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君と試す、恋の方程式 〜黒歴史ノートから始まるラブコメ実験〜  作者: 磯辺


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8/11

美術室とネコ

 美術室へ向かう途中、渡り廊下の窓の外で、白いものが動いた。


 校舎裏の塀の上。


 午後の光を受けた、小さな背中。


 それが何だったのか分かる前に、細いしっぽのようなものだけが、塀の向こうへすっと消えた。


 俺は一度だけ足を止めた。


「佐倉、何してんだよ」


 後ろから田辺の声がした。


「……別に」


「美術、遅れるぞ」


「分かってる」


 歩き出す前に、もう一度だけ窓の外を見る。


 塀の上には、もう何もいなかった。


 気のせいだったのかもしれない。


 そう思って前を向くと、少し先を歩いていた小日向まひろも、同じ窓の外を見ていた。


 小日向は何も言わない。


 ただ、塀の方へ一瞬だけ目を向ける。


 それから、何でもない顔で歩き出した。


 俺も、それ以上は見なかった。


 美術室は、普通の教室より少しだけ空気が違う。


 絵の具の匂い。


 乾いた木の机。


 窓際に立てかけられた画板。


 壁に貼られた、誰かの描いた静物画。


 窓は大きくて、午後の光が斜めに入っていた。


 俺は窓際の席に座った。


 特に理由はない。


 ただ、空いていた。


 それだけだ。


 小日向は少し離れた席に座った。


 俺の右斜め前。


 近すぎるわけではない。


 でも、視界から完全に外すには、少し近い。


 美術の三上先生が、黒板の前に立つ。


「今日は、好きなものを描いてください」


 教室が少しだけざわついた。


「好きなものって、何でもいいんですか?」


「何でもいいです。物でも、風景でも、動物でも、人でも。自分が描きたいと思ったものを描くこと」


 好きなもの。


 ずいぶん広い課題だった。


 広すぎると、逆に何を描けばいいのか分からない。


 周りの生徒たちは、机の上に筆箱を置いたり、水筒を並べたり、窓の外を見たりしている。


 田辺は、なぜか自分の消しゴムを持ち上げていた。


「佐倉、これ描く?」


「描かない」


「即答かよ」


「好きなものを描けって言われてるだろ」


「俺の消しゴム、好きじゃないのか」


「好きになる理由がない」


「冷たいな」


 田辺は大げさに肩を落とした。


 俺はそれを無視して、スケッチブックを開く。


 白い紙。


 鉛筆。


 何も決まらない。


 窓でも描くか。


 そう思って顔を上げた時、小日向と目が合った。


 一瞬だけだった。


 小日向はすぐに視線を落として、スケッチブックに鉛筆を置く。


 別に、こっちを見ていたわけじゃない。


 俺の後ろには窓がある。


 窓を見ていただけだ。


 そう考えれば、それで終わる話だった。


 俺も鉛筆を持った。


 けれど、最初の線がなかなか引けなかった。


 小日向の鉛筆は、もう動き始めている。


 しゃっ、しゃっ、と紙をこする音。


 美術室のざわめきに混じっているはずなのに、その音だけが妙に耳に残った。


 小日向が、小さく息を吸う気配がした。


 すっと、首筋が伸びる。


 少し遅れて、耳にかけた髪がさらりと揺れた。


 その視線が、こちらに向く。


 俺は鉛筆を止めた。


 見られている。


 そう思った瞬間、首の後ろが少し熱くなった。


 いや、違う。


 俺の後ろには窓がある。


 小日向は、きっと窓を見ている。


 そう考えれば済む話だった。


 なのに、小日向の鉛筆の音が止まるたび、俺は姿勢を直してしまう。


 背中を丸めすぎていないか。


 手元を見られていないか。


 そんなことを考えている自分に気づいて、余計に腹が立った。


 俺はスケッチブックに窓枠の線を引いた。


 まっすぐ引いたつもりだった線は、少しだけ歪んだ。


 消しゴムで消す。


 もう一度、線を引く。


 小日向の鉛筆は、止まったり、動いたりを繰り返している。


 しゃっ、と紙を削る音が、静かな美術室で妙に硬く響く。


 音が止まる。


 小日向の睫毛が、かすかに持ち上がる。


 また、こちらを見る。


 俺は窓の外へ視線を逃がした。


 校舎裏の塀には、午後の光だけが乗っている。


 小日向は、その方を見ている。


 たぶん、そうだ。


 俺の後ろ。


 窓。


 その向こう。


 そう言い聞かせるほど、小日向の視線が肌の上に残った。


 小日向の目が、ほんの少しだけ細くなる。


 何かを確かめるみたいな顔だった。


 俺は自分のスケッチブックへ視線を戻した。


 窓枠の線が、また少し歪んでいた。


 消す。


 描く。


 また消す。


 紙の上に、薄く黒い跡が残る。


 好きなものを描く授業で、俺は何をしているんだろう。


 窓を描いているはずなのに、窓を見ていない。


 ただ、小日向の視線の先から外れようとしている。


 そのことに気づいて、余計に手元が落ち着かなくなった。


 小日向は何も言わない。


 俺も何も言わない。


 ただ、向こうの鉛筆が止まると、こっちの手も止まる。


 小日向が顔を上げると、俺は窓の外を見る。


 小日向が紙に戻ると、俺も紙に戻る。


 それだけだった。


 それだけなのに、美術室の空気が少しだけ狭くなった気がした。


 先生の足音が近づいて、また遠ざかる。


 誰かが鉛筆を落とす。


 誰かが小さく笑う。


 窓の外で、葉が揺れる。


 小日向の鉛筆の音は、まだ続いていた。


 しゃっ。


 しゃっ。


 その音が止まるたびに、小日向の視線が上がる。


 こちらを見る。


 いや、窓を見る。


 たぶん、窓を見る。


 そのたびに、俺は少しだけ姿勢を正してしまう。


 自分でも、何をしているのか分からなかった。


 しばらくして、小日向のスケッチブックがほんの少しだけ傾いた。


 見えたのは、本当に端だけだった。


 四角い線。


 窓枠のようなもの。


 その奥に、細い影。


 何かの輪郭。


 人の形にも見えた。


 俺はすぐに視線を落とした。


 見間違いだ。


 窓だ。


 美術室の窓。


 窓の外の景色。


 きっと、それだけだ。


 小日向が何を描いているのかなんて、俺には関係ない。


 そう思ったのに、鉛筆を持つ指に少しだけ力が入った。


 線が濃くなる。


 また、消しゴムを取る。


 紙が少しだけ荒れた。


 三上先生が手を叩いた。


「そろそろ終わりです。途中でもいいので、一度手を止めてください」


 教室の空気が少しだけ緩んだ。


 椅子を引く音。


 鉛筆を置く音。


 誰かが小さく伸びをする声。


 俺は自分のスケッチブックに視線を落とした。


 描けていたのは、歪んだ窓枠だけだった。


 何度も消しゴムをかけたせいで、紙の上が黒く汚れている。


 好きなものを描く授業で、これは何を描きたかったのか分からない。


 隣で、小日向が小さく息を吐いた。


 スケッチブックを閉じようとする。


 その一瞬だけ、紙面がこちらに傾いた。


 描かれていたのは、ネコだった。


 校舎裏の塀の上。


 午後の光を背中に受けて、丸くなっている白っぽいネコ。


 目を細めて、眠そうにしている。


 俺は、体の中に残っていた息を少しだけ吐いた。


 ……ネコか。


 小日向は、俺を描いていたわけじゃなかった。


 ただ、窓の外のネコを描いていただけだった。


「……ネコ、いたんだな」


 声に出すと、小日向は閉じかけたスケッチブックの角を、指先でそっと押さえた。


「いたよ」


「外に、か」


「うん。外に」


 それだけだった。


 俺は窓の外を見た。


 もう、白い影はどこにもなかった。


「実験結果」


 小日向が言った。


 声は、いつもより少しだけ静かだった。


「好きなものは――思ったより、目に入ります」


 俺は何も言い返せなかった。


 何が目に入ったのか、聞くことはできた。


 でも、聞かなかった。


 聞いたら、さっきまで勝手に考えていたことまで、全部ばれる気がした。


 俺は自分のスケッチブックを閉じた。


 窓枠しか描けなかった紙が、ぱたんと音を立てる。


 美術室の窓には、傾きかけた午後の光だけが残っていた。


 描かれていたのは、ネコだった。


 それだけのはずだった。


 小日向はそれ以上、何も言わなかった。


 俺も、何も聞かなかった。


 ただ、閉じられる直前の絵が、少しだけ目に残っている。


 ネコの後ろ。


 光を反射した窓ガラス。


 その中に、薄く描き込まれた机と椅子。


 鉛筆を持った、小さな影。


 でも、それは背景だった。


 ネコの絵の、ただの背景。


 そう思うことにした。


 小日向は何でもない顔で、ぱたん、とスケッチブックを閉じた。

ここまで読んでくださってありがとうございます。


第8話は、美術室とネコの話でした。


今回は大きな事件ではなく、視線、鉛筆の音、閉じられるスケッチブックだけで進む回にしました。


佐倉はただネコの絵だと思っている。


でも、本当にそれだけだったのか。


小日向が何を見て、何を描いたのか。


そのあたりを想像しながら読んでもらえたら嬉しいです。


この二人の距離感が少しでも好きだと思っていただけたら、

感想、評価、ブックマークなどで応援してもらえると、とても励みになります。


一言だけの感想でも大歓迎です。

「小日向ずるい」「佐倉、意識しすぎ」みたいなリアクションでも、めちゃくちゃ嬉しいです。


次回も、佐倉と小日向の“言わないけど伝わってしまう距離”を書いていきます。

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