遠くへ置いてきたもの ①
空は、どこまでも透き通る青だ。
町は今日も賑わっている。
通りには露店が並び、焼き菓子の甘い香りと、人々の笑い声が行き交っていた。
旅人を呼び込む声。
子供のはしゃぐ声。
荷車の軋む音。
けれどその賑わいとは裏腹に、エナの胸の内は静まり返っていた。
「ありがとうございました、またどうぞ」
店先で笑いながら頭を下げる。
慣れた笑顔だった。
そうしていないと、周囲に気を遣わせてしまうから。
その時店の扉が開き、鈴の音が小さく鳴った。
「いらっしゃいませ」
顔を上げたエナは、少しだけ目を丸くする。
旅人なのだろう。
この辺りでは見かけない白と薄緑を重ねた軽装。
長い髪を片側で結い、背には何か背負っている。
どこか不思議な空気をまとっていて、人を警戒させない、そんな気配を纏っている。
「少し、休ませていただいても?」
穏やかな声だった。
「ええ、もちろんです」
エナは席へ案内する。
旅人は静かに腰を下ろした。
その時、反射のように、エナの視線が外へ向いた。
通りを歩いていたのは、幼馴染だった。
隣には、彼の妻。
仲睦まじく並んで歩いている。
妻が何かを言うと、彼が笑う。
昔からよく知っている笑い方だった。
胸の奥が、小さく軋む。
けれどエナはすぐに視線を戻し、何事もなかったように微笑んだ。
「ご注文はどうされますか?」
旅人はエナを静かに見つめ、それから小さく目を細めた。
「温かいお茶をいただけますか」
「かしこまりました」
湯を沸かしながら、エナは自分の呼吸を整える。
大丈夫。
いつものことだ。
同じ町にいるんだもの、見慣れている。
もう、慣れているはずなのだ。
そう思い込むように。
やがて茶を運ぶと、旅人は静かに礼を言った。
白く細い指が、湯気の立つ茶器へ触れる。
その仕草まで、どこか落ち着いて見えた。
店の外では、相変わらず人々の笑い声が響いている。
エナは、それを遠くに感じていた。
---
その日の夕暮れ。
仕事を終えたエナは、人通りの少ない川沿いを歩いていた。
街の賑わいから少し離れた場所。
水面が、薄い夕焼けを静かに映している。
石橋のそばで、エナは足を止めた。
そこに、見覚えのある姿があったからだ。
白と薄緑の外套。
背には、不思議な形の荷物。
旅人は、橋の欄干へ軽く寄りかかりながら、暮れていく空を眺めていた。
エナが近づくと、旅人はゆっくりと振り返る。
「おや」
穏やかな声だった。
「あなた、昼間のお客さん」
エナが言うと、旅人は小さく目を細める。
「こんな所でどうされたんですか?」
「宿を探していたんですが」
旅人は川の向こうへ視線を向ける。
「気づけば、少し歩きすぎてしまいました」
それから逆に尋ねる。
「あなたこそ、どうされたのですか?」
エナは少しだけ困ったように笑った。
「たまには、ぼーっと夕日でも眺めようかと思って」
その言葉に、旅人は静かに頷く。
否定も、慰めもしない。
ただ、「そういう日もありますね」とでも言うような穏やかな頷きだった。
沈みかけた夕陽が、旅人の姿を淡く照らす。
エナはそれを見て、ふと尋ねた。
「それは何ですか?」
「これですか?」
旅人は背の荷物へそっと触れ布から取り出した。
「琵琶です」
「琵琶?」
「各地で物語を語りながら、旅をしているんですよ」
エナは少し驚いたように目を瞬かせた。
「じゃあ、あなた……吟遊詩人か何か?」
「ええ、まあ」
吟遊詩人は、おだやかに微笑む。
エナは欄干へ軽く肘をついた。
川面を見つめながら、小さく息を吐く。
「だったら、この気持ちを晴らせるような話、聞かせてくれませんか?」
夕暮れが、静かに深くなっていく。
吟遊詩人は少しだけ目を細めると、その場に座り琵琶を静かに膝へ置いた。
「かまいませんよ」
細い指が、弦へそっと触れる。
吟遊詩人は、しばらく川面を眺めていた。
夕暮れの色が、水へ静かに沈んでいく。
やがて、琵琶の弦をひとつ鳴らした。
澄んだ音が、風のない空気へゆっくり溶けていく。
「これは、ある町で聞いた話です」
穏やかな声だった。
「その町では、不思議な瓶が配られていました」




