[ 第二章 blood line ] 1
黄昏に慟哭が響く。
夜の黒暗を連れて、あいつが来る。ねっとりとした微笑をその唇に刻んだ、悪魔が。
か弱い子どもの細腕ではなす術がない。淫虐と暴力の嵐にさらされても。早く終われと祈りながら、ただひたすらに耐えるしかなかった。
それでも子どもは悪魔に縋り、崇め、愛す。それが当たり前で、正しい日常だった。
狂ってるのは、自分の方だと知らずに。
◆
NoaHが詰めるスタジオは、エリュシオンでも副都心部の一つ、ポートヴィンスにある。エリュシオン港に隣接した、埋め立てによって新たに作られた地区で、複合施設や大きなアリーナもあり若者たちもよく集う。河口にはスターブリッジという巨大な橋が架かり、観光名所としても有名だ。
しなやかな指が、ギターの弦を弾く。繊細で細やかな動きに反して、生み出される音は力強く激しい熱を響かせる。防音機能が行き届いた窓の無い室内で、小さなライブの様な熱気が満ちた。レンの歌声が、どこまでも甘く情熱的に響く。
ヨハンが集中したい時、よく聴く曲だった。
「来てくれて嬉しいです!」
人懐っこい笑みを浮かべ、アグリコラの角とオルニットの翼を持つ青年がダンテたちを出迎えた。
「ノアくんもありがとう。俺たちのバンドと名前が同じだからつい親近感湧いちゃって」
おたくらのバンド名から付けました、とは、経緯が複雑である為に黙っておいた。
「こちらこそ誘って頂いてありがとうございました。レンさんの歌って、生で視ると緑とオレンジ色の二色の魔力が混ざり合ってグラデーションを描いてて、とても綺麗で」
「魔力?」
聞き返されて、興奮気味だったノアはハッとした。普通の人間に魔力を視る事は出来ないからあまり言いふらすなと、イスラフィルで言われていたのだった。案の定、隣のヨハンが小さくため息を吐いている。
「あっいや、とても綺麗だなって!」
「うん、ありがとう?」
下手な誤魔化しだとノアにも自覚はあったが、あまり追求されずにほっと胸を撫で下ろした。
「改めて、俺がレンです。こっちがベースのエドと、ドラムのオスト」
「よろしく」
長身の青年が頭を下げる。襟足の長い髪をハーフアップにし、褐色の翼は雄々しい。ボーカルのレンとは幼なじみなのは、ファンなら誰もが知っている。
もう一人が奥のドラムからすっと立ち上がると、ノアは思わず気圧された。長身のエドよりも更に大きい。大柄なダンテですら少し見上げる超長身のその人は、何と女性だった。
「……」
オストは無言のまま、小さく頭を下げる。
灰色のショートの髪に、同色の翼まで大きい。演奏に入るシャウトはそこらの男性よりもカッコいいと言われており、自らをオストビッチと名乗る女性ファンも多い。
「……オスト、こう言う時までその演技しなくていいからな」
苦笑いしながら、エドが言った。
ドラムのオストと言えば、世間では口数の少ないクールな女性と思われている。そう言う印象付けをする為の、プロデュースであることは関係者以外誰も知らない。エンタメ受けするための、エドの発案だった。
オストはと言えば、その言葉に本気で衝撃を受けたように、瞳を見開いて固まっていた。演技でもなく、それが彼女の本来の顔なのだろう。
ソファへと移り、詳しい打ち合わせをする前にダンテは聞いた。
「今更かもだけど、俺たちで本当に良かったのか?」
報酬が多いのはありがたいが、いかんせん護衛としての専門的な訓練はダンテもヨハンも受けていない。
「絶対あなた達がいいなって思ったんです」
力強く頷いて、レンは言い切った。
「俺、見ての通りこんななんで。あんまり俺を俺として見てくれる人って少ないんだ。でもあなた達は、初対面でも普通にしてくれたから」
ジェナスであることで様々なしがらみがあるであろう言葉とは裏腹に、レンの瞳は穏やかに凪いでいた。
「そこまで言うなら…。ま、請けるからには全力で守らせてもらうさ。なあヨハン」
「……」
ダンテはヨハンへとウインクを飛ばす。ヨハンの反応はと言えば、器用に片眉を顰めながら、ちらとダンテを見ただけだった。この塩対応に対して、万人に平等で平常運転なのを理解しているダンテは、特に気にした風もなくにこにこと人のいい笑みを浮かべている。
「頼りにしてます」
二人を見て一瞬きょとんとしたのち、レンは破顔して言った。
「この街に来たのは今週末にやるライブのためだ。それまでの間、守ってもらいたいんだ」
話を切り出したのは、エドだ。
折りたたまれた紙を、ダンテたちに見せる。ざっと目を通せば、ありがちな脅迫状めいた内容だった。
「こいつには結構変な手紙が届いたりするんだが…、それは前々から度々あることで、今まで実害があったことはなかったんだ。ほとんどはただのいたずらだと思う。でもこの街に来てからおかしいんだ。もう二度も誘拐されかけてる」
「あれは二回目だったのか?」
ダンテがピクリと眉を跳ねさせてレンを見ると、レンは困ったように頭をかいた。
「ちょっと二人を見失ったと思った隙に、こう、がばっと」
大変心配かけました、と、頭を下げる。
「確かにエリュシオンは治安の悪いところもあるが……。それは気になるな」
顎に手を当てて、ダンテが思案する。彼らがこの街に来てからと言うと、短期間の間に起こった出来事と言うことになる。
「でもレンさんたちはすごいですね。危険な目に遭っても、自分たちのやることを止めたりしないなんて…怖くはないんですか?」
彼らはいい人たちだと少し話しただけでも分かる。それだけに、ノアは現状に心を痛めていた。ジェナスと言うだけで、それほど生きづらい社会なのかと。
「怖いよ」
眉を困らせて、レンは言った。
「俺、子どもの頃、人身売買の組織に誘拐されたことがある。両親がちょっとコネのある人でさ。俺は運良く助けてもらえた。でも、そこで見た光景はずっと覚えてる。俺以外の子どももいて、みんな怯えた目をしてた」
かつて人買いに拐されそうになったノアも、他人事ではなかった。たまたま居合わせたヨハンの助けがなければ、どうなっていたか分からない。
「今もジェナスは一人でまともに外を歩けないし、人身売買の被害にあって泣いている子どももいる。それはジェナスだけじゃない。そんなのは可哀想だし、許せない。……俺は、そんな理不尽に負けるわけにはいかないんだ」
強い光を瞳に宿して、レンは言う。それが彼の、怖さを超える原動力か。その瞳に惹かれる者は多い。だからこそ、ロックバンドとして成功しているのだろう。
しかし、光に惹かれる人間もいれば、耐えられない者もいる。
「誰もが外へ出たがっていると思うな」
周囲を遮って、その声は冷たく響いた。
「ヨハンさん……?」
戸惑いを隠せないノアの声で、ハッとした。注がれる視線が煩わしくなったヨハンは、小さく舌打ちすると、外へ出て行く。扉を閉める音が、もの悲しく響いた。
◆
――ヨハン、お前は私のものだ。
男が、呼ぶ。俗っぽい色を含んだ、悍ましい声で。
かつての記憶が蘇る。もう終わったこと。今、あの男はここには居ない。
自分に言い聞かせ、暴れるように脈打つ心臓をなんとか宥めようとする。
今の自分に、不満は無い。ただ少し、感情の処理をどうしたらいいのか分からなくなって、その場に居られなくなった。
ヨハンは痛みを知っている。
他人から受ける、理不尽で一方的な暴力を。レンが言う、可哀想な子どもとは、かつての自分だったのだから。
玩具、奴隷、ペット。何と呼べば適切だろうか。あの頃のヨハンは、人間ではなかった。人間に対する扱いは受けなかった。
「ヨハン」
廊下を歩く背にダンテが追いついた時、ヨハンはその足を止めた。視線を虚空に向けて、ぽつりと溢した。
「なあ、ダンテ。俺は可哀想か?」
父親のことは記憶にない。母親は、殺された。――自分みたいな奴を産んでしまったせいで。
力のある両親の庇護と、恵まれた仲間に囲まれて育った青年の、静かに凪いだ目を見た時、何もかもが違うと察した。あれが、温かい平穏の中で大切に守られて育った人間の目か。
では、守られなかった者は?
他人様に助けられ、哀れみの目を向けられる、惨めな存在なのだろうか。
あの頃の記憶が、ドブの中で腐ったような醜穢な世界だったと、改めて突きつけられたような気分だった。
「……何でもねぇ」
どうかしていると、ヨハンは思った。聞いても仕方のないことを、ダンテに聞いてしまった自己嫌悪でまた憂鬱になる。
男らしい太い眉が、気遣うように寄せられている。困らせたいわけではなかった。
「悪い。一人にしてくれ」
相棒の顔を、見ることが出来なかった。




