ヴァルディック子爵の次男
七月中旬、シューヴァンシュタイン公国は短い夏を迎えていた。
標高が高いため気温はそこまで上がらないが、それでも木々は鮮やかな緑に染まり、生命力に満ちた季節になる。
シューヴァンシュタイン公国がITと共に力を入れている産業が観光業で、雪に沈んでしまう冬と違い、今はまさに観光に最適なシーズンだ。そのため、ヨーロッパ一メルヘンなこの国のメイン道路は、観光客で賑わっていた。
ラヴェンダーはそんな行き交う人々の流れを縫いながら、石畳を歩いていた。
実を言うと、三週間ぶりの外出である。
あの異世界としか言いようのない巨人の街の冒険から帰ったラヴェンダー達を迎えたのは、エリーゼの悲鳴と、フェリスの避難めいた——もちろん対象は男二人当ての——鋭い眼差しだった。
その前の闇オークションでの潜入でも怪我をして帰ってきて、そしてまたグロウに抱えられての帰還である。男二人がついていながら、という怒りもさることながら、心配メーターが振り切ってしまったエリーゼから、ラヴェンダーも病室での隔離を言い渡されてしまった。
まあ、隔離を言い渡されなくても、ラヴェンダーも動けなかった、と言うのもある。
検査の結果頭には異常はなかったものの、肋骨にヒビが入っており、他にも打撲やむち打ちなどの症状があった。そのため、興奮が冷めてから襲ってきた痛みで出歩くこともできなかったのである。
ようやく症状が落ち着いてから学校に行くのは許可されたが、あの冒険で得た情報に関する分析結果や、話し合いに参加することは許されなかった。
学校に行けるのだから、≪金曜のお茶会≫の地下室からリモートでシューヴァンシュタイン旧城に繋いだらいいじゃないか、と文句を言ったが、恐ろしく完璧な笑顔を貼り付けたエリーゼに却下された。
「ラヴィに問題ですわ。怪我人の一番の仕事はなんでしょう?」
部屋に見舞いに来てくれたエリーゼが、人差し指を立てた手を掲げながら問うてきた。
その可愛らしい桃色の唇はにっこりと微笑んでいるのだが、鮮やかなターコイズブルーの眼差しは全く笑っておらず、冷え冷えとすらしていた——激おこさんである。
その眼差しに見つめられ、まるで蛇に睨まれたカエルのように滝のような冷や汗をかきながら、ラヴェンダーはか細い声で答えた。
「……怪我を、治すことです……」
「その通り。そして怪我の治療に一番の大敵はストレス——ここまで言えばわかりますわね?」
「でも……」
「わ か り ま す わ ね?」
声はどこまでも柔らかく、いつもと変わらないように聞こえるのに。
1音1音区切られたその発音と、完璧なはずの笑顔の背後に立ち上る、怒りのオーラのようなものに圧倒されたラヴェンダーは、涙目で頷くしかなかったのである。
そうして、治療と学業だけに専念して三週間が過ぎた。
バストバンドも取れ、各部位の痛みも引いて湿布も必要なくなってきた。むち打ちに関しては根が深いのでリハビリがしばらく必要そうだが、元々それなりに身体を鍛えているので、後遺症はほとんどない。
医師からもそろそろ歩いたりの簡単な運動を始めた方がいい——昨日そう言われたので、今日ラヴェンダーは学校に外出申請を出して、街に出てきていた。
目的地は、街の中心にある、シューヴァンシュタイン公国議事堂である。
今日、ラヴェンダーが非常に気になる法案に関しての審議があり、それをどうしても傍聴席で直接聞きたかった。だから例え医師がだめと言おうともエリーゼに怒られようとも見に行くつもりだったので、前日に医師の許可が出たのは僥倖と言えた。
(折角行った先で説教されたあげく帰れって言われたら、さすがにへこむもの……)
今回の療養中、何度向けられたか分からないあの、笑顔なのに何故か対面する人間の体温を奪う、エリーゼの氷の微笑を思い出しながら、ラヴェンダーは軽く身を震わせた。
今まで、どちらかというとラヴェンダーを叱るのはフェリスで、エリーゼはフォローに周り甘やかしてくれることが多かったのだが、真に怒らせてはいけない人間がどちらか、今回の怪我で学んだラヴェンダーである。
議事堂の入り口をくぐると、エントランスは二つの螺旋階段がある大きな吹き抜けのホールになっている。その階段を上がった二階には通路と扉が二つあるだけで、その奥が今日の目的地である傍聴席だ。
対して一階は玄関ホールから左右に長く廊下が続き、扉がが十数個ずつ並んでいる。部屋は議員用の執務室だ。それほど大きな国ではない上、議員の仕事は全くのボランティアという名誉職なので、数もそんなに多くない。
また、玄関ホールの奥は少し奥まっていて、二階の通路の下に当たる部分に部屋が左右に二つずつある。扉の上には”控え室”の札があった。
ラヴェンダーがそちらに向かって歩くと、ちょうどそのうちの一つの扉が開き、中から人が出てきた。
一番最初に出てきた人物が、後から出てきた二人を誘導しようとして、ラヴェンダーの存在に気づいたようだった。
二人に声をかけて、ラヴェンダーの存在を知らせてくれる。
「ごきげんよう、ラヴェンダー」
「ご無沙汰しております、アーデルハイド様」
閉じた扇で軽く口元を多いながらにっこりと笑うアーデルハイド女大公に、ラヴェンダーはスカートの裾をつまみ、淑女の礼をする。
「怪我の調子はどう? 医師からは出歩いてもいいという許可が出たと聞いているけれども」
(連絡早すぎぃ……!)
昨日ラヴェンダーが病院から帰ってきたときにはフェリスは本日お出ましになるお二方の護衛——最初に部屋を出てきた人物が実はフェリスだ——の打ち合わせでシューヴァンシュタイン城に出向いて帰らなかったので、ラヴェンダー自身医師の診察の内容は誰にも言っていない。
アーデルハイド女大公の口ぶりからして、どうやら診察内容は全て報告されていたようである。
「おかげさまで、痛みもほとんどなくなりました。リハビリは必要ですが、もうほとんど日常生活に支障はありません」
「そうは言っても無理は禁物よ。あなたもわたくしの孫娘の一人のような者なんですからね。あなたが大怪我したと聞いたとき、わたくしの寿命は十年は縮まってしまったわ」
そう言ってアーデルハイド女大公はコロコロと笑うが、御年93歳と言うことを考えると、酷いブラックジョークとしか言いようがない。
しかも今日のアーデルハイド女大公は、襟が高くフリルになっているシャツに、ベージュ基調のノーカラーのツィードのジャケットとフレアスカートのセットアップに、メイクは若草色のアイシャドウとピンク系のチークと、非常に若々しいコーディネートである。とても御年93歳に見えず、だからこそブラックジョークが際立っていた。
ちなみにラヴェンダーがアーデルハイド女大公の名前呼びを許されているのは”孫娘”扱いのためで、最初は”おばあさま”と呼んで欲しいと言われたが、それは丁重に、しかし全力で辞退させていただいた過去がある。
孤児院育ちで”祖母”という者がいたことのないラヴェンダーにはその存在憧れる部分もあるが、アーデルハイド女大公はラヴェンダーが憧れたそれとは大きく離れすぎるだけでなく、こういうなんというか”強”すぎる。
恐れ多すぎてとてもではないが頷けなかったのである。
「ご心配をおかけしました」
「一番心配して他のはわたくしではなく、エリーゼよ。この娘があんなに怒ることは滅多にないから、わたくしもビックリしたわ」
そう言ってアーデルハイド女大公がその明るいターコイズブルーの眼差しを向けたのは、傍らに立つエリーゼだった。
今日のエリーゼはいつもと違い、ふわふわとカールした髪を下ろすのではなく、三つ編みにして頭に巻くようにして結い上げていた。着ている服も明るいブラウンのスーツで、スカートはタイトスカート。足下だけローファーで年相応だが、かなりかっちりした装いだった。
実を言うと、ラヴェンダーが気になっている今日の審議は、エリーゼが発案人だ。そのため、制服姿のようなふんわりした格好でなく、あえて大人っぽく見える装いをしているのだろう。
メイクもブラウンをベースとしたすっきりとしたものになっている。
「ごきげんよう、ラヴェンダー。お医者様から話は伺ってますけれど、元気な顔を見れて安心しましたわ」
「ご心配ありがとうございました、エリーゼ様。エリーゼ様のおかげで療養に集中できたので、お医者様からは治りが早いと驚かれたくらいでした」
「それは良かったわ。あの時心を鬼にして怒った甲斐があったというものですもの」
ふふふ、と口元を手で覆いながら明るく笑うが、アーデルハイド女大公そっくりの蒼い眼差しは全く笑っていなかった。
これ以上この話題は心臓に悪い、とラヴェンダーは話題を変えることにした。
「お二方が出てきたと言うことは、もう審議が始まるんですか?」
「いや、その前に休憩が入る。休憩の間に準備する必要があるから、出てきたんだ」
それに、答えたのはフェリスだった。明るめのトーンの二人と対照的に、護衛として付き添っているフェリスはダークトーンのネイビーのパンツスーツを着ていた。耳にはイヤーカフをつけており、他のSPとの連絡を取っているようだった。
「ちょうど今、前の議題が終わったところみたいだ」
そう言って、フェリスが通路の最奥にある一際大きな扉に視線を向ける。するとそれがゆっくりと開き、中から議員達が出てきた。
「——おや、これは義母上ではございませんか」
その中の一人が、声を上げ、こちらに近づいてくる。
ドイツ系の血を引く人間が多いシューヴァンシュタイン公国にしては珍しい低身長にもかかわらず、でっぷりとたるんだ腹を揺らし、大分薄くなった茶髪を馬油で無理矢理後ろに撫でつけた髪型のその男は、厚い肉のついた両手を広げた。
「ご無沙汰しております」
「……新年の挨拶振りかしら。久方ぶりね、ヴァルデック子爵」
腰を折り、礼をするその男に、アーデルハイド女大公が閉じていた扇を広げ、顔を覆いながら声をかける。
目元はにっこりと微笑んでいるが、その蒼い瞳は全く笑っていない。ついでにその声も聞いてるこっちが凍り付きそうになるくらい冷たい。激おこエリーゼとそっくりだが、その冷ややかさは段違いだ。さすがの女大公閣下である。
そのアーデルハイド女大公の態度に、身分が下の人間から声をかけた無礼以上の因縁を感じたラヴェンダーだったが、その名前を聞いて納得した。
ヴァルデック子爵——八十年近く前に失われた≪守護者のマリア≫を探してこないとエリーゼの公爵位継承を認めないという無理難題を言い出して、議会で意見書を通した張本人である。
「義母上が議会にいらっしゃるとは珍しい——挨拶をしろ、ローラント、ジークベルト」
大公の態度に気づいていないのか、それとも分かっていて無視しているのか——だとしたら相当な強心臓の持ち主だが——ヴァルデック子爵家は後ろに従っていた二人の青年に声をかける。
それに、年かさの方の、三十代に近い年頃の青年が先に足を踏み出した。
「お久しぶりです、おばあさま」
「……あなたも半年ぶりかしら、ローラント。相変わらずそうで、なにより」
半年ぶりの孫からの挨拶に、アーデルハイド女大公の声は変わらず冷たい。エリーゼと同じくるくるとカールしたくせっ毛の髪質以外、ヴァルデック子爵を身長を伸ばしてそのまま若くしたようなローラントは、どうやらその内面もヴァルデック子爵そっくりらしい。
(公の場で会った目上の人間に話しかけるだけでなく、おばあさま、は、ないわぁ……)
思い、ラヴェンダーが視線をフェリスに向けると、彼女は軽く首を振った。
その鳶色の瞳が、諦念の色を浮かべている。こいつは昔からこうなのだ、と言葉より雄弁に語っていた。
アーデルハイド女大公の”相変わらず”の台詞の後ろには馬と鹿が続くのだろうことが容易に想像がついた。
「……あなたは、先月の息子の月命日以来ね、ジークベルト」
一方、じっとヴァルデック子爵の後ろで待機していたもう一人の青年は、アーデルハイド女大公のその声で顔を上げた。
「ご無沙汰しております、シューヴァンシュタイン公爵家の太陽、アーデルハイド大公閣下」
そう言って、ローラントよりは幾分背が低く、腺も細く見える二十代前半くらいに見える青年——ジークベルトは、胸に片手を当て、綺麗な礼をした。
金糸の入ったスーツやぎらぎらと大ぶりの宝石のついた指輪を身につけているヴァルデック子爵やローラントに比べ、ジークベルトはシンプルな紺のスーツとシルバーのストライプの入ったブルーのネクタイという装いで、飾りも銀のカフスボタンくらいと、非常にすっきりとした服装をしていた。
(服装はシンプルだけど、スーツの質や形そのものは悪くない。むしろすごくいいものだわ。礼節をわきまえてるし、こちらはかなりできのいい”孫”、ね)
ジークベルトを観察しながら、ラヴェンダーは内心二重丸をつけた。記憶が正しければ継承権は三位でエリーゼのライバルになる立場ではあるが、好感が持てた。幼い頃から公爵位を継ぐための教育を受けていたエリーゼはともかく、もし後の孫二人ともしヴァルデック子爵のコピーだったら、アーデルハイド女大公もさぞ頭が痛かったことだろう。
でも、どちらが爵位を継ぐにしても、エリーゼとジークベルトなら協力し合えそうな気はする。
もちろんそれには、ヴァルデック子爵とそのコピーみたいなローラントを排除する必要があるだろうが。
「相変わらずお元気そうで安心致しました」
「……あら、まるでわたくしが今にも天に召されてしまいそうと心配していたみたいではないの?」
ジークベルトの言葉に、ややきわどい台詞を返すが、アーデルハイド女大公の声音は軽い。むしろこういう茶目っ気を出すのは機嫌のいいときだ。
なるほど、アーデルハイド女大公にとってもジークベルトは可愛がっている孫のようだった。
「まさか。最近ジョギングの距離を伸ばしたとお伺いしておりましたので、熱中症になっていないかと心配していたんです。最近はこの国も夏の気温が上がってまいりましたから」
兄やエリーゼと同じくせっ毛を揺らし、祖母と同じ水色の眼差しを細めながらジークベルトが言う。
その声音に、どこか避難めいたものが混じっているのを感じ、ラヴェンダーはアーデルハイド女大公を見た。すると、珍しいことに彼女はどこか気まずそうに目をそらす。
「ちゃんと、無理のない範囲で走っているわ」
「御年を考えてくださいませ、と何度も申し上げておりますよね?」
にっこり、と微笑むその姿は、エリーゼそっくりだった。それも、誰かをやり込めるときの。
なるほど、これはアーデルハイド女大公から受け継がれた遺伝的なものらしい。
笑顔の青年と、視線をそらした女大公と。
数秒間の無言の攻防が繰り広げられる。
音を上げたのは、祖母の方だった。
「……距離に関しては、検討するわ」
「分かっていただけて何よりです」
今度こそ、本当に、心から、と分かる微笑みを浮かべて一礼すると、青年は父親の後ろに下がった。
ラヴェンダーから見れば、ジークベルトは伯父の月命日に祖母の元に行く孝行者で、アーデルハイド女大公からも後継者候補としてとしてかなり目をかけているのが分かる。けれど、肝心のジークベルトの父にはそれが分からないらしい。
おもねりやがって、とでも言いたげな冷たい視線を息子に投げながら、ふん、と鼻を鳴らしている。
(……なるほど。ヴァルデック子爵はアーデルハイド様が正当な公爵と内心は認めていないのね)
ラヴェンダーは冷静に分析しながら、内心納得がいった、と言うように頷いていた。
男子継承の原則から行けば、アーデルハイド女大公の両親と兄、姉達が殺された時点で、本来ならその継承権は分家の一つであるヴァルディック子爵家に行っていてもおかしくなかった。けれど現実はそうならず、アーデルハイド女大公が叙爵し、八十年近くの善政を敷いてきた。ヴァルデック子爵にはそれが面白くなく、かつ自分のものだったかもしれないで栄誉を不当に奪われ続けてきたような、そんな不服さがあったのだろう。
自分が上だと思うから、身分等構わず声をかけ、あえて”大公閣下”と呼ばない。ついでにエリーゼは完璧なまでに無視をする——はっきり言って子供じみた嫌がらせだ。
ヴァルデック子爵が提案したという継承権に関する提案も、伝統がなんだときれい事を並べてはいるが、結局のところ単なる嫌がらせだったのかもしれない。どうせ見つけられないだろうから、とっとと公爵位をよこせ、という。
(……あーこれは……”老害”と言いたくなる気持ち、分かりますわ。エリーゼ様)
内心、心から同情したラヴェンダーだった。
「お久しぶりです。ジークベルト卿。先日は亡き父のためにご足労頂き、ありがとうございました」
「こちらこそ、私のためにお時間を取っていただいてありがとうございました、エリーゼ様」
一方、ジークベルトはエリーゼに声をかけられるまで待ち、年上にもかかわらずきちんと敬語で答えている。エリーゼに視線を向けようとしない父や兄に挟まれながら、どうしてこんな好青年が育ったのか、はっきり言って謎である。
「……申し訳ないけれど、休憩の後に提案する法案について準備があるの。そろそろいいかしら?」
なかなか立ち去ろうとしない義理の甥に苛立ちを滲ませた声でアーデルハイド女大公が言う。それに、ヴァルデック子爵がおやおや、とわざとらしく肩をすくめてみせた。
「そう言えば、この後義母上から何かお話があるとのことでしたな。前に可決した法案について、いい結果でもご報告いただけるのでしょうか?」
そう言いながら、ヴァルデック子爵は下卑た笑いを浮かべた。どうせ見つかっていないのだろう、と言いたげな顔だ。後ろでローラントもそっくりな顔で笑っている。
「どんな内容かは、休憩の後をお楽しみにお待ちくださいませ」
ラヴェンダーだったらとうにぶちぎれてしまってそうなその不遜な態度に対して、エリーゼは柔らかく微笑んでみせた。
「それでは、また後ほど。ヴァルデック子爵」
そう言って、アーデルハイド女大公が踵を返す。それに、エリーゼ、フェリスが続いた。
その場に取り残されたヴァルデック子爵とローラントもすぐに笑顔を消し去り、さも面白くない、と言った風に不満げに鼻を鳴らした後、どかどかと足音を立てながら議員室のある通路の方に歩いて行った。
「……父と兄が、不快な思いをさせてしまいましたね」
それを、何故かラヴェンダーと共に見送ったジークベルトが、苦笑を浮かべながらラヴェンダーに声をかけてくる。
あら、この人は私のことを認識していたのね——と思うが、それは口に出さなかった。かっちりした場に来るからと黒の襟付きワンピースを着てきたラヴェンダーを、おそらくあの二人は、メイドの一人、くらいにしか認識していなかっただろう。
末席とは言えラヴェンダーの籍のあるドイツの名門ヴェルフ家は神聖ローマ時代は侯爵の位を賜っていた家柄だ。ヴァルディック家が公式に公爵家の分家としての身分が残ってるとは言え、家格で言えばヴェルフ家の方が高いのだが——それを知らない人間に主張しても仕様があるまい。
「お気になさらないでください。私は特に声をかけられてたわけでもありませんから」
「でも、エリーゼ様とお話ししてたんでしょう? それを遮ったことには変わりありませんから」
そう告げて改めて詫びと共に腰を折るジークベルトを、ラヴェンダーは興味深く観察した。
明らかに年下の自分に対し、敬語を崩さない上、丁寧な対応をしてくると言うことは、おそらくラヴェンダーが誰か認識しているのだろう。
「頭を上げてくださいヴァルディック子爵様……もしや、私のことをご存じですか?」
そのため、疑問と言うより、確認の意味で問いかけると、姿勢を戻したジークベルトが薄く微笑みながら頷いた。
「——私の記憶が確かなら、生徒会のメンバーのヴェルフ様ですよね?」
「その通りです。お名前を頂いてもよろしいでしょうか?」
「ジークベルト=ヨーゼフ=フォン=ツー=ヴァルディックです。どうぞ私に敬語は使われず、ジークベルトとお呼びください」
「では、私の方も敬語はなしで、ラヴェンダーの方でお呼びください」
そう言ってラヴェンダーが手を差し出すと、ジークベルトが握り返してくる。その手の感触に、ラヴェンダーはやや目を見張った。そして軽く視線を彼の右手に落とす。
握った手の平の感触は固く、指の付け根のあたりが特にごつごつとしていた。器械体操をやるラヴェンダーも人のことは言えないのだが、おそらくこの男の手の平のそれは違う理由でできたものだろう。
なぜなら、手の甲もすりむいた痕があるからだ。似たような手の持ち主をラヴェンダーはよく知っている。グロウだ。
つまり、ジークベルトは何らかの格闘技をやっていると言うことになる。
ぱっと見た印象は線も細く優しそうで、とてもそんな風に見えないので、意外に思いながら視線を上げると、どうやらその疑問は透けて見えていたようである。ジークベルトは左手の人差し指を唇に当てて、エリーゼが”今は秘密”をやるときと同じポーズを取って見せた。
なるほど、対外的には内緒の内容のようだ。
考えてみればシューヴァンシュタイン家は元を辿れば騎士の家柄で、エリーゼもフェンシングはかなりの使い手だと聞くし、その分家のフェリスの家もばりばりの武闘派。ヴァルディック子爵家もそうであってもおかしくはない。
ただ、その当主と長男がやる気がないと言うだけで。
「……しかし、驚いたわ。副会長でエリーゼ様の護衛のフェリス様ならまだしも、一書記に過ぎない私のことまで把握されているなんて」
相手の希望に添って敬語はやめ、また手のことにも触れずにラヴェンダーが言うと、ジークベルトはやや目を丸くしてから滲むように笑った。
「エリーゼ様の活動は全部把握してるんだ。将来、仕える方だから」
そう言って、ジークベルトはエリーゼ達が消えていった扉の方を眺めた。
その蒼い眼差しには、どこか憧憬のようなものが見て取れる。
その視線の意味も、ラヴェンダーは詮索しないことにした。
今の彼女には知らなくてもいい情報だったから。
「お詫びにこれ、どうぞ」
そう言って、ジークベルトは胸元のポケットから小さなチョコレートを三欠片取り出した。
「傍聴席からなら、見つからないと思うから、議論に飽きたら、食べて」
秘密のいたずらごとのように声を潜めて言うジークベルトに、ラヴェンダーは思わず表情を緩めた。両手を出して、スイスブランドのそのチョコレートを受け取る。
「……ありがたくいただきます」
「うん。僕もね、眠くなったとき、あくびを隠す振りして食べてるんだ」
「え……」
「おかげで、発言はうまくならないけど、チョコを食べるのは誰よりも上手になったよ」
軽くウィンクしてみせるジークベルトに、ラヴェンダーは堪えきれず破顔したのだった。
閲覧ありがとうございます。
次回投稿は1月26日16時となります。




