第9話「返却」
第9話「返却」
廊下を歩く足音が、いつもより硬く響く気がした。
すれ違う生徒たちの視線が、皮膚の表面をなでるように通り過ぎていく。
(……少し、騒がしいな)
気にせず、教室の引き戸を開けた。
◇ ◇ ◇
昼休み。
喧騒としていた教室の空気が、一点から凍りついたように静まり返った。
入り口に、白河澪が立っていた。
背筋を伸ばし、黒髪を一つに結んだ姿は、周囲の雑多な風景から切り離された絵画のようだ。
彼女は迷いのない足取りで、俺の席の前まで歩いてきた。
「崎山さん」
鈴の鳴るような、だが抑制された声。
彼女の手には、丁寧に畳まれ、紙袋に入れられた俺の傘があった。
「昨日は、ありがとうございました。お返しに伺いました」
彼女は両手を添えて、紙袋を差し出す。
指先ひとつまで、教本のような所作だった。
「わざわざ、どうも」
受け取ると、わずかに洗剤の清潔な香りがした。
周囲の視線が突き刺さる。驚きと、困惑。
この世界で、女子が男子の教室を訪れ、直接物を返すという行為の重さを、俺はまだ完全には理解していない。
彼女は役目を終えたはずだった。
だが、その場を動かない。
唇を微かに震わせ、何かを言い淀むような「間」が生まれた。
「……崎山さん」
「ん?」
「風邪などは、引いていませんか。……濡れませんでしたか」
静かな声だった。
(予定にはなかった質問なんだろうな)
彼女自身、言葉を口にした瞬間に、わずかだけ眉尻を下げたのを俺は見逃さなかった。
「全然。健康そのものだ」
そうか、と彼女は短く言った。
それ以上、何も言わずに背を向ける。
教室を出ていく後ろ姿もまた、完璧に「白河澪」だった。
◇ ◇ ◇
「……おい」
低い声がして、隣の席に田辺が座った。
彼は前の席を向いたまま、俺の方は見ない。
「お前、今どういう状況かわかってるか」
「傘を返してもらった」
「そういう話じゃない」
田辺は短く息を吐き、視線を窓の外に投げた。
「あの白河が、わざわざここまで来たんだぞ。周りがどういう目で見てるか、想像つくだろ」
「貸したから、返ってきた。それだけだ」
俺がそう答えると、田辺は一瞬だけこちらを盗み見た。
呆れたような、あるいは危ういものを見るような、そんな目。
「……まあ、いい。お前ならそう言うと思った」
田辺はそれだけ言い残して、立ち去った。
手元に残った紙袋を見る。
窓から差し込む光が、床に長い影を作っていた。
俺は少しだけ考えてから、次の授業の教科書を取り出した。




