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君と試す、恋の方程式 〜黒歴史ノートから始まるラブコメ実験〜  作者: ロマンマロン


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7/10

小テストと一点差

 五日が経った。


 五日も経てば、たいていのことは少し薄れる。


 教室のざわめきも、窓から入る風の温度も、小日向が隣の席にいることも。


 慣れた。


 少なくとも、そう思うくらいには。


 朝の教室で、俺は机の中に教科書を入れた。


 右隣では、小日向まひろが何でもない顔でノートを開いている。


 シャーペンを机の端に置く音。


 ページをめくる紙の音。


 前なら、その一つひとつにいちいち反応していた。


 今は、少しだけ慣れた。


 ……はずだった。


「佐倉くん」


「……何」


 小日向が、ノートから目を上げずに言った。


「今日、国語の小テストだよね」


「……そうだな」


「勉強してきた?」


「一応」


「じゃあ、勝負できるね」


「……何でそうなる」


「点数勝負」


「しない」


「早いね」


「小テストの日に、わざわざ勝負を持ちかけてくる時点で、だいたい面倒だろ」


「面倒って決めつけるんだ」


「違うのか」


「少しだけ」


「ほらな」


 小日向は悪びれた様子もなく、机の端に置いたシャーペンを指で転がした。


「佐倉くんが勝ったら」


「……何だよ」


「ノート、返してあげる」


 指先が止まった。


 ノート。


 それだけで、すぐに分かる。


 黒い表紙。


 銀色の星シール。


 表紙裏に書かれた、見たくもない文字。


 恋愛展開研究ノート 極秘。


 あの黒歴史ノートは、まだ小日向のカバンの中にある。


「……本当だな」


「うん」


「勝ったら、ちゃんと返すんだな」


「返すよ」


 小日向は何でもない顔で言った。


 その何でもない顔が、一番信用できない。


 けれど、返してもらえる可能性がある。


 それだけで、断る理由が一つ減った。


「じゃあ、やる」


「早いね」


「目的がはっきりしたからな」


「そんなに返してほしいんだ」


「当たり前だろ」


「そっか」


 小日向は少しだけ笑った。


「じゃあ、私が勝ったら」


「……何だよ」


「お願いを一つ聞いて」


「やっぱりそう来るのか」


「できる範囲で」


「その条件が一番怖い」


「大丈夫。普通のお願いだから」


「小日向の普通は信用できない」


「ひどい」


「自覚あるだろ」


「少しだけ」


「そこで認めるな」


 小日向はシャーペンを止めた。


 その先が、俺の机との境目を向いている。


「それで、どうする?」


「やるって言っただろ」


「うん」


「ただし、本当に変なのはなし」


「うん」


「あと、人前で変なことを言うのもなし」


「うん。分かった」


「本当だな」


「うん」


「……信用していいんだな」


「少しだけなら」


「そこは全部信用させろ」


「じゃあ、できるだけ」


「不安しかない」


 小日向は小さく笑った。


 チャイムが鳴った。


 教室の前の扉が開いて、高瀬先生が入ってくる。


 教卓にプリントの束が置かれた瞬間、教室の空気が少しだけ沈んだ。


「今日は予定通り、小テストをする」


 ほら、という顔を小日向がした。


 俺は見ないふりをした。


「前回の短歌の確認だ。五分で終わる。教科書とノートはしまえ」


 前回の短歌。


 その言葉で、胸の奥が少しだけ引っかかった。


 春の終わり。


 窓辺の風。


 君の横顔。


 見ないふり。


 忘れたことにしていた言葉が、黒板の見えないところから戻ってくる。


「佐倉くん」


 小日向が小さく呼んだ。


「何」


「勝ったら、ノートだね」


「分かってる」


「負けたら、お願い」


「それも分かってる」


「うん」


「何で嬉しそうなんだよ」


「勝負だから」


「……絶対勝つ」


「そういう顔、初めて見たかも」


「見るな」


「見ないと、分からないよ」


「小テスト前に揺さぶるな」


 高瀬先生がプリントを配りながら言った。


「名前を書け。始めたら私語はなし。隣を見るのもなしだ」


 俺は小日向を見た。


「聞いたか」


「聞いたよ」


「話しかけるなよ」


「うん」


「本当に」


「うん」


 小日向は前を向いたまま、少しだけ口元を緩めた。


 プリントが回ってきた。


 俺は名前を書いた。


 佐倉悠真。


 隣で、小日向のシャーペンが同じように動く音がした。


「始め」


 高瀬先生の声で、教室が静かになる。


 聞こえるのは、紙の擦れる音と、シャーペンの音だけだった。


 一問目。


 二問目。


 思ったより普通だった。


 短歌の形式。


 季語。


 表現技法。


 心情の読み取り。


 小テストらしい小テスト。


 授業を聞いていれば、そこまで難しくない。


 このままなら、勝てる。


 勝てば、ノートが返ってくる。


 あの黒歴史ノートが、小日向のカバンから戻ってくる。


 そう思うと、いつもより少しだけ集中できた。


 最後の問題を見るまでは。


 問五。


 前回の授業で、自分たちのペアが作った短歌を書き、その短歌に込めた思いを説明しなさい。


 シャーペンの先が止まった。


 サービス問題だった。


 前回の授業をちゃんと受けていれば、難しくない。


 自分たちで作った短歌を書いて、その意味を説明するだけ。


 勉強をしていなくても、覚えてさえいれば解ける。


 それなのに、俺にとっては一番書きづらい問題だった。


 春終わる。


 窓辺の風が。


 近すぎて。


 君の横顔。


 見ないふりする。


 頭の中で、あの五句が勝手に並ぶ。


 書ける。


 覚えている。


 だから、困る。


 隣から、さらさらとシャーペンの音が聞こえた。


 小日向は迷っていない。


 そう思った瞬間、隣の机で小日向の左手が動いた。


 答案の端に、そっと乗る。


 問五のあたりを隠すように。


 見ていない。


 見るつもりもない。


 それなのに、見られたくないと思われたことだけが、妙に残った。


 俺は解答欄を見た。


 白い空白。


 そこに何を書けばいいのかは、分かっている。


 分かっているから、書きづらかった。


 俺はまず、短歌を書いた。


 春終わる

 窓辺の風が

 近すぎて


 君の横顔

 見ないふりする


 そこまではいい。


 問題は、そのあとだった。


 この短歌に込めた思い。


 そんなもの、まともに書けるわけがない。


 隣の人を意識している。


 見ないふりをしている。


 言葉にすると、正解になる。


 けれど、正解にしてしまうと、何か別のものまで認める気がした。


 高瀬先生が教室の前で時計を見る。


 残り時間はほとんどない。


 ここで空欄にするわけにはいかない。


 ノートがかかっている。


 俺は息を吐いて、シャーペンを動かした。


 春の終わりに、隣の人を意識している。


 それだけを書いた。


 自分の言葉ではない。


 けれど、間違いではない。


「そこまで。後ろから集めろ」


 小テストは回収された。


 隣で、小日向が答案から手を離す。


 俺は前を向いたまま、消えていく答案の束を見ていた。


「終わった?」


 小日向が小声で言った。


「終わった」


「最後の問題」


「言うな」


「まだ何も言ってないよ」


「言いそうな顔だった」


「顔で分かるんだ」


「分からない」


「どっち?」


「……返ってきてからだ」


「うん。返ってきてから」


 小日向はそれ以上言わなかった。


 その沈黙の方が、かえって落ち着かなかった。


 小テストが返ってきたのは、次の日の国語の時間だった。


 高瀬先生が答案の束を持って教室に入ってきた瞬間、教室の空気が少しだけ変わった。


「昨日の小テストを返す」


 隣で、小日向が姿勢を正した。


「緊張してる?」


「してない」


「本当に?」


「……少しだけ」


「ノート、かかってるもんね」


「そうだな」


「私は、お願いがかかってる」


「言い方」


「大事だから」


「何が」


「勝負」


 高瀬先生が番号順に名前を呼んでいく。


「佐倉」


「はい」


 答案を受け取る。


 点数はまだ見ない。


「小日向」


「はい」


 小日向も答案を受け取って席に戻った。


 俺たちはしばらく、互いに答案を裏返したまま黙っていた。


「点数、見た?」


「まだ」


「私も」


「同時に見る必要あるか?」


「勝負だから」


「……分かった」


 俺は答案を表に返した。


 赤い数字が見える。


 八十八点。


 悪くない。


 悪くないどころか、この小テストなら十分だった。


 勝てる。


 そう思った。


「何点?」


 小日向が聞く。


「そっちから言え」


「佐倉くんから」


「……八十八」


 俺は答案を少しだけ小日向に見せた。


 小日向は自分の答案を見る。


 少しだけ間が空いた。


「私は」


「……」


「八十七」


 心臓が、一つ大きく鳴った。


 勝った。


 思わず、息が漏れる。


「……勝った」


 小日向は答案を見たまま、少しだけ肩を落とした。


「うん。負けちゃった」


 その言い方が、思ったより素直だった。


 だから余計に、勝った実感が遅れて来た。


 黒歴史ノートが返ってくる。


 あのノートを、やっと取り返せる。


「じゃあ、ノート」


「まだ」


「……は?」


 小日向は答案を持ったまま、前を向いた。


「勝負、まだ終わってないよ」


「終わっただろ。八十八対八十七」


「今はね」


「今はって何だよ」


 小日向が、すっと手を上げた。


「先生」


 何で今、先生を呼ぶ。


 何をするつもりなのか分からないまま、俺は小日向の横顔を見ていた。


 高瀬先生がこちらを見る。


「どうした、小日向」


「問五、丸がついてるんですけど、点数に入ってないみたいです」


 その言葉で、ようやく意味が分かった。


 遅かった。


 いや、最初から何も止められなかった。


 高瀬先生が小日向の答案を受け取る。


 赤い丸のところを見る。


「ああ、悪い。採点漏れだな。問五は二点」


 赤ペンが動いた。


 八十七の横に、二点が足される。


 八十九。


 数字が、赤く書き直された。


「これでいい」


「ありがとうございます」


 小日向が答案を受け取る。


 俺はその数字を見たまま、しばらく動けなかった。


 八十九。


 八十八。


 一点差。


「……一点差」


 小日向が小さく言った。


「一点差だね」


「今のは、ほぼ事故だろ」


「でも、勝ちは勝ち」


「……勝ちは勝ち、か」


「うん」


「ずるい」


「どこが?」


「全部」


 小日向は答案を胸元に引き寄せた。


 勝ち誇るほどではない。


 けれど、口元だけがほんの少し緩んでいた。


「ノートは?」


「返せないね」


「……」


「勝負だから」


「……最悪だ」


「それと」


「まだあるのか」


「お願い、一つ」


 黒歴史ノートは返ってこない。


 そのうえ、お願いまで残った。


 八十八点。


 八十九点。


 たった一点。


 その一点が、思ったより重かった。


 小日向は答案を机の上に置いた。


 赤い丸が並んでいる。


 俺は見ないようにした。


 見ないようにしたのに、問五のところだけが、どうしても視界に入る。


「問五、何て書いたんだよ」


「内緒」


「勝負を決めた答えだろ」


「だから内緒」


「意味が分からない」


「佐倉くんには、まだ見せない」


 まだ。


 その一言が、妙に引っかかった。


 いつか見せるみたいな言い方だった。


「……ずるいだろ」


「うん」


「認めるな」


「だって、勝ったから」


「……そればっかりだな」


「勝ったから」


 小日向は答案を少しだけ俺の方へ寄せた。


「私の、見る?」


「……見せる気あるのか」


「あるよ」


 そう言って、小日向は答案を俺の方へ向けた。


 けれど、問五のところだけを指先で押さえていた。


 赤い丸だけが、指の隙間から少しだけ見える。


「隠してるだろ」


「うん」


「何でだよ」


「全部見せたら、つまらないから」


「小テストの答案に、つまるとかあるのか」


「あるよ」


 小日向は、問五を隠したまま笑った。


 さっき二点が足された場所。


 俺を負かした場所。


 そこに何が書いてあるのかだけが、見えない。


「佐倉くんの答えは?」


「普通」


「普通って便利だね」


「小テストだぞ」


「見せて」


「嫌だ」


「勝った方のお願い、ここで使ってもいい?」


「やめろ」


「じゃあ、普通にお願い」


「もっと断りづらい言い方をするな」


 小日向は、問五を隠したまま俺を見ていた。


 その視線が、急かしているようで、急かしていない。


 俺は負けた答案の端を持った。


「……少しだけだぞ」


「うん」


「笑うな」


「笑ってないよ」


「笑ってる」


「少しだけ」


「……ほら」


 俺は答案の端を持って、小日向の机へ少しだけ寄せた。


 小日向はすぐには読まなかった。


 両手で答案を受け取って、問五のところで視線を止める。


 赤い丸の下。


 俺の字で書かれた一文。


 春の終わりに、隣の人を意識している。


 小日向の指先が、答案の端をほんの少し押さえた。


 からかう言葉は、すぐには来なかった。


 その沈黙の方が、何か言われるより落ち着かなかった。


「……佐倉くん」


「何」


「逃げたね」


「逃げてない」


 俺はそっぽを向いた。


 耳の裏が、少し熱い。


「答えとしては間違ってないだろ」


「うん。間違ってない」


 小日向はまだ答案を見ていた。


「でも、佐倉くんの言葉じゃない」


「小テストの答えに自分の言葉とかあるか」


「あるよ」


「……あるのかよ」


「私は、書いたよ」


「知ってる」


「見せないくせに」


「うん」


「そこは否定しろ」


「まだ、だよ」


 小日向は俺の答案を返した。


 返す時、指先が赤い丸の近くを少しだけなぞった。


「何て書いてあった?」


「言わない」


「言えるでしょ」


「言わない」


「どうして?」


「小日向の答えだから」


 言ってから、少しだけ失敗したと思った。


 小日向が黙ったからだ。


 いつもならすぐに返ってくる言葉が、返ってこない。


 小日向は自分の答案を机に戻し、隠していた問五のところを見つめていた。


「……そっか」


「何だよ」


「ううん」


「その沈黙やめろ」


「佐倉くんの方が、今ちょっとずるい」


 ちょうどその時、後ろから声がした。


「佐倉」


 田辺だった。


 俺は反射的に答案を裏返した。


「……何だよ」


「さっきから何してんの」


「何も」


「答案、隠しただろ」


「点数見られたくなかっただけだ」


「小日向の答案も?」


「見るな」


「まだ見てないだろ」


「見ようとした顔だった」


「どんな顔だよ」


「怪しい顔」


「怪しいのはお前らだろ」


「怪しくない」


「怪しくないやつは、そんな早く否定しない」


 田辺はにやっと笑った。


 嫌な顔だった。


「で、勝負でもしてたの?」


「してない」


「したよ」


「小日向」


 小日向は何でもない顔で答えた。


 田辺の目が、分かりやすく楽しそうになる。


「したんだ」


「点数を比べただけだ」


「それを勝負って言うんじゃないのか」


「言わない」


「言うよ」


「小日向、合わせるな」


「どっち勝った?」


「聞くな」


「私」


「言うな」


「一点差で」


「細かい情報まで出すな」


「おー、佐倉、負けたんだ」


「うるさい」


「で、何か賭けてた?」


「賭けてない」


「ノート」


「っ、小日向……!」


 心臓が止まるかと思った。


 俺は反射的に小日向の方を見た。


 小日向は、しまった、という顔をしなかった。


 ただ、何でもないみたいに答案の端を指で押さえている。


 田辺だけが、楽しそうに首を傾げた。


「ノート?」


「ただの、授業のノートだ」


 声が少し上ずった。


 自分でも分かった。


「ただのノートを賭けるか?」


「賭けてない」


「賭けたよ」


「小日向」


 今度は少し低い声になった。


 田辺が目を細める。


「何その反応。逆に気になるんだけど」


「気にするな」


「無理だろ」


「無理でも気にするな」


「それ、もっと気になるやつだぞ」


 田辺が一歩近づこうとしたので、俺は机の上の答案をさらに裏返した。


 小日向の答案も、見えないように手で押さえる。


 田辺がそれを見て、口元を押さえた。


「……佐倉、お前さ」


「何だよ」


「分かりやすすぎ」


「うるさい」


「あと、お願い」


「小日向」


 小日向が、また余計なことを言った。


 田辺の顔がさらに面倒な方向へ変わる。


「お願い?」


「何でもない」


「何でもなくないだろ。ノート賭けて、お願いまであるの?」


「ない」


「あるよ」


「小日向、黙ってろ」


「うん」


 あまりにも素直に黙った。


 だから余計に怪しかった。


 田辺は俺と小日向を交互に見た。


「……あとで聞くからな」


「聞くな」


「無理」


 田辺はにやにやしたまま離れかけて、二歩進んだところでわざわざ振り返った。


「小日向、あとで教えて」


「教えないよ」


「え、そっちは断るんだ」


「うん」


「何で」


 小日向は少しだけ俺の方を見た。


 それから、田辺に向き直る。


「佐倉くんが困るから」


「……」


 田辺の視線が、俺に刺さった。


「佐倉、顔」


「うるさい」


「はいはい。今度こそ戻りますよ」


 田辺が離れていく。


 俺は小さく息を吐いた。


 息を吐いてから、自分が思ったより力を入れて答案を押さえていたことに気づいた。


 隣で、小日向が答案を机の端に寄せる。


「隠すの、早かったね」


「誰のせいだよ」


 小日向は答えなかった。


 ただ、机の上の答案を半分に折った。


 赤い点数が見えなくなる。


 そのまま、前を向く。


「勝った方のお願い、まだ言ってないよ」


「……今言うのか」


「ううん」


 短い返事だった。


 それなのに、そこで終わらないことだけは分かった。


 小日向は折った答案の端を、指先で押さえている。


「今は、言わない」


「……」


「その方が、気になるでしょ」


 否定しようとして、できなかった。


 小日向は前を向いたまま、ほんの少しだけ笑った。


 明日でも、放課後でもない。


 いつか分からないところに、お願いだけが残された。


 教室のざわめきが、少しだけ戻ってくる。


 小日向は何でもない顔で筆箱を閉じた。


 かち、と小さな音がした。


 その手が、机の横に掛けたカバンへ落ちる。


 指先が、カバンの口にほんの少しだけ触れた。


 そこに何が入っているのか。


 俺には、分かっていた。


「実験結果」


 小日向が小さく言った。


「勝負は――思ったより、最後まで分かりません」


 最後まで。


 その言葉が、答案用紙の赤い数字よりも強く残った。


 点数の話だけではない。


 そんな気がした。


 けれど、聞かなかった。


 聞いたら、小日向の思うつぼだと思った。


 小日向はそこで、ようやくこちらを見た。


 何でもない顔だった。


 けれど、口元だけがほんの少し緩んでいる。


「その時まで、覚えててね」


 それだけ言って、小日向はすぐに前を向いた。


 何事もなかったみたいに、折った答案を机の中へしまう。


 言い返そうとして、言葉が出なかった。


 机の上には、八十八点の答案がある。


 隣には、八十九点の答案があった。


 返ってくるはずだったノートは、返ってこなかった。


 小日向の問五の答えも、まだ分からない。


 勝った方のお願いも、まだ分からない。


 たった一点の差。


 ただの数字でしかないはずなのに。


 その一点が、これから先のどこかに、まだ続いている気がした。

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