第一話 プロローグ
神という存在は、人の伝聞や地域に残る神話によって、その存在が曖昧になる場合がある。
ある地域では英雄のように祀り上げられる神も、国や地域が異なれば悪神のように扱われる場合もある。
それが顕著な神も少なからず存在しているのもまた、事実である。
たとえばア■テ■神話では風や農耕などを司るという、『羽毛ある蛇』、あるいは『羽毛ある竜』と呼ばれる神がいる。その神はある土地にて強く“信仰”され、その神話において主神に近しい“信仰”を確立していた。
……しかし、ある者は説いた。その神は宇宙の果てから訪れた蛇の父祖であると。
無論、歴史においてはア■テ■神話の方が古い。
だが、ひとりが説いた話が伝聞し、その話を信じ込む者が現れれば、それは“信仰”へと変貌する。
────故に、その神は地底に根付き、多くの信者と蛇の父にして守護者である大聖蛇、■■と同一であるという“信仰”を得たのだった。
彼は■■■■■■■■であり、■■でもある。
ふたつの、異なる神話の中にありながら、同一の存在と定義できる神として成立したのだった────
◆◆◆◇◇◇
鳥の囀り。木々のせせらぎ。心地よい風が、“彼”の頬を撫でた。
その心地良さ故に、“彼”を更なる眠りに誘おうとするが、鼻先に止まった蝶が鼻をくすぐり、急速に現実に引き戻される。
「ん……」
目を開く。金色の眼が最初に映したのは、透き通った空。空には白い雲が呑気に漂い、明るい太陽がさんさんと照らしている。
次いで映ったのは、背の高い木々。風に揺れて音を立てる木の葉。その隙間から覗く小鳥達。
「…………ここ、は」
“彼”は自分がどこにいるのかを正しく把握するのにたっぷり数十秒を要した。見知らぬ場所。見覚えのない生き物達。
だが同時に、ある事に気付く。
「……オレは、誰だ…………?」
自分の事が、全く分からない。
何故、自分に深緑の羽毛が生えているのか。何故自分の腕に大きな翼があるのか。何故手が鳥の趾なのか。何故、自分の腰から下が大蛇の様な、羽毛に覆われた尾なのか。
分からない。分からない。分からない。
自分が分からない。何故ここにいるのか、自分が何者なのかが残っていない。
────それでもただひとつ。ひとつだけ、彼の中に残っているものがある。
「…………ケツァル、コアトル……それがオレの、名前」
ケツァルコアトル。その名前だけが、彼の中に唯一残っているもの。
その名前がなんの意味を持つのか。どうして名前だけ頭に残っているのかは定かではない。……それでも、唯一自分に残っているものである事に変わりはない。
ケツァルコアトルはそれを頭から抜け落ちないように。自分の中から消えてしまわないように。何度も己の名前を心の中で反芻する。
宝物を、自分にしか分からない場所にしまい込むように……
「……ここは、どこなんだ」
ケツァルコアトルは辺りを見渡す。見覚えのない……というよりそもそも記憶のないケツァルコアトルにとっては、何もかも新鮮で、初めて見るものばかりである。
立ち上がろうとして、するりと下半身の尾が動き、上半身を持ち上げては立ち上がった。どうやら身体は使い方を覚えているらしい。ケツァルコアトルにとって、その事実は有難かった。
翼を用いて飛べるのかはまだ分からないが、まずはここがどこなのかを把握せねば始まらない。
ズルズルと尾が地面を擦る音と共に、ケツァルコアトルは森の中の散策を始めた。
どれほど歩いただろう。似たような景色は絶えず続き、穏やかな風は流れ続けている。
ふと気付く。どれだけ進んでも、遭遇する筈の獣の姿がない。鳥が空を飛んでいたり、近くの枝に止まっている事はあれど、大柄な獣は一度も姿を見せない。
疑問に思うケツァルコアトルだが、ふと動きを止める。
足音。その数は一人二人とは程遠い。かなりの人数が動いている上、その音は徐々にケツァルコアトルの方に近付いているのだ。
何事かと身構える中、茂みからその足音の主達が姿を現す。
動物の顔と毛皮に覆われているという変わった体躯。鋭い爪に獣の脚。獣の毛皮を布として巻いたりしているだけという、随分と貧相な装いと痩せた体躯。
数は十人といった所か。石を鋭く削った槍と弓矢を携えて現れた獣人達は、ケツァルコアトルの姿を見て震えていたのだが……その内のひとり、初老の狼の獣人はケツァルコアトルの姿を目の当たりにした瞬間、喜ぶ様に目を見開いていた。
「……龍の顔に深緑の羽毛。翼の生えた腕に羽毛に覆われた蛇の尾……!」
若い獣人達を押し退け、前に出た初老の狼は何やら涙を流し、今度は膝を着いたかと思うと、ケツァルコアトルの前で頭を垂れた。若い獣人達に加え、ケツァルコアトルすら何事かと目を丸くする中で、そんな空気すら気にしない狼の老人は口を開いた。
「ケツァルコアトル様……ケツァルコアトル様がご降臨なされていたとは……!」
「ッ……何故、オレの名前を」
自分の名前を何故知っている、という問いに答える前に、それ以外の獣人も事の重大さに気付いたらしく、一斉に頭を垂れた。ケツァルコアトルだけが置いていかれている。
「ケツァルコアトル様……どうか、どうか我等をお救い下さいませ……!」
その申し出を聞いたケツァルコアトルには疑問が絶えない。
まるで神様を前にしているかのような扱い。何やら厄介な事に巻き込まれたのだという事実だけを、ケツァルコアトルは辛うじて理解する事ができた。




