第2話「白河家の朝」
第2話「白河家の朝」
午前六時。
アラームが鳴る一秒前に、意識を覚醒させる。
指先が音を殺してスイッチを弾いた。
カーテンを開ける。
左右の隙間は均等。
光が床の木目を正確になぞる。
鏡の前に立ち、ブラシを手に取る。
(……今日も、間違えないように)
一筋の乱れもなく、黒髪が一本の線に収束していく。
襟元のリボンを指先で整える。
鏡の中の自分と目が合う。
そこには何の感情も映っていない。
完璧な、白河澪。
(よし)
私は小さく息を吐き、部屋を後にした。
朝食の席は、深海のような静寂に沈んでいる。
厚手のテーブルクロス。
磨き抜かれた銀食器。
父は新聞をめくり、母は静かに紅茶を啜る。
食器の接触音さえ「汚れ」になる空間。
「……昨日の活動報告を」
父の声が、硬質な壁に反射して届く。
視線は新聞に向けられたままだ。
「滞りありません。生徒会の事務、および男子生徒の動向確認。特記事項はありません」
私の声もまた、その静寂の一部として溶けていく。
「よろしい。白河のブランドに傷をつけるな。お前は静謐そのものであれ」
父がページをめくる。
乾いた音が響く。
「承知しております」
私は、完璧な所作でサラダを口に運んだ。
美味しい、とは思わない。
ただ、白河澪というシステムを維持するための作業。
「体調は」
母が、音もなくカップを置いた。
「万全です」
「そう。管理を怠らないように」
会話はそこで終わる。
母も、私を見ない。
そこに「一点の曇りもない結果」が座っているという事実。
それだけを、二人は確認している。
(……味がしない)
レタスの青臭さが鼻を抜ける。
昨日の放課後、生徒会室で崎山さんが食べていた、あの安っぽい購買パン。
あの暴力的なソースの匂いが、なぜか今、この完璧な食卓を汚すように脳裏にこびりついていた。
登校を急ぐ黒塗りの車。
防音加工の施された空間は、外界の音をすべて遮断している。
私は、膝の上で組んだ自分の指をじっと見つめていた。
昨日、崎山さんに名前を呼ばれたときの感覚。
それが、皮膚の裏側に残っている。
(なぜ、あの人はあんなふうに呼ぶのか)
『白河さん』
あの声には、この家にあるような「期待」も「監視」も含まれていなかった。
ただの、記号としての呼びかけ。
それが、どれほど私の肺を楽にしたか。
(……変な人)
窓の外、自転車で登校する生徒たちの群れが見える。
女子生徒たちが、腫れ物に触れるような距離を保ってその後ろを歩いている。
それが、この世界の正しい景色。
(なぜ、崎山さんは普通に話しかけてくるんだろう)
(なぜ、私を呼ぶとき、一瞬だけ間があるんだろう)
わからない。
私はバッグの持ち手を、爪が白くなるほど強く握りしめた。
指先が微かに震えている。
車内のエアコンは完璧に温度を保っているはずなのに。
(……熱い)
指先だけが、自分じゃないみたいだった。
教室の引き戸を開ける。
一瞬で、むせ返るような少女たちの熱気が押し寄せた。
私の席の数メートル先。
崎山ゆうが、欠伸を噛み殺しながら窓の外を眺めている。
目が合う。
彼はただ、気だるげに片手を上げた。
「おはよう、白河さん」
(……あ)
胸の奥が、不規則に脈打つ。
一音、一音が、私の張り詰めた内面を叩き割っていく。
(……心臓が、うるさい)
私は顎を引き、一糸乱れぬ動作で挨拶を返した。
「……おはようございます。崎山さん」
自分の席に座り、鞄を置く。
その手が、いつものルーチンから一瞬だけ外れ、机の端を強く擦った。
女子たちの視線が刺さる。
(一ミリ。……本当は、あと一ミリだけ)
カバンから取り出したノートの白さが、目に刺さる。
私は震える指先をペンで押さえつけた。
隣から聞こえてくる、彼の呼吸。
それだけが、この異常な世界で唯一、本物のように聞こえた。




