責任
「……うわぁ」
茂みから顔を覗かせ、目の前のそれを見たトールは、思わず声をもらしてしまった。
「すご。熊の一振りって、木とか薙ぎ倒せるんだぁ……」
重く身体に響くような音を耳にしながらも、緊張感のないその呟き。
彼の後ろから同じく顔を覗かせていたアーリィは、そんなわけあるか、と呆れの混ざった嘆息をもらす。
のそっと顎をトールの頭に乗せ、体重をかける。
トールは慣れたように足で踏ん張りつつ、鳶色の瞳に険が宿った。
「わかってるよ、アーリィ。あの熊はたぶん、狂った物――そうでしょ?」
肯定する返事の代わりに、アーリィはトールの頭から退く。
「……でも、どうして狂った物なんているんだ?」
険はらむ瞳を細め、トールはその視線をとある箇所へと向けた。
未だ天へと光が昇りゆく、竜の躯。
最初の場へと戻ってきたトールとアーリィは、そこですぐに茂みへと身を隠したのだが、その理由が目の前で繰り広げれている光景に繋がる。
争いの気配に身を潜め、そっと顔を覗かせて様子を窺う。
まず目に入ったのが、二本足で立ち上がる熊の姿だった。異様に強い眼光、トールは反射的に身をすくませる。
が、すぐにふわりと肌に触れた羽毛の感触に、震えかけた気持ちが落ち着く。
深呼吸を数度繰り返し、護るように身を寄せてくれたアーリィに、小さく礼を口にして気を引き締めた。
あれだけ厳かな雰囲気に包まれていた場であったのに、今は騒がしい気配に塗り変わっていた。張り詰めた空気はぴりりとしびれるように。
周囲に残るのは、何かと何かが争ったような跡。何かを振り下ろして引かれたような縦筋、踏み下ろしたような足跡。
けれども、熊の他に姿はない。代わりなのか、何かを投げ飛ばしたような痕跡があるだけ。
と。そこで、熊の強い眼光の奥に渇きを垣間見て、かの熊の狙いが竜の躯なのだと察する。だがそこで、なぜ、との疑問が生ずる。
狂った物がさらなる力を求めて竜の躯を欲するのは解かる。だが、そもそもの話、かの熊が狂った物に至ってしまった経緯がわからない。
見る限りに竜の躯が喰われた痕跡は、たぶん、ない。竜について明るいとは言えないが、たぶん。ない。たぶん。
「――ねぇ、アーリィ」
自信のないトールは、そっとアーリィに問いかける。
「竜の躯が喰われた感じは、ないよね……?」
アーリィは天色の瞳をトールに向け、ややして竜の躯へと向けた。刹那、その天色の瞳に緊張が走った。
アーリィが己の懐にトールを入れ、被さるようにして身を低くする。
突然のことにトールは身を硬くしたが、茂みの隙間から覗き見えた光景に目を見開いた。
何かが茂みから飛び出し、熊を押し倒したのだ。熊はその場に沈み、地がへこみを見せる。
この場に飛び込んできたのは地竜だった。
その際にトールは見た。地竜の後ろ足、鱗のない、その一部が抉り取られたようになっていて――。
「喰われ――」
息を詰めた。そして、同時にわかってしまった。
かの熊が狂った物に至った理由。それから、狂った物がここにいた理由に。
「飛び込んできた地竜は、熊に喰われたんだ。状況まではわからないけど、たまにいるっていうのは話に聞いたことある――竜を恐れない動物もいるって」
そもそもここは地竜の生息域。人と距離感を保って暮らせるくらいには、大人しい気質の竜だ。
周辺に暮らす動物達が地竜を恐れないのもあり得ないことではない。だって、村に牛が放牧をされているくらいなのだから。村の牛はのどかに、のんびりと過ごしていた。
「だとすれば、さらに竜の肉を欲してここにいるのも納得できる」
では、躯となった地竜と、飛び込んできた地竜の繋がりは――?
考えることなく、すぐにわかる。
「やっぱり、番なんだ」
が。そこまで考え、息を引いた。
トールの思考が凍りつく。
「……僕の、せいじゃん」
掠れた声がもれた。
竜の躯を守る意図で、周囲をアーリィ達と周った。匂い付けの意味で。
それは確かに効果はあるのだろう。動物相手には。
しかし、それが狂った物と化した動物相手には――?
「……効果なんて、あるわけないじゃん。いや、むしろ、逆効果――」
そう。竜の肉を欲して求める狂った物には、むしろ引き寄せる効果をもたらせてしまう。ここに求めるものがあるよ、と告げるようなものだ。
匂い付けが地竜のものだったのならば、周囲の匂いに紛れて気が付かれなかったのかもしれない。
けれども、風竜や灯竜という、この辺りには生息しない竜の匂いを付けてしまった。
それがこの事態の要因だとすれば――トールは強く目をつむった。
地竜が足を踏み鳴らす音が響く。
次いで、空を斬る音が唸る。熊が爪を振り下ろしたのか。
トールが目を開ければ、振り下ろさせれた爪を、地竜がその硬い鱗で受け止めているところだった。
鳶色の瞳がその光景を見つめ、アーリィを見上げる。
その瞳が何を告げたいのか、アーリィにはわかってしまった。
「――アーリィ、力を貸してくれないかな」
アーリィが否と首を振る。
彼女が優先するのは、いつだってトールの身だ。それがどうして、わざわざ危険に首を突っ込むのか。
けれども、同時に知ってもいる。トールのやりたいことは、できるだけその通りにさせてやりたいと、自分が思っていることを。
それに、ここまで連れてきてしまったのは、何より自分だ。
やがて諦めたようにアーリィは息をもらすと、抱えていたトールを放して立ち上がった。
その際に片翼を持ち上げ、自身の口で羽毛を持ち上げる。すると、普段から羽毛で隠し持っている竹弓と矢筒が現れた。矢筒には小革鞄がぶらさがる。
ほっと緩んだ笑みを浮かべたトールは、ありがとう、とその竹弓と矢筒に手を伸ばした。
*
トールの姿は木の上にあった。
幹に背を預け、せり出した太枝に足をかける。
身体が安定したことを確認すると、肩にかけていた竹弓と矢筒を下ろし、矢筒にぶら下がる小革鞄から薬瓶を取り出した。
薬瓶の中では透明な液体が揺れ、陽を弾く。
続いて矢筒から矢を取り出し、篦の部分を歯を軽く立てて咥えると、薬瓶の栓を抜いた。栓は瓶口と繋がる紐によって落ちることなく、その場で揺れている。
下にいたアーリィが視線をよこし、トールも準備完了の意で彼女へ一つ頷いた。
アーリィが茂みから飛び出すのを視界の端で捉えつつ、矢を手に取り、鏃に薬瓶を傾けて中の液体を垂らしていく。
鏃から滴ったそれが枝に落ちると、じゅっ、と嫌な音を立てて樹皮を溶かした。
ひぇ、とトールから小さく引きつった悲鳴がもれる。
「……扱うの未だにこわいな」
それもそうだろう。毒なのだから。
トールの鳶色の瞳に真剣な色が宿る。
空になった薬瓶を小革鞄に戻しながら、視線を眼下に向けた。
地竜と熊の戦いは続いているが、互いに決定打は決められずにいる様子。いや、地竜の方が分が悪いか。
身体から赤を滴らせる熊だが、痛覚が鈍いのか、ないのか、傷を負っている動きのそれではない。
ゆえ、痛みから動きが鈍くなっている地竜の方が、苦戦を強いられているようだった。地竜の身体から、また新たな赤が鱗を濡らす。頑丈とはいえ、限度はやはりある。
トールは竹弓に矢をつがえ、弦を引いて構えた。
狙いを熊に定める。が、矢先を向けるも、その熊へ向かって地竜が身体ごとぶつかっていく。重く鈍い音が響いた。
「……これじゃ、地竜に」
苦く言葉をこぼす。
だが、トールのその思考を読んだかのように、アーリィが戦いの場に躍り出る。
身体がぶつかった反動で離れた地竜と熊の間に、裂帛の声で喚び込んだ風を放つ。
それはさながら、かまいたち。地を抉り、裂かれた草葉が巻き上がる。
そして、アーリィは地竜に向かって声を上げた。
地竜はじっとアーリィを見つめ、その目を細める。真意を探ろうとしているのか、その目は鋭い。
その目が動き、木の上にいるトールの姿を捉えた。
刺さる視線を感じながらも、トールは狙いを熊に定めたまま。
やがて地竜もその意図を悟ってくれたのか、熊に敵意を向けながらも、その場から動く気配はない。
しかし、熊は新たな狙いをアーリィに定めたようだった。
確かに竜の肉という観点でみれば、地竜より風竜の方がやわい肉だろう。
アーリィが動く。じりじりと後退するように見せかけ、彼女はトールのいる木の前に立った。
トールに緊張が走る。だが、つがえた矢の先は、熊に向けたままぶれることはない。
乾いた唇を舌で舐める。その舌に風の動きを感じ、鳶色の瞳を細めた。
トールがつがえた矢を放すのと、疾風が後方から吹くのは同時だった。
「――……」
一呼吸の間にトールの放った矢は風に押され、高い音を響かせて熊に突き刺さる。
深々と刺さった矢からは鮮やかな赤が滴り、熊からはくぐもった声が漏れ聞こえた。
苦痛を感じているのか、熊は鋭いその爪で自身を掻きむしる。
やがて、眼光弱まるその目がのろのろと、アーリィを――その上を、見た。
トールの背筋に氷塊が落ちる。
やば、と思った頃には熊が駆け出していた。
熊とは思えぬ速さに、アーリィが行動を起こす前にはもう眼前へと迫っていて――トールは大きく目を見開く。
苦痛の元凶を絶つべく、苛立ちをぶつけるように熊の爪が大きく振りかぶられていた。




