EP 6
『黒幕ダントンの足掻きと、逃亡の果て』
「走れ! もっと魔力を絞り出せバカ共がァッ! 鞭を入れろ! 全速力で車輪を回せェッ!!」
夜の街道に、狂乱の怒号が響き渡っていた。
豪奢な四頭立ての魔導馬車の車内。紫のベルベットスーツを汗と泥でドロドロに汚したダントンは、窓枠に爪を食い込ませながら、後方の暗がりへ向けて唾を吐き散らしていた。
さっきまで頭に乗せていたシルクハットはとうに脱げ落ち、ポマードで固めた髪は無様に額へ張り付いている。胸元に輝く大粒の魔宝石すら、恐怖で小刻みに震える皮膚の痙攣に合わせて、カチカチと情けない音を立てていた。
御者台では、生き残った二人の私兵が青ざめた顔で手綱を必死にしごいている。
車軸に組み込まれた高純度魔石のジェネレーターが甲高い悲鳴を上げ、四頭の魔導馬は口から青白い魔力蒸気を吐き散らしながら、漆黒の街道を時速八十キロ近い猛スピードで爆走していた。
車輪が跳ね上げる泥と砂利が、激しい音を立てて車底を叩く。
「ひ……ヒィィッ! な、なんだあの村は! 聞いてないぞ、あんな話は! ただの田舎の限界集落のはずだろうがッ!?」
ダントンは爪を噛み、血が滲むほど指先を痛めつけていた。
手土産代わりに持ち込んだ金貨数百枚分の『ずっ友ロコシ』は粗塩をぶっかけられてゴミ屑にされ、雇い入れた闇ギルドの精鋭部隊は秒殺。あまつさえ、裏ルートで手に入れた切り札――都市攻略用の『死蟲将軍機』に至っては、生身の土木作業員が放った刀の柄頭一発で、内部核を粉砕されて鉄屑と化した。
常軌を逸している。
ドンガン地下帝国の正規軍でも、アバロン魔皇国の特務魔術師団でもあり得ない。
あの作業着の男、そして彼を取り囲んでいた竜や狼、半神の少年――。
「化け物の巣窟だ……! あんなところに手を出していいはずがない! 死ぬ……捕まったら殺される……ッ! ルナ・クレセント商会の資金を全部持ち出して、ムーンキャピタルの地下シェルターへ逃げ込むんだ! オロチ会長に泣きつけば……いや、帝国の亡命ビザを買えば……ッ!」
自らの肥大化した保身と打算だけをブツブツと呟きながら、ダントンは座席の下の金庫を抱え込んだ。
金だ。金さえあれば、どんな不始末も揉み消せる。どんな罪も帳消しにできる。今までだってそうやって、誰かを踏み台にし、誰かの畑を奪い、誰かの人生を買い叩いて甘い蜜を吸い続けてきたのだ。
だが――。
街道の先、ぽっかりと開けた一本道の頭上。
暗雲の切れ間から覗く月光が、冷たく澄み渡った瞬間だった。
――ビュンッ……!
耳朶を打ったのは、風の音ではなかった。
大気そのものが超高圧で圧縮され、空間が軋むような、絶対的な衝撃波の先触れ。
「……ん? おい、上だ! 何か落ちてくるぞォッ!!」
御者台の私兵が絶叫した。
ダントンが慌てて車窓から首を突き出し、夜空を見上げたその刹那。
キィィィィィン――ドォォォォッ!!
上空数百メートルの暗闇から、銀白の光条を曳いて急降下してきた影があった。
翻るオーバーサイズパーカーの白い裾。夜風を切り裂いてピンと直立する純白の兎耳。
そして――超硬質ゴムとミスリル鋼で固められた、タローマン特注安全靴の分厚いソール。
ポポロ村長、月兎族のキャルル(二十歳)。
満月間近の夜気の下、月兎の上位因子を全解放した彼女の脚力は、もはや生身の生物の速度域を完全に置き去りにしていた。
「――私の村の土を踏み荒らして、ただで逃げられると思ってんじゃないわよぉぉぉっ!!」
凛とした、しかし底知れぬ怒りを孕んだ少女の怒号。
空中で身体を鋭く一回転させ、落下の運動エネルギーと脚力を一点へと束ねた必殺の踵落とし――『流星脚』。
目標は、馬車の先頭。右前輪の車軸。
――ズガァァァァァァァァンッッッ!!!!
大気を震わせる大爆発のような轟音が炸裂した。
安全靴の踵が直撃した瞬間、最新式ショックアブソーバーを備えていたはずのミスリル製車軸が、まるで踏み潰された枯れ枝のように粉々に破砕された。
衝撃波が街道の舗装土を円形に吹き飛ばし、直径五メートルのクレーターが穿たれる。
「ヒヒィィィィンッ!?」
前輪を奪われた魔導馬車は、時速八十キロの慣性を逃がす術を失った。
車体が激しく斜めに傾ぎ、バランスを崩して宙へと浮き上がる。
御者台の私兵二人は遠心力で夜空へ放り出され、道端の藪の中へと転がり落ちていった。
「ぎゃああああああああっっっ!?」
車内でダントンが絶叫する。
金箔塗りの豪奢な馬車は、地面を激しく三転半バウンドしながら横転。
バリバリ、メキメキと木枠と車輪を撒き散らしながら、街道沿いの側溝――水深五十センチのドロドロの泥溝の中へ、派手な水柱を上げて突っ込み、ひしゃげた鉄屑となって停止した。
*
立ち込める土煙と、壊れた魔導ジェネレーターから漏れ出す青白い火花。
泥溝の中から、ゴボリ、と汚れた泥水が泡を吹いた。
「ゲホッ……! オエッ……! ごほっ、げほっ……!」
ひしゃげた扉の隙間から這い出してきたのは、ダントンだった。
自慢の紫のスーツは泥水と汚泥を吸ってボロ雑巾のように重く垂れ下がり、首元の金の鎖は引きちぎれている。口の中にも泥が入り込み、吐き出そうとするたびに無様な咳き込みを繰り返していた。
「ひ……死ぬ……助けてくれ……! おい、誰か……!」
手足を使って泥の中を這いずり、あぜ道の上へ這い上がろうとするダントン。
だが、その指先が乾いた草を踏みしめた、その時。
トン。
軽やかな着地音とともに、泥溝の縁に一人の少女が舞い降りた。
キャルルだった。
白のパーカーには泥一粒ついていない。
彼女はショートパンツのポケットに片手を突っ込み、もう片方の手で、愛用する手縫いの人参柄刺繍ハンカチを弄びながら、冷え切ったルビー色の瞳でダントンを見下ろしていた。
「……ずいぶん急いでたみたいだけど、どこへ行くつもりだったの? ダントン代表」
「ひっ……! ば、化け物ウサギ……ッ!」
ダントンは恐怖のあまり後ずさり、泥溝の泥の中に再び尻餅をついた。
目の前に立つ少女の気配は、昼間役場で会った時のような「無邪気な田舎の村長」では断じてなかった。
足元の安全靴からは、いまだバチバチと紫色の雷竜石の魔力が漏れ出し、背後に幻影のように立ち上る月兎の闘気は、いつでも相手の首を刎ね飛ばせるだけの冷酷な刃となって空間を圧迫している。
「ま、待て! 悪かった! 私が悪かった! 村の再開発計画は今すぐ白紙撤回する! 損害賠償も払う! 金貨千枚……いや、一万枚だ! 私の個人口座から今すぐ全額振り込む! だから……命だけは……ッ!!」
ダントンは泥水の中で両手を合わせ、額を泥に擦り付けながら命乞いを始めた。
今まで無数の弱者を金と権力で踏みにじってきた男が、いざ自分が圧倒的な力に晒された瞬間、何の誇りも矜持もなく、ただの惨めなブタへと成り下がっていた。
キャルルは、そんなダントンの姿を眉一つ動かさずに見つめていた。
そして、ふぅ、と静かに息を吐き出す。
「お金の話なら、後でウチの銀行のニャングルが骨の髄まで計算してくれるわよ。……私が怒ってるのはね、そんなことじゃないの」
キャルルが一歩、泥溝の縁へ歩み寄った。
その瞳の奥に宿る光が、冷徹な怒りから、底知れぬ【病的なまでの執着】へと静かに反転する。
「貴方……あの大軍勢で村を襲って、イチキさんの首を獲るつもりだったんでしょ?」
「ひ……っ!?」
「イチキさんのあの綺麗な畑を荒らして……イチキさんの穏やかな生活を奪って……あまつさえ、私の目の前から、イチキさんを奪おうとした」
キャルルがクスリと、可憐に、しかし背筋が凍りつくような甘い笑みを浮かべた。
長い兎耳が、嬉しそうにパタパタと揺れる。
「ねぇ、知ってる? 月兎族ってね、一度『この人』って決めたら、絶対に誰にも渡さないの。世界のどこへ逃げたって追いかけるし、邪魔する奴がいたら……その魂ごと、ミンチにして安全靴で踏み潰しちゃうんだよ♡」
「ヒィィィィィッ……!!」
ダントンの全身から、滝のような脂汗が吹き出した。
目の前の美少女は、ただの怪力戦士ではない。
あの作業着の男――高島一鬼に対して、常軌を逸したレベルの狂気的な執着を抱いている、本物の『ヤンデレ』だったのだ。
「でも、安心して」
キャルルはスッと表情を戻し、街道の後方へと視線を向けた。
「私が手を下すまでもないわ。……ほら、本物の『落とし前』が、やってきたよ」
ザッ……ザッ……。
暗闇の街道の奥から、規則正しい、重厚な足音が響いてきた。
地面を踏みならす、タローマン特注地下足袋の音。
ダントンが怯えきった目で顔を上げる。
夜霧を裂いて現れたのは、ダボついた黒のニッカポッカに、首から手拭いをかけた男。
左の腰には、白木の鞘に収まった一本の打刀(ポン刀)。
高島一鬼が、静かに歩み寄ってきていた。
その歩調には、急ぐ気配も、息の乱れも一切ない。
三十五年の服役生活を終え、ただ現場の仕事を終えて長屋へ帰るかのような、どこまでも平然とした足取り。
しかし――その足音が泥溝の前でピタリと止まった瞬間、街道一帯の大気が、ズンッ!と鉛のように重く沈み込んだ。
「……あ、あ……」
ダントンは声すら出せなくなった。
一鬼の冷え切った漆黒の双眸が、泥溝の中で這い蹲る自分を、静かに見下ろしていた。
逃げ場は、どこにもなかった。
悪辣な陰謀を巡らせてきた成金商人に、ついに真の『ケジメ』の刻が訪れようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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