後編
「な、ッ!?」
「え……ッ?」
血の繋がりはないと言っても、やはり共に育ってきたせいかダイヤとルワーナの反応はよく似ていた。といっても、含まれた感情は真逆だったのだろうけど。
瞠目したまま固まった二人だが、レオンが見ているのはルワーナ一人だけだろう。ニコニコと、姉からしたら胡散臭い以外の感想しか出て来ない笑みだが、ルワーナには魅力的に映ったらしい。耳まで真っ赤にして、空気を求める金魚の様に口をはくはくさせている。
「ずっと話は進んでいたんだけどね、公的に決定するのは新学期が始まってからにするつもりだったんだ。君に話すのも、このパーティーが終わったらにしようと思っていたんだけど……まさかこんな形で計画をぶち壊されるとは」
ぎろりと、鋭い視線がダイヤを貫いた。元々レオンは、人々が畏怖を抱く類の美を持っている。だからこそ人の間を渡る時はわざとらしいくらいに分かり易い笑みを浮かべているのだけれど。
笑顔という仮面を外したレオンは、抜き身の剣を連想させた。その目で睨まれるのは、喉元に刃を突き付けられているのと同じ様な物だろう。ジェミニに対する尊大な態度は鳴りを潜めて、冷や汗を流しているダイヤがいい例だ。自分も似た様な顔をしているからあまり言いたくはないけれど、人一人どこかに沈めていそう。
「……ふざけるな。そうやって、ルワーナの心を決め付けて勝手な事を……ッ、どれだけ彼女の意思を蔑ろにすれば気が済む!」
「…………」
「姉弟揃って浅ましい! 恥を知れ‼」
レオンへの恐怖はルワーナに対する愛情かっこ笑いによって払拭されたらしい。
ダイヤ以外の全員にとっては、お前が言うなとしか思えない発言だが、こういう手合いには理論立てて説明しても全てが理不尽として受け取られるものだ。全部が全部自分の都合の良い物しか受け入れない、子供を通り越して虫か何かに思えて来る。子供だったらまだ可愛い、まだ。
「貴方にだけは言われたくないんだが」
「華麗過ぎるブーメランね。『俺は愚かな馬鹿者です』と喧伝したいのなら大成功だけれど」
最早呆れすぎて何も言えなくなってくるが、その馬鹿者が暴挙に出ていなければ今もまだ婚約者として結婚への段取りを進めていたのだろ思うと、その愚かさにも欠片の感謝を抱きたくなってしまう。同時に自分の元婚約者はとんでもない阿呆だったのだと思い知らされて途方もない気分にもなるが。
「だが、そうだな……確かに、ルワーナの意思をまだ聞いていなかった。いくら気持ちが繋がっていようと、それを理由に言葉にしないのはただの怠慢だろう」
ダイヤを横目に鼻で笑ったレオンが、ジェミニの……その腕に縋り付いているルワーナの足元に跪く。片膝を立てたその姿は、まるで女王に謁見を許された騎士の様だ。
レオンの突然の行動に呆然としているルワーナの手から力が抜けたと同時に、ジェミニは音を立てずにその場を離れる。既に自分はこの舞台の主役ではない。愚かな婚約者に振り回された女の出番は、もう終わった。ここから先は、美しい騎士と天使の様なお姫様の恋物語。
「ルワーナ・サンスリー様。この様な場でこの気持ちを口にする私をお許し下さい。本当ならばこの指に贈る愛の証を持参すべきだというのに、この身一つで貴方の前に傅く私を、どうか笑って下さい。そして願わくば──私の心を、受け入れて下さい」
騎士が手を取り、微笑む。今にも泣いてしまいそうな姫が、白い頬を桃色に染めている。まるで絵画の様な光景は、誰もから言葉を奪っていく。呼吸音すら止んだ世界に、神聖な愛の言葉が流れていく。
「レオン・ロンドアの名に誓い、貴女を幸せに致します。何を差し置いても、護り抜いて見せます。貴女が私の愛に頷いて下さるなら、私に恐れる物は何もない」
ハッピーエンドは、もうすぐそこに。
「──貴女を愛しているのです、私と結婚して頂けませんか」
「ッ、……はいッ」
ここに画家でもいたのなら、さぞ素晴らしい作品を描く事が出来ただろう。まるで御伽噺の一幕、絵本のラストシーンを想起させる。これが本当の絵になる二人という奴だ。我が弟ながら、とんでもない逸材である。プロポーズでこれなら結婚式はさぞ絢爛な仕上がりになるだろう。
個人的には楽しみだが、元婚約者の妹と実の弟の結婚式に出席するのは、字面だけ見ると可哀想過ぎる気がしなくもない。一切合切、素晴らしいプロポーズシーンのバックで発狂している行き過ぎて戻って来れなくなったシスコンのせいだ。ぜひとも弟夫婦にはダイヤが末永く絶望する様、未来永劫幸せであって欲しい。
「はぁー……帰ろ」
後はレオンが自分で何とかするだろう。ダイヤも性格以外は優秀な男だけれど、レオンも同じく優秀であり、そこにプラスして色んな意味での迫力に富んでいる。その上今は周囲もレオンの味方しかいない。ダイヤ自ら敵を量産してくれたおかげだ。
誰にも気付かれない様に会場を後にする。折角レオン達に注目が集まっているのに、物語の裏側を覗かれては台無しだ。
(可愛い義妹が出来たわ)
サンスリー家との関係も、二人の結婚でなんとかなるだろう。ルワーナがこちらに嫁ぐのは確定しているけれど、大事なのは互いの家間に繋がりがある事だ。二人の恋物語がもっと早く結びついていたら、自分はダイヤと婚約する必要はなかったのだけれど……お互いに初恋を暖め過ぎたなんて可愛い理由では怒る気も失せてしまう。
恐らく、ルワーナ達は学生結婚をする事になる。二人とも年齢の問題はクリアしているし、学園入学と同時に入籍した者だっていたはずだ。婚約のままではルワーナはサンスリー家を離れられない、それはあまりに危険。義妹への恋心を最悪の形で暴露した男と一つ屋根の下なんて、どんな暴挙が行われるか分かったものではない。
籍さえ入れてしまえば、ルワーナは我が家へと移る事が出来る。学生結婚をした夫婦の多くは、籍を共にするだけで卒業するまで実家のままだと聞くけれど、今回はそんな悠長を言っていられない。それに関する手続きなんかも、どうせレオンが根回しをしているだろう。
(私は……どうしようかしら)
本当なら、今日がロンドアを名乗る最後になるはずだった。サンスリーになりたいとは欠片も思ないが、それでも色々と心の準備をして明日への緊張とか不安とかを抱いていたのだけれど。本来ならば寄り添って欲しいはずの婚約者に粉微塵に潰されるとは思わなかった。
いつかは過去となり、笑い話に出来る日は来るだろう。
育もうと思っていた心を踏み躙られた痛みも、投げ付けられた彼の棘に塗れた心も、全部笑い飛ばしてやれる日が、来ると分かっている。
それでも、痛いものは痛い。今この瞬間、ボロ雑巾の様に扱われた心が、痛い。
悲しくはない、ただどこまでも果てしなく、苦しいくらいに腹立たしいだけで。
『自分が選ばれなかったからといって、見苦しい』
──うるせぇ、馬鹿。そんな事、私が一番分かっている。
恋い慕う相手ではなかった。それでも、大切にすべきだと思っていた。だからずっと、大切にしてきたつもりだった。それでも、彼の身を焦がす愛の前に灰と化した情だった。
愛らしいルワーナと、騎士の如きレオンの姿が過る。
どんな物語よりも美しい光景で、理想の二人だった。小さくて柔らかくて優しくて、可愛い女の子。自分とはかけ離れたルワーナに、コンプレックスを刺激されるなんて事はない。ジェミニにとっての理想は美しく気高く凛々しい自分となる事であって、ルワーナに対して抱くのは花を愛でている様な癒しであった。
だから彼女に嫉妬したとか、劣等感を覚えたとかではない──けれど。
(私が私のままでは、駄目なのか)
この理想のままでは、誰にも選ばれないのだろうか。そんな不安が、弱った心に付け込んでくる。誰に選ばれずとも、己を愛せればそれで良いと、普段なら一蹴しているのに。
好んで読んだ恋物語。自室の本棚に並んだ、沢山の愛の言葉達。
いつか自分もあんな風に、誰かと手を取り合って歩いて行けるのだと、思い込んでいた。
(ッ、泣いてたまるか……っ)
あんな男の言葉で、涙を無駄にしてたまるかと、歯を食い縛って上を向く。俯いているから、心までもが下に向かっていくのだ。辛くとも痛くとも、蹲ってしまっても、上を向きたいと思う事だけは忘れてはならない。
グッと眉間に力を入れて、窓の外に広がる空を睨んだ。
青空を埋め尽くさんとする、白い雲の群れが美しいと思った。それだけで、大丈夫だと思える。美しい物を美しいと受け入れられるなら、自分の心はまだ荒み切ってはいないのだと。
「──あの、っ」
「え……」
まるで空に流れる雲の様に、真っ白なハンカチが差し出される。白い髪が揺れて、褐色の指は小さく震えている。ヒールを履いたジェミニよりも少し下にある瞳は、夏の太陽によく似ていた。
天使と騎士の恋物語がエンディングを迎え、めでたしめでたしの舞台裏。
これは、役目を終え袖に捌けた脇役が選び選ばれるお話──その、始まりである。