第9話「用件がなかった」
第9話「用件がなかった」
校舎の影が、グラウンドの端まで長く伸びていた。
放課後の喧騒も今は昔。廊下を渡る風だけが、どこか寂しげな音を立てている。
俺は生徒会室に届け物を済ませ、昇降口へと向かっていた。
階段の踊り場で、上から降りてきた白河澪と鉢合わせた。
「あ……」
白河が足を止める。
俺も足を止め、軽く会釈をした。
「お疲れ様です、白河さん」
いつもなら、ここで彼女は事務的な連絡を口にするか、あるいは完璧な所作で会釈を返し、通り過ぎるはずだった。
だが、白河は手元のバッグの持ち手を、ぎゅっと握りしめた。
「崎山さん。……少し、よろしいでしょうか」
「はい」
(またアンケートの確認か?)
俺は立ち止まり、彼女の言葉を待った。
白河は視線を斜め下の床に向けたまま、小さく唇を動かした。
「……崎山さんは、帰り道は遠いですか」
「十五分くらいです」
俺はありのままを答えた。
「そうですか。わたしも……車でですが、同じくらいです」
「そうですか」
沈黙が流れる。
窓の外で、カラスが一度だけ鳴いた。
白河はそれ以上、何も言わなかった。
「……では、また」
彼女はそう言い残すと、いつもの凛とした歩調で階段を下りていった。
だが、後ろから見る彼女の耳の端が、夕日のせいか、わずかに赤くなっているように見えた。
俺は、踊り場で数秒間、立ち止まったままだった。
(……用件が、なかった)
今まで、彼女が俺に話しかける時は必ず理由があった。
書類の不備、集計の依頼、スケジュールの確認。
けれど、今の質問には目的がなかった。
ただの、なんでもない日常の会話。
それがこの世界の彼女にとって、どれほど「普通」ではないことか。
俺は階段を下りながら、自分の中に生まれた小さな違和感を反芻した。
【白河澪・視点】
校門に停まった車の後部座席で、私は自分の掌を見つめていた。
まだ、指先が微かに震えている。
(私は、何を……)
聞く必要のないことを聞いた。
時間を奪い、負担をかけた。
白河家の人間として、生徒会役員として、あってはならない「無駄」な接触。
『わたしも同じくらいです』
あんな返答、彼が知ったところで何の意味もない。
それなのに、胸の奥がひどく熱い。
「お嬢様、いかがなさいましたか?」
運転手の問いかけに、私は慌てて顔を上げた。
「……いいえ。少し、風にあたりすぎただけです」
私は窓の外に視線を逸らした。
流れていく景色の中に、さっきの彼の、何の疑いも抱いていない真っ直ぐな瞳が、いつまでも焼き付いて離れなかった。




