坂井さん
坂井さんと同棲を始めたのは暑い夏も心地よい秋も過ぎて、大学2回目の冬が来た頃だった。
その日、バイトを終えて家に帰ってきたあたしはテレビをぼーっと眺めながら少し遅めの夜ご飯を食べていた。そうしたら、チャイムがなった。少しどきりとした。テレビでは物騒な事件がニュースになっていた。
家に訪ねてくるのは、坂井さん以外にはいないはずだったが、坂井さんは家に来る前にいつも連絡してくれる。だが、その日は連絡がなく、家に来るはずはないと思っていた。ドアの覗き穴から外を見るとやはり、坂井さんが立っていた。急いでドアを開けると、坂井さんはあたしに寄りかかるように家の中に入ってきた。
「坂井さん、どうしたん?なんの連絡もなかったのに…」
坂井さんの様子は少し変だった。
「ごめん。ちょっと、今日泊めてくれへん?」
何があったのか聞かずあたしはいいよと返事して、とりあえず坂井さんを部屋に招き入れた。
坂井さんは部屋になんだか落ち着かない様子でいたが、私が出したお茶を飲むと少しほっとしたようだった。
「一緒に住んでるやつと言い合いになってもうた。」
ぽつりと坂井さんがそう言った。
「なんで?」
あたしは坂井さんの隣に座ってそう訊くと、彼はしょんぼりと俯いた。
「お笑いのことで。あいつとは考え方が違うのは前から分かっとったんやけど…ごめん、今はうまいこと説明できへん。」
あたしはそれ以上そのことを坂井さんに訊こうとはしなかった。ただ、今は坂井さんの隣に居ようと思った。しばらくあたしたちは何も言わないままぼーっと座っていた。
「俺は、何を怖がってるんやろう。」
ぽつりと坂井さんはそうこぼした。あたしはこのとき、初めて坂井さんの危うさを見た気がした。このときまであたしは坂井さんは完璧で真っ直ぐでブレない人だと信じていた。でも、きっとそれは違う。誰だって人は何処かに危うさを秘めている。坂井さんだってそう。彼が舞台に立つ時にあえて奇抜な格好をするのは、臆病で揺れ動きやすい自分を隠すためなのではないだろうか。あたしはそんな彼の危うい部分を受け入れたかった。彼を支えたかった。
その夜、あたしは坂井さんにたくさん話をした。高校時代のプリクラを見せた。髪を変な色に染めてピアスをいくつもあけていたことで高校に馴染めなかったこと、大学の推薦入試のために髪を染め直してピアスの穴を閉じたことを話すと坂井さんは驚いた。今の清楚さからは想像がつかないと言って。あたしはとにかくお笑いに全く関係ないことを一晩中坂井さんに話した。坂井さんはときに驚いたりけらけら笑ったりして次第にいつもの坂井さんに戻っていった。
その日から坂井さんはあたしの家に住むことになった。特に一緒に住もうという話はしなかったけど、その日からそういうことになった。




