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5 魔王の憂鬱と、お肉の誘惑

魔王城の朝は、山のような書類と、それ以上に重く積み上がった「他者への期待」という名のおりから始まる。


「陛下、こちら人間界の通商路確保に関する陳情書です。それから、魔族領南部の干ばつへの支援策、それと……」

「……あぁ、わかった。順に見ておくよ」


魔王レグルス・ルシフェル・アークライトは、豪奢な黒檀の執務机に頬杖をつき、琥珀色の瞳に薄く影を落としていた。

彼は知っている。この陳情書の裏で、一部の商人がどれだけ私腹を肥やそうとしているか。そして、支援策を打てば、武闘派の貴族たちが「魔族の誇りを捨てて人間に阿ねるのか」と、彼が耳にしない場所で陰口を叩くことも。


「(……俺がここで『いいよ』と言えば、ひとまず国境付近の街の子供たちのパンは増える。俺の評判が落ち、魔王としての威厳が少し削れるだけで済むなら、安いものか……)」


ため息を一つ。彼はカリスマ的な、どこか寂しげな微笑みを貼り直し、魔力を込めたペンを取った。彼にとって「知能」とは、誰かを打ち負かすためのものではなく、誰も死なないように「損をする場所」を見極めるための道具だった。


そんな哲学的な沈黙を、城の地下から響く理性を微塵も感じさせない爆音が引き裂いた。


ドゴォォォォォォォォン!!!


「……また安定課か?」

「そのようです、陛下。……第4演習場が、半分ほど消失したとの報告が」


側近が報告を終え、次の資料を捲ろうと視線を落とした、その一瞬だった。


「陛下、次の会談の件ですが——」


顔を上げた側近の目の前には、主のいない豪華な椅子だけが、虚しく主人の体温を残して鎮座していた。

レグルスは側近にすら行き先を告げず、空間転移に近い身のこなしで窓から「蒸発」したのである。





庶民的な薄手のパーカーを羽織り、気さくな青年「レグ」へと姿を変えた彼は、鼻歌混じりに厨房の裏庭へと向かった。そこは、どろどろとした政務から逃れられる彼だけの隠れスポットだ。


だが、そこには先客がいた。


「ポチ! 『マテ』ですよ! あ、左の首、涎が出てます! 拭きますからね!」

「グゥゥ……(×3)」


漆黒の羽をパタパタとさせながら、自分の胴体ほどもある特大の肉塊を掲げている少女。そして、中型犬サイズに縮小されているが、どう見ても冥府の番犬ケルベロスである怪物。


「あ、お兄さん! こんにちは!」

セレナが無邪気にレグルスへ手を振った。彼女にとって、この青年が世界を統べる魔王だとは微塵も思っていない。ただの「時々会う、お肉に詳しい親切な管理部の人」だ。


「やあ、セレナ。ポチのしつけは進んでる? 相変わらず賑やかだね」

「それが、お肉を前にすると理性が爆発しちゃうみたいで。……やっぱり、力で地面に沈めるしかないんでしょうか? オステン課長には『なるべく物理は使うな』って言われてるんですけど……」


「ははは、力だけが解決策じゃないよ。それだとポチは君を『怖い飼い主』だとしか思わなくなる」

レグルスはセレナの隣の切り株に座り、ひょいと指を鳴らした。

「いいかい、ポチ。その肉を今、我慢できずに食べれば、それはただの生肉だ。でも、あと一分だけ俺の前で『マテ』ができれば……極上の燻製肉に変えてあげる」


レグルスの指先に、神業のような魔力制御による「微細な焔」が灯る。それは破壊のための劫火ではなく、肉の繊維を傷つけず、旨味を内側に閉じ込めるための、緻密で優しい魔法だった。


「わぁ……! 魔法って、こんなに美味しそうな匂いがする使い方もできるんですね!」

「力はね、誰かを守ったり、喜ばせたりするために使うのが一番かっこいいんだよ。壊すのは一瞬だけど、喜ばせるには少しだけ手間がかかる。でも、その手間が『安定』を作るんだ」


レグルスは穏やかに笑う。その瞳には、かつて血生臭い闘争を勝ち抜いてきた者だけが持つ、深い知性と、それに伴う孤独が宿っていた。


だが、そんな穏やかな教育の時間を、最悪のタイミングで「身内の敵」が踏みにじる。


「——見つけたぞ、安定課の不浄なる娘。そして、得体の知れぬ野良魔族め」


現れたのは、第4話でニブルヘイムの件を台無しにされたゼノン次席の直属配下たちだ。数名の精鋭魔術師が、殺気立った魔力障壁を張りながら二人を包囲した。


「陛下が甘いから貴様らのような雑草が付け上がるのだ。ここで貴様らを始末し、魔力の暴走事故として処理すれば、魔王軍は再び強き闘争の時代へ戻る。平和という名の腐敗はもう終わりだ!」


「……平和が腐敗、か。随分な言い草だね」

レグルスが小さく呟く。その声からは、先ほどまでの柔らかさが消えていた。

魔術師たちが、一斉に高火力の攻撃魔法を唱え始める。裏庭の空気が、焦げ付くような魔圧で歪む。


「あ、危ないお兄さん! 私の後ろに隠れて! 私がなんとかしますから!」

セレナが反射的に拳を構えて前に出ようとするが、レグルスはそれを優しく、しかし抗いがたい力で制した。


「セレナ、ポチに『マテ』を教えていたよね。俺が手本を見せてあげるよ」


レグルスが、一歩前に出る。

その瞬間、周囲の空間そのものが凍りついたかのような静寂に支配された。「管理部のお兄ちゃん」としての気配が霧散し、そこに立っていたのは、この世界の法そのものである「魔王」の器だった。


「——一分だ」


レグルスが誰に聞かせるでもなく呟くと同時に、放たれた雷鳴と業火の嵐が、レグルスの眼前数センチのところでピタリと静止した。

相殺ではない。消滅でもない。放出されたエネルギーが、レグルスの絶対的な魔力支配によって因果を無視して固定されたのだ。


「な、なんだ……!? 魔法が放てない、いや、戻ってこない……!?」

「ひっ、体が……指一本動かないぞ!」


数瞬前まで「親切なお兄ちゃん」だった青年の背中が、今は世界の覇者としての巨大な影を落としている。


「あ、あれ……?」

セレナが目を丸くしている間に、レグルスはパチンと指を鳴らした。

「一分経過。……『ヨシ』だよ」


静止していた魔力は、レグルスの操作によって持ち主たちへと逆流し、襲撃者たちは悲鳴を上げる暇もなく、自らの魔力に呑まれて音もなく崩れ落ちた。城を傷つけず、大きな音も立てず、ただ「無かったこと」にする。それが魔王の誇る、究極の「安定」だった。


「……ふぅ。お肉、いい感じに焼けたよ。お待たせ、ポチ」


威圧感を完璧に霧散させ、再び「レグ」に戻った彼が焼きたての肉を差し出した、その時だ。


「……陛下ァ。またこんなところで、勝手に民間のボランティア活動(無断脱走)ですか。本気で探しましたよ、私の寿命を縮めるのが趣味なのですか」


聞き慣れた、そして極限まで疲れ切った声が響いた。

厨房の影から現れたのは、書類の束を抱え、眼窩の奥の魂火を力なく揺らしているオステン課長だった。彼は地面に転がっているゼノンの配下たちを一目見て、すべてを察したように深く、深く天を仰いだ。


「あ、課長! 見てください、この管理部のお兄さん、お掃除も魔法もすっごく上手なんですよ! 一瞬でみんな寝かせちゃいました!」

「……ええ、知っています。知っていますとも、セレナ。……というか、陛下。使節団が会議室で『魔王が椅子ごと消えた! これは神隠しか、あるいは宣戦布告か!?』と泡を吹いて倒れていますよ。すぐに戻らないと、明日には人間界の全新聞に『魔王、無断欠勤の末に蒸発』と載ります」


「ははは、一応形だけは残してきたつもりだったんだけどな。少し重厚すぎて尻が凝るんだ、あの席は。たまには地べたに座って肉を焼くのが一番だよ」

レグルスは悪びれもせず笑い、ナイフを拭って懐にしまった。


オステンは、地面に転がる精鋭魔術師たちを冷ややかな視線で見下ろした。

「……陛下。また、お一人で泥を被られたのですか。彼らを公式に不敬罪で処断すれば、軍部内の武闘派が『安定課への偏愛だ、粛正だ』と騒ぎ立てる。それを防ぐために、あえて『しがない管理職員との私闘』という形にして、彼らの面子を潰さずに黙らせたのですね?」


「人聞きが悪いな、オステン。俺はただ、可愛い部下とポチが美味しく肉を食べる時間を、つまらない論理で邪魔されたくなかっただけだよ」


レグルスは、ポチの背中に乗って「お兄さん、またお肉焼きましょうねー!」と元気に去っていくセレナの後ろ姿を見送った。その瞳には、冗談では隠しきれない、安定課への深い敬意と信頼が宿っている。


レグルスは、誰よりも「平和」を渇望している。だが、魔王という地位は、時にその想いを公にすることを許さない。

だからこそ、彼は自分にできない「表立って平和を叫び、それを力で守り抜くこと」を全力で成し遂げていく安定課の面々を、密かに尊敬し、憧れてさえいた。


「……オステン。明日の閣議で、魔王城の『外壁修繕予算』を大幅に増額する決定を下す。……予備費も含めて、な」

「陛下、それは……」


「安定課がどれだけ城を壊しても、『予算が最初から余っているから問題ない。むしろ雇用が生まれて経済が回る』という理屈になれば、軍部もセレナを責められないだろう? ……あとの細かい数字の操作ごまかしは、君の得意分野だろう?」


レグルスは悪戯っぽく、相棒にしか見せない信頼の笑みを浮かべた。

表立って「安定課を支持する」とは言えない。しかし、彼はその明晰な頭脳をフル回転させ、彼らが自由に暴れ回れるための「逃げ道」を、陰でこっそりと舗装し続けているのだ。


「……感謝いたします、陛下。ですが、あまり露骨にされると私の胃に穴が空きます。陛下が逃げ出すたびに、私の管理責任を問う書類が増えるのです」

「ははは、それは職務手当でいい薬を買ってくれ。……さて。戻って、強欲な使節団の相手をするとしようか」


魔王の仮面を被り直す直前、一瞬だけ、レグルスは誇らしげに目を細めた。

知能とカリスマを、誰にも気づかれない「平和の維持」のために使い切る。

そのかっこよさを理解しているのは、今のところ、胃痛を抱えた骨の課長だけだった。





一方、安定課の執務室。


「おっかえりなさーい! 課長、セレナちゃん! 見てよ、ポチがこんなにツヤツヤになっちゃって! これ、何のスパイスを使ったのかしら?」

ベルゼーが、レグルスに調理してもらった肉を食べて満足げなポチの毛並みを撫でていた。


「……課長、ニブルヘイムで拾った例の紋章だけど」

ルカがモニターから目を離さずに声をかける。

「解析は進んでる。でも、やっぱり妙だ。これ、発信源が城内の『通信傍受室』に繋がってる形跡がある。誰かがボクたちの動きを、内側から筒抜けに流してるんだ」


オステンの魂火が、鋭く光った。

「……やはりか。ゼノン一派か、あるいはその裏にいる『蛇』か」


「だったら、私がお掃除してきます! あの管理部のお兄さんみたいに、かっこよく寝かせちゃいますから!」

セレナが拳をグッと握りしめる。


「いや、セレナ。君にはもっと重要な任務がある。ペンを握れ」

オステンが、山のような書類の最後の一枚を差し出した。

「先ほどの裏庭での騒動……管理部の職員(陛下)を巻き込んだ『私闘』による、食料備蓄庫前での不審火に関する始末書だ。不当な魔力行使の疑いも含めて、きっちり一万字で書いてもらうぞ。一分経っても書き始めないなら、晩飯抜きだ」


「ほへぇぇぇぇ!? お兄さんと遊んでただけなのにー! 一万字なんて、戦うより大変ですー!」


平和を守るのも楽ではない。

賢明すぎる魔王の密かな支援と、何も知らない新人の規格外な活躍。

二つの力が噛み合い、危うい均衡の上で、この世界の平和は今日もまた首の皮一枚で繋がっている。


「ポチー! 一緒に書いてくださいー! ポチの分も三首分あるんですよー!」

「ワフン……(×3)」


安定課の夜は、今夜もまた、ペンの走る音と重いため息で更けていくのであった。

すいません。Geminiさんに本文を執筆してもらっていたこの作品ですが、そのために続きが思いつかなくなってしまいました。

無属性チートが落ち着いた頃に全文書き直しで再執筆いたしますので、今回をもって休止とさせてください。

引き続き『無属性チートと王家に守られてのんびり異世界で暮らします』の方をよろしくお願いいたします。

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