勘違い
1.灼熱の余波と、新たな胎動
あの前代未聞の「グランドホテル鳳凰」での修羅場から、一週間が経過していた。
地方都市の狭い世間において、地元の有力企業である『相沢土木』の専務とその愛人が、同窓会の最中に警察に連行されたというニュースは、文字通り大爆発となって駆け巡った。SNSには同級生たちが撮影した生々しい土下座の画像や、優奈が暴露した裏帳簿のデータが瞬く間に拡散され、相沢土木はすべての公共事業から排除、事実上の倒産へと追い込まれた。相沢拓海と美咲の二人は、未だに冷たい留置所のコンクリートの床の上で、互いに罪をなすりつけ合いながら絶望の朝を迎えている。
だが、あの夜、地獄の蓋を開けた張本人である佐藤優奈は、すでにその喧騒の遥か彼方にいた。
「――優奈様、こちらが今週分のリポートでございます」
都心の超高層タワーマンションの最上階。
遮るもののない全面ガラス窓から、午後の柔らかな冬の陽光が差し込むリビングで、優奈の専属秘書である男が恭しくタブレットを差し出した。
優奈は、最高級のカシミアを編み込んだ純白のニットに身を包み、大理石のカウンタートップに肘を突いてカプチーノを口にしていた。
部屋着姿であっても、その洗練された立ち居振る舞いと、無駄な脂肪が一切ないしなやかなボディラインは、見る者を圧倒する気品を放っている。中学時代、泥に塗れていたボサボサの黒髪は、今やプロの手によって完璧にコントロールされ、光を受けるたびに美しい天使の輪を描いていた。
「相沢土木は完全に潰れたわね。美咲さんの多重債務も、自己破産すら認められない性質のものですから、一生をかけて地獄を這うことになるわ」
優奈はタブレットの画面を細く美しい指先でスクロールしながら、満足そうに唇を歪めた。その瞳に宿るのは、かつての「おどおどした地味子」の弱さではなく、獲物を完膚なきまでに屠る冷徹な投資銀行家の光だ。
「ですが、優奈様。……まだ、すべてが終わったわけではございません」
秘書の言葉に、優奈はカプチーノのカップをソーサーに戻した。チリン、と繊細な音が静かな部屋に響く。
「分かっているわ。……『彼ら』ね」
画面に表示されたのは、中学時代、相沢と美咲の影に隠れて優奈をいたぶっていた、残りの取り巻きたちのデータだった。
あの同窓会の夜、優奈の圧倒的なステータスと警察の介入に恐れをなし、会場の隅でガタガタと震えながら傍観者を決め込んでいた残党ども。彼らは相沢たちが連行された後、自分たちに火の粉が降りかかるのを恐れ、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していた。
「相沢と美咲という『盾』を失って、今頃は生きた心地もしていないでしょうね。自分がいつ、あの二人と同じように破滅させられるかと怯えながら、狭い部屋で震えているはずだわ」
優奈の朱色の唇が、蠱惑的な弧を描く。彼女の復讐の輪舞曲は、主犯格の二人を潰しただけでは止まらない。あの教室で、直接手を下した者、笑いながら動画を撮っていた者、その全員に「人生の破滅」という等しい対価を支払わせるまで、幕は下りないのだ。
「特に、この男……『城ヶ崎徹』。彼には、少し特別な舞台を用意してあげないとね」
優奈の視線が、データの一人に固定された。
城ヶ崎徹。中学時代、相沢の腰巾着として優奈に暴力を振るう先棒を担いでいた男だ。旧校舎の裏で優奈の脇腹をローファーで蹴り上げ、窒息する彼女を笑いながら見下ろしていた主犯の一人。
現在の彼は、地元を離れ、都内の大手広告代理店で「いっぱしのエリートビジネスマン」を気取って調子に乗っているという。
「自分が過去に行った醜悪な犯罪行為に蓋をして、都会で洗練された大人の仲間入りをしたつもりでいるのね。……滑稽だわ。その泥塗れの足元ごと、一気に奈落へ引きずり落としてあげる」
優奈はスマートフォンを手に取り、ある特別な番号へとダイヤルした。
完璧なレディの、次なる狩りが静かに幕を開ける。
2.エリートの化けの皮
港区、六本木。
ガラス張りの洗練された高層ビルの一室にある、お洒落なイタリアンバルで、城ヶ崎徹は完璧に悦に浸っていた。
「いやー、今回のプロジェクトのコンペ、俺が通しちゃってさ。上の連中もマジで俺のセンスに頼りっきりなんだよね」
整えられた髪に、仕立ての良いネイビーのスーツ。手首にはこれ見よがしにスイス製の高級時計が光っている。城ヶ崎は、周囲の同僚や後輩たちを前に、ワイングラスを傾けながら大声で自慢話を展開していた。
彼にとって、地方都市の中学時代の記憶は、すでに「終わった過去」だった。相沢や美咲が地元で警察に捕まったという噂は風の噂で聞いていたが、「あいつらは地元に残った負け組だから自業自得だ。都会で成功している俺には関係ない」と、完全に切り捨てていた。
「さすが城ヶ崎さん! 25歳でそのポジションは、同期でも圧倒的トップですよ!」
後輩の女子社員が羨望の眼差しを向けると、城ヶ崎の自尊心は最高潮に達した。
「まあ、要領よく生きるのが一番ってことよ。世の中、頭の悪い奴から脱落していくからな」
ハハハ、と下品な笑い声を上げる。その傲慢な態度、他者を見下す歪んだ選民思想は、中学時代に相沢の陰で優奈をいたぶっていた頃と、本質的には何一つ変わっていなかった。ただ、衣服と肩書きという「エリートの皮」を被っただけに過ぎない。
その時、バルの入り口が開き、一人の女性が入ってきた。
「――っ」
その瞬間、店内のざわめきが一変した。
入ってきたのは、信じられないほどの美貌と、周囲の空気を一瞬で支配するような圧倒的な気品を纏った美女だった。
美しい黒髪は完璧な黄金比率のボブカット。身体のラインを美しく強調する、最高級ブランドの洗練されたパンツスーツを着こなしている。その一歩一歩が、まるでランウェイを歩くモデルのように優雅で、触れることすら汚らわしいほどの高嶺の花としてのオーラを放っていた。
「おい、見ろよ……なんだあの美女……」
同僚たちが息を呑むなか、城ヶ崎もまた、その圧倒的な美しさに完全に目を奪われた。男としての本能的な下心と、都会で成功した自分ならあのクラスの女を口説けるはずだという、浅はかな自惚れが鎌首をもたげる。
美女は、店内の視線を意に介さない様子で、まっすぐに城ヶ崎たちのテーブルへと近づいてきた。
そして、驚くほど澄んだ、しかし凍りつくほどに冷徹な声を響かせる。
「城ヶ崎徹さん。……お久しぶりね」
「え……? あ、あんた、誰だっけ?」
城ヶ崎はドギマギしながら立ち上がった。これほどの美女に名前を呼ばれる覚えはない。だが、その瞳の奥にある、底知れない暗黒の光を見た瞬間、彼の脳裏に、十年前の「ある記憶」が不意にフラッシュバックした。
泥に塗れ、ボサボサの髪で、自分の靴の下で泣き叫んでいた、あの哀れな虫の姿が。
「まさか……お前、佐藤……優奈……!?」
城ヶ崎の顔から、一瞬で血の気が引いた。
「う、嘘だろ……なんでお前がここに……!? それに、その格好はなんだよ!」
城ヶ崎の絶叫に、同僚たちが怪訝な顔をする。
「城ヶ崎さん、知り合いですか? っていうか、もの凄い美人ですけど……」
優奈は、城ヶ崎の動揺を憐れむような目で見つめながら、優雅に微笑んだ。その微笑みは蠱惑的でありながら、獲物の首筋に牙を立てる直前の肉食獣のそれだった。
「驚くのも無理はないわね。あなたたちが私からすべてを奪い、地獄に突き落としたあの日から、十年。……私はね、あなたたちに本当の『格差の味』を教えてあげるために、死に物狂いで世界の頂点へと駆け上がってきたのよ」
優奈はハンドバッグから、一枚の洗練された名刺を取り出し、城ヶ崎の目の前のテーブルへと滑らせた。
そこには、世界屈指の外資系投資銀行のロゴと、彼女の『シニア・バイス・プレジデント』という、25歳としては文字通り異次元の役職が刻まれていた。
「外資系……投資銀行……!? 嘘だ、お前みたいな芋女が、そんなトップエリートになれるわけがない!」
城ヶ崎が名刺を掴み、狂ったように叫ぶ。
「なれるかなれないか、今からあなた自身の身体で、身をもって知ることになるわ」
優奈の冷酷な宣告が、六本木の華やかなバルに、不気味に響き渡った。
3.蜘蛛の糸の完全なる切断
「城ヶ崎くん。あなた、自分が勤めるその広告代理店で、ずいぶんと順風満帆なエリート人生を送っていると思っているようね」
優奈は、空いている椅子に優雅に腰掛け、足を組みながら淡々と語りかけた。その仕草一つをとっても、城ヶ崎たちとは住む世界の階層が違うことが一目で分かる。
「ふ、ふん! そうだよ! 俺はお前ら地元の負け組とは違うんだ! 年収だってすでに一千万を超えてるし、来期には大きなプロジェクトの統括になることも決まってるんだよ!」
城ヶ崎は、周囲の目を気にして必死に虚勢を張った。自分のエリートとしてのプライドを保つために、優奈を見下そうと声を荒らげる。
「年収一千万。……ええ、一般の会社員としては立派な数字ね」
優奈はクスリと、底冷えのする笑い声を漏らした。
「でも、それが『明日、すべて消えてなくなる』としたら、どうかしら?」
「何だと……!?」
優奈がスマートフォンを軽くタップすると、城ヶ崎のスマートフォンに、会社の内線ツールから大量の緊急通知が入り始めた。同時に、彼の隣に座っていた同僚たちの端末も、一斉にバイブレーションを鳴らす。
「な、なんだこれ……!? 社内の一斉社外秘メール……?」
同僚の一人が画面を開き、驚愕のあまり声を失った。
そこには、城ヶ崎徹がこれまでのプロジェクトで行ってきた、悪質な経費の不正水増し、下請け企業への悪質なパワーハラスメント、さらには会社の機密情報を競合他社に流して裏報酬を得ていたという、完璧なログと証拠データが添付されていた。
「これ……全部、あなた自身の『裏の顔』よ、城ヶ崎くん」
優奈の声が、冷酷に城ヶ崎の鼓膜を刺す。
「な、なんで……なんでお前がこんなものを持ってるんだ!?」
「言ったはずよ、私は投資銀行の人間だと。あなたが進めていたその大規模プロジェクトのメインスポンサーである海外の巨大資本。……あれ、私のクライアントであり、私がその投資判断の全権を握っているの。あなたのような組織のダニを排除することなんて、私のワンタップで終わる仕事だわ」
城ヶ崎の顔は、今や土気色に変色していた。
「嘘だ……嘘だろ! 俺のキャリアが……俺の人生が!」
「キャリア? そんなもの、最初からあなたには不相応だったのよ。十年前、罪のない一人の少女を集団で暴行し、その尊厳を便器に踏みにじって笑っていたような犯罪者が、都会で綺麗な服を着てエリートを気取るなんて、虫が良すぎるわ」
優奈はさらに、冷徹な追撃を加える。
「すでに、あなたの会社のコンプライアンス委員会と、人事部、そして警察の経済犯捜査係には、このデータと同時に、十年前の『あの男子トイレでの暴行動画』も提出してあるわ。相沢たちが逮捕された余罪として、あなたも共同正犯、および傷害罪で立証されることになる。明日の朝、あなたに届くのは昇進の辞令ではなく、懲戒解雇の通知と、警察からの逮捕状よ」
「ひっ……あ、ああ……!」
城ヶ崎はその場に崩れ落ち、ワイングラスをひっくり返した。赤い液体が、彼の高価なネイビーのスーツを惨めに汚していく。その姿は、あの同窓会で破滅した相沢拓海と、全く同じ醜悪な敗者の姿だった。
周りの同僚や女子社員たちは、あまりの衝撃と城ヶ崎の犯罪行為の生々しさにドン引きし、一斉に席を立って彼から距離を置いた。
「城ヶ崎さん、サイテー……パワハラだけじゃなくて横領に機密漏洩って、犯罪者じゃん……」
「関わらない方がいい、警察が来るぞ……」
中学時代、カーストの影で優奈を笑っていた男は、今や都会の真ん中で、完璧な孤独と絶望の檻へと閉じ込められていた。
4.傍観者たちへの冷徹な視線
優奈は立ち上がり、汚れた床の上でガタガタと震える城ヶ崎を見下ろした。
その瞳には、もはや怒りすら残っていない。ただ、害虫を駆除した後のような、冷徹な合理性だけが存在していた。
「城ヶ崎くん。あなた、私を『頭の悪い奴から脱落していく』と言っていたわね」
優奈はハンドバッグを肩にかけ、冷ややかに告げた。
「その言葉、そのままあなたにお返しするわ。自分の過去の罪から目を背け、私の足元にも及ばない小さな成功で満足して油断していた、頭の悪いあなたにね。……一生、その泥の味を噛み締めながら、牢獄の中で後悔しなさい」
優奈は一度も振り返ることなく、優雅な足取りでバルを後にした。
残された城ヶ崎は、自分の衣服に染み込んだワインの臭いと、目の前が真っ暗になるような絶望のなかで、ただ無様に涙を流して咽び泣くことしかできなかった。彼のキャリアも、エリートとしてのプライドも、優奈という圧倒的な本物の力によって、跡形もなく粉砕されたのだ。
六本木の街に出ると、ネオンの光が優奈の美しい横顔を妖しく照らし出していた。
冬の冷たい夜風が吹き抜けるが、彼女の身体を芯から温めるのは、復讐を完遂していくたびに洗練されていく、圧倒的な自己充足感だった。
「これで、主犯格の男たちはすべて排除したわね」
優奈はスマートフォンの画面で、次のターゲットのデータを表示させた。
残るはあと二人。中学時代、美咲の影に隠れて優奈に汚水を浴びせ、動画を撮って笑っていた取り巻きの女子たちだ。彼女たちもまた、地方都市の片隅で、自分たちの犯した罪から逃げ切れたと信じ込んでいる。
「待っていなさい。あなたたちにも、人間としての尊厳をすべて剥ぎ取られる、最高の舞台を用意してあげるから」
優奈の朱色の唇が、蠱惑的で、しかし凍りつくほどに冷たい弧を描いた。
完璧なレディによる、血も涙もない復讐の輪舞曲は、最後の獲物を奈落へと引きずり落とすまで、そのテンポを緩めることはない。
(第4話・了)




