第36話:憎しみの連鎖
夕方。教室を出た海人は、人気のない竹林の方へ向かっていた。
涼しげな風が吹き抜ける静かな裏手――だが、空気はどこか不自然に重かった。
「……出てこいよ。気配、隠すの下手すぎだぞ」
海人が立ち止まってそう告げると、数名の影が木立の中から姿を現した。
いずれも焔木の分家筋に連なる青年たち。
顔に怒りと敵意がはっきりと浮かんでいた。
「健太先輩を……ただの人間にしたって、どんな気分だった?」
「お前みたいな化け物が、涼しい顔して学園に通ってんの、胸糞悪ぃんだよ!」
「力を持ってるからって許されると思うなよ、怪物が……!」
数名が一斉に氣を高める。
剣と術を構え、海人を包囲する形で迫ってくる。
海人は眉一つ動かさず、静かに目を細めた。
(……健太の取り巻きか。
予想より早いし、予想より……頭が悪い)
「忠告しとく。俺に向ける怒りは勝手だが、殺されない保証があると思うなよ」
「お前こそ勘違いすんなよ。こっちはただ正当な報復をするだけだ!」
次の瞬間、ひとりが気弾を放った。
鋭く飛ぶ氣刃が海人の胸元に――
「……遅い」
到達するよりも前に、海人は音もなく消えた。
「なっ……!?」
「弱すぎて心氣を使う気にもなれないな」
踏み出した一歩と同時に、周囲の三人が崩れ落ちた。
重力が増したように膝をつき、呼吸が乱れ、腕が上がらない。
「ちっ……!」
次の一人が刃を抜き、斬りかかろうとした瞬間――
目の前にいた海人の姿が、スッと視界から消えた。
「――後ろだ」
次に聞こえたのは、彼の肩に置かれる手の音だった。
そして、氣が抜けるように意識が途切れた。
数秒後――
全員がその場に崩れ落ちた。
「……初日で退学とか嫌だからな。これぐらいで勘弁してやる」
海人は一言だけ残し、静かに竹林を後にした。
襲撃の情報がすぐに駆け巡る。
瑞穂が報告書を閉じ、静かに呟いた。
「……来たわね。予想より、早く」
刹那が机を蹴飛ばす。
「もうっ! だから言ったじゃん!放っとくと絶対暴れるって!!」
「でも、今回は手加減したわ。怪我人も出てないし……」
瑞穂の声には、ほんの少しの不安が混じっていた。
――――――
重苦しい静寂と、濃密な瘴氣が満ちる空間。
そこに、健太はいた。
虚ろな目をしたまま膝をつき、口元から血を垂らしていた。
「……なんで、俺が……っ」
呟きは誰にも届かない。
かつては将来を嘱望された焔木の若き精鋭
だが今は、氣を奪われ使い物にならない抜け殻だ。
「海人……っ、アイツさえいなければ……!」
指を喰いちぎるほどに握りしめ、血に濡れた床を殴る。
その時だった。
空間の隅から、黒い煙のようなものが立ち上った。
《――悔しいか?》
低く、ねばつくような声。
それは耳ではなく、脳に直接響いた。
「誰だ……!」
健太が顔を上げた。
そこには、人のようで人ではない、闇の中から半身を覗かせる何かがいた。
長く歪んだ手、獣のような牙、そして無数の目。
《力が欲しいか? 海人を屠る力が。
お前の氣を奪い、誇りを踏みにじったあの男に、すべてを返すだけの力を》
健太の瞳がかすかに揺れた。
もはや迷いなど残っていない。心の中にはただ一つ。復讐のみ。
「……それができるなら……なんでもいい……!」
《よかろう。ならばお前の肉体を対価に差し出せ》
ズズズ……と、黒煙が健太の身体にまとわりつき、喉奥にまで侵食してくる。
「ぐあっ……!!」
皮膚が焼け、爪が変形し、眼球が黒く染まり、背中から異形の翼が生えた。
《契約は成立した。我の力を、存分に使え》
数分後、そこにいたのは――
もはや人間と呼べる形ではなかった。
夜――結界の歪みとともに、それは突如として現れた。
「……ッ! 侵入者!? 誰だッ――うわあああッ!!」
斬撃と叫びが重なる。
番兵のひとりが絶叫のまま、吹き飛ばされた。
その身体は木の幹に叩きつけられ、無残に折れ曲がる。
黒い瘴氣が庭を満たす。
狂気のように笑う声が響き渡った。
「ハハハッ、どうした! 焔木の精鋭様たちが、その程度かよォ!!」
咆哮と共に、呪詛の氣を纏った腕が地をえぐる。
爆風のような衝撃で、屋敷の塀が崩れ、周囲の結界が一斉に軋む。
現れたのは――健太。
もはや、その名にふさわしい理性も姿もない。
全身を覆う鱗と禍々しい筋肉、爛れた片目から溢れる呪いの氣。
焔木の者とは思えぬ、異形の怪物。
「逃げろ! あれはもう人じゃ――うぐっ……!」
別の若手が口にした瞬間、健太が瞬時に喉を圧し潰した。
叫ぶ間もなく締め上げる。
「人じゃない? そうだ、オレはなァ……人を超えたんだ!!」
健太が叫ぶたびに、瘴氣が爆発し、木々が黒く枯れていく。




