出す。
今日みたいな静かな雨。
線のように細い雨。
空を埋め尽くすような雨。
ほとんどの音という音が雨に吸収され静かだった。
私は幼稚園の前で立っていた。
凄い楽しそうな場所があるといつも羨望の眼差して眺めていた所。
門の前で立っていると不思議と一緒にいるような錯覚を覚え胸が踊った。
皆が帰る少し前に立つ。
来るはずもないお母さんを待っていたような気がする。
待っていればお母さんが、もしくはお父さん、誰かが迎えに来てくれるような気がして立っていたのかもしれない。あの頃はそんなつもりなかったけど。今にしてみれば多分そうだと思える。
皆が帰る。
私には誰も迎えに来ない。
そこで我にかえる。
私は幼稚園には行ってないし、当然誰も迎えには来ないのだと。
消える園内の灯り。
うちひしがれ帰る自分。
でもあの日は違った。
マーさんが声をかけてくれた。
「あれ、隣の子だよね。お兄さんわかる?」
最初は怖くなって逃げた。
でも翌日も、
その翌日も、
マーさんは来たようだ。後で彼が言っていた。
でも私は雨の日しか行かない。
じゃないと変な子がいると思われる。
レインコートを着れば誰かわからない。
子供心に考えたんだろう。
考えたというより直感で理解したんだ。
「やっぱりそうだ、お父さん待ってるの?」
「ううん、お母さん」
二度目に会った時、そう答えた。
「お母さん遅いね。もう皆帰っちゃたじゃない」
「うん。お仕事が大変なんだって」
私は嘘をついた。
いや、嘘じゃない。
お父さんはそう言った。
「仕事にいったよ」って。
でも、わかってた。
お母さんは帰ってこないって。
「これ食べない」
そう言ってメロンパンを渡してくれた。
最初は手に取れなかった。
でも、ひもじかった。
あの頃は一日一食あればいいほうだった。
「お隣さんだからいいじゃない」
彼は塀に寄りかかるようにし、地べたにお尻をつかず座った。
私の始めたゴッコ遊びはその日から楽しみになっていた。
来るはずもない迎え。
そのはずが迎えが来た人がいる。それがマーさん。
彼はいつも楽しそうに私の話を聞いてくれた。
そして、
「お母さん今日これないんだよ、お兄さんと一緒に帰ろう」
そう言って帰ってくれた。
手を繋いで。
温かった。
力強かった。
手から伝わる優しさが嬉しかった。
今にして思えばマーさんは全てわかっていたんだ。
スーツ姿で会社帰りや営業の途中でここを寄ってまた戻る。
彼はわざわざ見も知らぬ私の為にそうした。
マーさんの家には私と同じ年格好の娘がいたと、その後で知る。
(あー・・・なんでだろ)
急に思い出すなんて。
子供マーさんから夢の話を聞いた時は本当に驚いた。
あの時と似たような光景。
そんなこと口が裂けても言えない。
おかしな人だと思われる。
マーさん・・・。
(怒鳴るんじゃかった・・・)
駄目。
後悔先にたたず。
済んだこと。
侮辱されて生きるぐらいなら・・・。
でも、本当にマーさんは・・・。
あー駄目、何考えているの。
そうに決まっている。
いい加減、学びなさい。
隙を見せたら駄目。
男は隙あらばよ麗子。
「あれ?」
男性の声がした。
澄み切った真っ直ぐな声に思わず反応してしまう。
「あの・・・君って、レイちゃん?」
「え?」
声が出た。
男性は長身で百八十以上ある。
和服のような格好。上から下まで濃紺。
大きいのに猫背だからか、不思議と威圧感を感じない。
なんだろう私の知っている和服とは違うような。
少年のような面差しに、澄んだ瞳、邪気のない顔。
今時珍しい。下駄を履いている。
どこにでもあるような黒い雨傘。
あれ?どこかで聞いたことがあるような人物像。
(え?・・・まさか)
嘘でしょ・・・まさかこの人って。
「あれ、ほら、あの~君が振ったクラスメイトの男の子、僕の弟子なんだよ」
「え!」
やっぱり!
「彼の言う通りだ。本当に美人だね。夢中になるのもわかる気がするよ」
マーさんのお師匠さんは少年のような笑みを浮かべている。
「はじめまして」
驚いた。
マーさんが言っていた習字の先生。
この辺だったんだ。
彼が言ってた通りの出で立ち。
そうか、これが作務衣って言うんだ。
緊張する。
「そうだ。いきなりで悪いんだけど彼の名誉の為に言っておくと、彼は君のことを思ってアルバイトしてまでお金を用意したんだ。自分のお小遣いを使うのは違う気がするって言ってね。僕も彼を怒鳴ったんだけど。でも悪気はないんだよ。だから彼の思いを幾ばくかでも汲んでくれるとありがたい。君からしたら彼は繊弱で物足りない男かもしれないけれど、それはそれとして彼にこれからも力添えをして育ててくれると嬉しいよ。どうかよろしくお願いします」
丁寧に頭を下げた。
アルバイトをして・・・お金を工面した。
そんな。
そんな・・・まさか。
そんな人がこの世に本当にいるなんて、マーさん以外に。
それなのに私は・・・。
「頭を上げて下さい。こちらこそごめんなさい。私、勝手に思い込んで凄い失礼なことを彼に・・・私こそ本当にすいませんでした」
「いやいやいいんだよ。君の怒りは最もだ。彼は君と違って温室育ちだからさ、それを少し考慮に入れてくれるとありがたい。それと、それを言うのは僕にじゃなくて彼に言ってくれたら嬉しいな」
「はい」
「じゃあ悪いね突然声かけて。そうだ・・・邪魔ついでにいいかな?ここで小さな女の子見なかった?ジーンズっていうの?短パンみたいなのを履いた子で、ちょっと可愛らしい感じの。短髪でね。上はピンクでマンガのような絵がプリントされている。まだ家についていないって親御さんから電話があったもんだから探しているんだけど」
「見てないです」
「そっか悪かったね。じゃあ、邪魔したよ」
片手をヒョイと上げると、歩き出した。
「私も探します」
「いやいいよ。こっちの問題だから。気にしないで」
「いいえ、もう用事は済みましたから」
「いや、でも君」
「探したいんです!」
「そうかい・・・なんだか悪いね」
「私がそうしたいだけですから」
やっぱりそうだ。
やっぱりそうなんだ。
幸運を運んでくれる。
黄色いレインコート。
私の宝物。
そしてマーさん。
マーさん。
マー・・・さん。
あー・・・マーさん!




