竜は今日も水に浸る
しとしとと降り続く雨に、この窪地に泊まってから幾日を数えるのか。
森と評せるほどに木々は枝葉を茂らせ、空から落ちる雨粒に弾かれては今日も音を奏でている。
そして本日のグローシャの姿は、その森の中心地にあった。
高くそびえる山にぽっかりと空いた穴――窪地が抱える、それはまた大きな湖。標高ある山ゆえに地上に動物の気配もなく、静かな湖だ。
周囲は草木に囲われ、空から落ちる雨粒に打たれる音だけが、この場に満ちている。
のそのそと草を掻き分け、木々の合間からグローシャの姿が現れた。雨で煙る視界の中、彼女は己の体内から漏れる灯の珠を頼りにやってきた。
湖畔に立ち、空を仰ぐ。空から注ぐ陽が、雨で煙らす水煙をきらめかしている。
橙の瞳を細めて仰ぎ見ていたグローシャは、ふいに後方を振り返った。その方向にはティシェ達が泊まる宿がある。
雨を苦手するティシェの顔が過ったのだが、この雨は自然由来の雨ではない。竜が起因とするもの。ならば、きっと大丈夫だろう。
今の彼女の傍にはカロンが居る。それにトールも居るのだ。だから、きっと大丈夫。
ピル、と軽く息を落として、グローシャは湖に向き直った。
透き通った湖の源は、今も空から落ち続ける雨粒だ。
ここは雨竜の羽休めの地。そしてまた、しばしの渡りの休息地。それは、山の窪地に大きな湖を造るほどに幾度も繰り返されたそれ。
グローシャは地を蹴りつけて湖へと入ると、被膜を広げて泳ぎ始める。水の沁みる感覚が心地よく、思わず目を閉じた。
雨竜の羽ばたきから溢れ落ちた雨。竜の質をまとったそれだから、グローシャの身に馴染むのだ。
気分の上がったグローシャは、大きく被膜を動かして勢いよく潜り込む。水の中で光が踊った。
湖は深い。ここから水脈を通り、ここら一帯の山々に潤いを分け与る。地下を伝う間に竜の質は削がれ、人や動物の糧となるのだ。また、竜の質は含んだ土を豊かに育み、豊富な土壌をつくる。
グローシャが湖の中で口を開けば、こぽっと息が泡となって上へとあがっていく。
その様を見て、一つひらめいた。今度は息と一緒に灯の珠を漏らしてみる。
泡の中で灯の珠が揺れ、空から落ちる陽を弾いてきらめいた。
それが楽しく、彼女はしばしその遊びを繰り返した。
幾度目かになる息継ぎ。グローシャは湖面から顔を出した。
空が暮れの色を帯び始めていた。そろそろ戻る頃合いだなと、湖畔へ向かって泳ぎだす。
ティシェ達の泊まる宿に併設された竜舎へ帰れば、今夜の馳走が待っているはずだ。
この窪地に訪れる人々は、そのほとんどが竜と共に旅をする者達だ。ゆえに複数建ち並ぶこの窪地の宿は、人だけでなく、竜も相手にしているということになる。
すなわち、竜にも食事が振る舞われるのはもちろん、その馳走が竜のこともよく考えられているわけだ。
つまりは竜好みのメニュー。竜の間でも評判のいいメニューには、同じ竜舎に泊まる竜達と、これはいい、こいつは美味い、と共に舌鼓を打っているグローシャだった。
湖畔から上がり、身体を震わせて大方の水気を切ると、身体に熱を帯びさせて残りの湿気を飛ばす。
だが、空から絶えず降り落ちる雨粒できりがないため、グローシャは早々に歩き出す。今夜の馳走は何かなと、足取り軽く森へ踏み入って帰路につく。
と、ふいに風が吹いた。
思わず足を止め、身を撫でる風の気配に顔を上げた。木々が伸ばす枝葉の隙間から空を覗く。
ピルッ、風に絡む竜の気配に橙の瞳を細め、反射的に警告音を発しかけてふと思い留まった。
この風は――風竜が喚んだ風。だが、アーリィが喚んだそれではない。別の風竜だ。
ふう、と呆れたような息をもらす。
空を煙らす雨。陽を弾いて眩い。その中を飛ぼうなど、危険がはらむ。
目を凝らせば、煙る空の向こうで旋回する影が見えた。
降りられる地点を探しているようなその動きに、グローシャはまた息を落とす。
のそのそと歩みを進め、開けた場所に出ると、彼女は体内の器官を明滅させ始めたのだった。
◇ ◆ ◇
宿と竜舎は渡り廊下を通ることで行き来ができ、ティシェとトールの姿もそこにあった。
廊下の窓からは雨に濡れてしなだれる枝葉が見え、ぽっぽっ、と葉先から雨粒を滴らせている。
その合間から覗く空は暮れの色を薄めており、間もなく夜に塗り替わるだろう。
雨によってひんやりとした空気に夜気が絡み、ティシェは腕を軽くさすった。長袖の薄衣でちょうどよい。
つなぎの上体部は脱ぎ、袖を腰で一つに軽く結んだ格好の彼女は、その下は本日の気温を考慮して長袖のものだ。
隣を歩くトールは、上下の分かれたつなぎの上衣を脱ぎ、薄衣の上にベストを着込んだ姿であり、こちらも薄衣は長袖である。肩にはラッフィルが留まっている。
そういえばと、ティシェはトールの着るつなぎを思い出す。
上下の分かれた彼のつなぎ。上は胸元に、下は腰元に、翼をあしらった紋章のような刺繍が入っている。
何かの所属を示す紋章にも見えるそれは、翼をあしらっているところから風の商人を示すものなのかもしれない。
渡り廊下を抜けて竜舎に着く。
個々に仕切りがあり、干し草で設えられた寝床はふかふかそうだ。個々の仕切り――竜の間にやってくると、アーリィは自身に与えられた寝床で既に眠っていた。
ご飯皿は綺麗に平らげられている。
「お腹いっぱいになって眠くなったのかな」
苦笑したトールは、アーリィの寝床へ静かに足を踏み入れ、眠る彼女をそっと撫でる。
ティシェはちらりと彼らを見やり、仕切りで隔たれた隣の間を覗くもグローシャの姿はなかった。
「……やはり、気配がしないと思えば」
表情の乏しい常の調子で小さく嘆息をもらす。グローシャに用意されたご飯皿はまだ手付かずの状態。
そっと己の影へ視線を落とした。
ティシェの意図を察したカロンが、影から頭だけを出す。けれども、何も知らないよと首を左右に振った。
「そうか。……遅くなるなと言ってあるのにな。また湖の方かな」
やれやれと、ティシェが竜舎の外へと通ずる戸口に目を向けた時、帰って来る竜の姿をみつけた。
竜舎内の明かりに照らされる金の鱗――グローシャだ。ティシェの視線に気付いた彼女が、げっ、と顔に感情を滲ませる。
「グローシャ、遅いぞ」
のっそのっそと向かってくるグローシャへ、ティシェもつかつかと歩み寄っていく。
トールが何事かと仕切りから顔を覗かせた。
ティシェが蒼の瞳を文句ありげに細めると、グローシャは橙の瞳に不服な色を滲ませて背後を振り返る。ちょうど戸口から別の竜が竜舎へと入って来るところだった。
ティシェは驚いて足を止め、気配を感じたカロンは影へと沈む。
竜の背に人の姿がある。
のしのしと歩む竜は風竜だ。その背に積まれた荷が大きいのが印象的に映る。
ティシェが思わずトールを振り返ってしまったのは、風竜で連想するのは彼だったから。突然振り返られたトールは戸惑いに軽く眉を寄せる。
が、竜舎へと入って来た竜に気付くと、驚きで目を見開いて――竜の背に乗る人の姿に、さらに目を見開いた。
「あれ、ヨウさん……?」
アーリィの竜の間から出てきたトールが声をもらす。
その横でティシェが、知り合いか、と訊ねていると、風竜が足を止めた。
「お、トールじゃん。久しぶり」
その背に乗った人物は、慣れた動作でひらりと降りると、親しげに手を上げて「よっ!」と笑った。




