第8話「友達」
第8話「友達」
夕暮れの屋上。
金網越しに見える街並みが、オレンジ色に燃えている。
俺はふらりと扉を開けた。
ここなら静かに考え事ができる。
(……先客か)
金網のそばに、誰か立っていた。
黒髪の一本結び。
背筋が伸びた、見覚えのある後ろ姿。
「白河さん?」
俺が呼ぶと、彼女は肩をびくりと揺らした。
ゆっくりと振り返る。
夕日を背にした澪の表情は、影になってよく見えない。
「……崎山さん」
彼女は驚いたように目を見開いた。
この屋上は、生徒会室よりもずっと空気が冷たい。
「こんなところでどうしたんですか」
「少し、風にあたりたくて」
澪は言葉を濁した。
いつもなら完璧な笑顔で繕うはずの場所が、今はどこか不安定だ。
「何かあったのか」
「……いいえ。ただ、少し考えごとを」
澪は再び視線を街の方へ戻した。
その横顔が、どこか切なげに見える。
(考えごとってなんだ)
この世界の男子への憧れ。
白河家としての重圧。
彼女が抱えているものは、俺には想像もつかないほど重い。
「なら、邪魔しました」
俺が背を向けようとした時だった。
「待ってください」
澪の声が、風に混じった。
強い力で、俺の袖を掴んでいる。
「今日の作業ですが……」
彼女は書類を抱えたまま、俯いた。
ペンを握る指に、白い力が入っている。
「ミスがありましたか?」
「いえ、そうではなく」
澪の手元が、小さく震えている。
(なんだ?)
「その、先日のことです」
「先日の?」
俺は小首を傾げた。
「私が、笑った、という件です」
(気にしてるな)
昨日の放課後、彼女は確かに笑った。
初めて見る、綺麗な笑顔だった。
「変でしたか?」
「いえ、綺麗でしたよ」
俺は思ったままを言った。
嘘をつく理由もない。
澪の体が、びくりと跳ねた。
夕日の色以上に、彼女の頬が赤く染まっていく。
「き、綺麗……っ」
(あ、また赤い)
彼女はガバッと顔を伏せた。
黒髪の一本結びが、風に乱れる。
(褒めたらダメだったか?)
この世界の男子の言葉は、女子にとって重い。
不用意な発言は、相手を過剰に刺激する。
「……崎山さんは、いつもそうです」
澪が髪の隙間から、蚊の鳴くような声で言った。
「どういう意味です?」
「私を、白河の人間として見ない」
(ただの同級生だしな)
「普通の、一人の人間として、接してくださる」
(それが普通だろ)
俺にとっては、彼女も他の奴らと同じだ。
少し家柄が良くて、真面目すぎるだけの女子高生。
澪が深く、息を吸い込んだ。
顔を上げる。
覚悟を決めたような、強い目だった。
「だから、私は」
「はい」
「……友達に、なってもいいですか」
風の音が、急に止まったような気がした。
金網越しに、街の明かりが灯り始める。
(今、なんて言った)
聞き間違いかと思った。
この世界の女性が、男子にそんなことを言うはずがない。
「友達、ですか」
俺は念のために確認した。
「……おかしいですか」
澪の声が、さらに小さくなる。
彼女の肩が、微かにすぼまった。
「おかしくないです」
俺は即答した。
(全然おかしくない)
前世では、ごく普通のやり取りだ。
そこに特別な手続きなんて必要ない。
「なりましょう」
俺は言った。
澪がやっと顔を上げた。
黒い瞳が、大きく見開かれている。
耳まで真っ赤だ。
「よろしくお願いします」
澪が深く、頭を下げた。
いつもより、ずっと長い一礼だった。
「よろしくお願いします」
俺も頭を下げた。
(なんか敬語で友達になったな)
でも、悪くなかった。
彼女の必死な様子が、少しだけ伝わってきたからだ。
「ふう……」
澪が屋上の柵に手をつき、大きく息を吐いた。
(お疲れだな)
「大丈夫ですか」
「命が、すり減りました」
澪が胸のあたりを押さえた。
(大袈裟だな)
友達の申請をしただけだ。
まるで、大手術でも終えたような顔をしている。
「友達になるだけで?」
俺は苦笑した。
「白河の人間にとって、個人的な関係を結ぶことは、それだけの意味を持ちます」
澪が真剣な目で俺を見た。
「国家の管理外で、特定の男子と繋がる。これは、一歩間違えれば、不祥事です」
(そうなのか)
(知らなかったぞ)
この世界の男子は国家の財産だ。
勝手に仲良くなるのも、色々と面倒なルールがあるらしい。
「じゃあ、やめますか?」
俺は一応、聞いてみた。
「いいえ! やめません」
澪が激しく首を振った。
(強いな)
「契約は成立しました。覆せません」
(契約じゃないんだが)
彼女の真面目すぎる性格が、ここでも出ている。
「……怒ってます?」
澪が不安そうに、俺の顔を覗き込んできた。
上目遣いだ。
「怒っていません。ただ、その……」
俺は言葉を探した。
「初めての、ことなので」
澪が視線を逸らす。
(初めてか)
(友達がいなかったのか)
完璧であることを求められたお嬢様。
彼女を「白河の顔」としてしか見ない世界。
(可哀想に)
「じゃあ、俺が最初の友達ですね」
俺は言った。
「はい。そうです」
澪の口元が、小さく緩んだ。
夕日に照らされて、昨日の笑顔よりもずっと柔らかい。
(また笑った)
(いいな、これ)
俺は少し、嬉しくなった。
目の前の少女が笑った。
それだけで、十分だ。
「あの、ゆうさん」
澪が俺を呼んだ。
今度は、躊躇いがなかった。
「はい」
「友達、ですから」
彼女は自分に言い聞かせるように、言葉を区切った。
「ええ」
「その……呼び方ですが」
澪が上目遣いで、俺を見る。
「ゆうさん、で、よろしいでしょうか」
「いいですよ。俺も、澪って呼んだ方がいいですか?」
俺が聞くと、澪は顔を真っ赤にした。
両手で顔を覆ってしまう。
「っ……! い、いきなりは、その、心の準備が」
(ダメなのか)
(名前で呼ぶの、そんなに重いのか)
「じゃあ、白河さんで」
俺は提案を引き下げた。
「はい。徐々に、でお願いします」
澪が指の隙間から、こちらを見た。
(徐々にってなんだ)
まあ、彼女のペースに合わせればいい。
「じゃあ、降りますか。白河さん」
俺は屋上の扉を開けた。
「はい。ゆうさん」
澪も立ち上がった。
夕闇の中、その足取りは軽い。
校舎の階段を下りる。
すれ違う生徒たちが、俺たちを見て凍りついた。
(めちゃくちゃ見られてるな)
だが、澪は凛とした態度を崩さない。
どこか誇らしげにさえ見える。
「ゆうさん」
澪が小さな声で耳打ちしてきた。
「なんですか」
「私たちは、友達ですから」
(分かったから)
「気にする必要はありません」
(俺は気にしてないが、周りが気にしてるぞ)
校門を出ると、黒い高級車が停まっていた。
「では、ここで」
澪が足を止めた。
「じゃあな」
俺は手を挙げた。
「はい。また明日、ゆうさん」
澪が車に乗り込む。
窓が開いて、彼女が小さく手を振った。
(手を振るんだ)
車が静かに走り去っていく。
(普通にしてただけなんだが)
俺は駅に向かって歩き出した。
ただ、目の前の女の子と、普通に話しただけだ。
それが、彼女にとっては世界をひっくり返すような大事件だったらしい。
(また明日か)
電車に乗り込み、俺は目を閉じた。
耳の奥に、彼女の小さな笑い声が残っている気がした。




