純潔度合いの証明と黒い襲撃者
ワインの置いてあった家を出た一同は。大通りをまっすぐに歩いた。
おそらく、排水溝だろう小さな溝が、彼らにはちょうどいいサイズで、途中途中で建物の中を覗きながら歩いたが、どこも人の姿はなく、石造りの家具が静かに鎮座しているだけだった。
「しっかし、誰もいないなあ」
すっかり警戒を解いたグロウが、頭の後ろで両手を組みながらぼやく。
「折角の装備も使う必要ないかもしれねえな。結構いい装備買ってもらったってのに」
「……お前、人の金だからって、無理難題言い過ぎだ。障害物壊すんだったら手榴弾で十分だろう。なんでロケットランチャー持ってきたんだ」
「使い勝手がいいから、ついなー。でも、もしかしたらすげー巨人のバケモノ出てくるかもしれねえだろ。そしたら。大活躍だぜ」
「そんな事態になったら高確率で俺たち死んでる」
白い歯を見せて笑うグロウに、ジェイが呆れたように言った。確かに、ミサイルランチャーが活躍するような巨人のモンスターなんて出てきて欲しくないものである。
「でも、何となくだけどここの街の人には会わないんじゃないかって気がしてるわ、私は」
そこから、間にラヴェンダーを挟んで兵器談義に突入した男二人に、ラヴェンダーはおもむろに言った。
「どういうことだ?」
「私もオカルトは詳しくないけど、よくファンタジーで異次元って言葉出てくるじゃない? ここがまさにそれなんじゃないかって」
言いながら、ラヴェンダーは周囲をぐるりと見回す。
「多分、あの扉を抜けたとき、膜をすり抜けるような感覚があったのは、次元を超えたからなのよ。でも、私たちの目も身体もあくまで三次元だし、それより高い次元のものは知覚できない。だから私たちには全てが静止した世界に見えるし誰もいないように見えるけど、ここに暮らす人たちの次元では確かに生活が営まれてるんじゃないかって、そう思ったの」
「……なるほど、一理あるな」
「どういうことだ? 俺にも分かるように説明してくれ」
「ここに住んでるのはゴーストで、お前みたいな単純脳にはそれが見えないってことだ」
「うえ。ゴーストがいるのかよ、ここ」
明らかにラヴェンダーの言った内容と違う説明で打ち切って、周囲に視線を巡らせたジェイに対し、グロウが両腕を抱きかかえて身を震わせた。
「なに、グロウはゴーストが苦手なの?」
「ゾンビやモンスターなら殴ればなんとかなるだろ? でもゴーストは殴れねえじゃんか」
「……何でも拳を基準に考えないでよ」
「なあ、あれ、なんだ?」
グロウの脳筋発言に呆れかえったラヴェンダーに対して、ジェイが後ろから前の方を指さして言う。
「あの、噴水の先、扉がないか?」
言われ、二人は視線を前に戻した。
ジェイが指を指した方向で、大通りは噴水のある広場にぶつかっており、丸い円形の広場から左右に路地が伸びている。
けれど彼のいう扉はどこにもなかった。
「……扉なんて、みえないけど?」
目をこらしたが見えず、ラヴェンダーが振り返ると、ジェイは何故か別の方向に視線を向けた。
空の方に視線を向けている。
「いや、多分、近づいたら見えるはずだ。行ってみよう」
何となく釈然としないが、他にヒントもないので黙って前に進むことにする。
それにしても、神殿の上から見た町並みは、例え普通にラヴェンダー達のサイズ感の街であったとしても、大通りの終点の別の神殿までかなりの距離がありそうだったのに、ジェイに釣られて遠くを見たラヴェンダーの目には、それが大分近づいてるように見えた。もう半分ほど進んでいるのではないだろうか。
このラヴェンダー達のサイズと街の大きさの差を考えると、もっと時間がかからないとおかしい。
そう考えると、もしかしたら距離の縮尺もどこかおかしいことになっていて、自分たちが実際に足で進んだ距離より、ずっと長くラヴェンダー達の座標は移動したしているのかもしれない。
「噴水広場に着いたわね」
ほとんど空から降り注いでくる滝のような高さの噴水を見上げて、ラヴェンダーは言った。
噴水が大きすぎて飛んでくる飛沫は大粒の雨のようだし、地面を滑る冷気がまるで冷風のように三人を包んでいた。
寒すぎるのでできれば早くこの場を離れたい、と周囲を見回すと、噴水の右隣に、不思議なことにぽつんと両開きの扉が立っていた。それも、大きさはラヴェンダー達にちょうどいいサイズのものだ。
「ほんとにあった……でも、戸板、だけ?」
その不思議な扉の前に立って、ラヴェンダーはきょろきょろそれを眺めた。
立っている扉の向こうには大通りの風景が続いていて、扉の向こうに何かあるようにも見えない。ただ扉の形をした木の板が二枚立っているだけのようにも見える。
「ここ、メダリオンが填められないか?」
閉じた扉の境を指で撫でながらジェイが言った。言われてそこを覗いてみると、円形のくぼみが有り、中央がさらに半球状にへこんでいる。大きさもどちらかのメダリオンに合いそうだった。
「填めてみるか」
言って、ジェイは懐からメダリオンを取り出した。さすがにアテナ像は置いてきたが、何かに使えるかもしれないと、あの巨大な扉を開けた後に≪陽印のメダリオン≫と≪月印のメダリオン≫は取り出して持ってきていたのだ。
「填まりそうなのは、月印の方だな……」
言って、一回り小さい方のメダリオンを、扉のくぼみに填める。
すると、かちり、と音がして、扉の境界が淡く光る。そして、きい、と静かにその扉が開いた。
その奥に何が続くのか、こちら側からはなにも見えなかった。ただ真っ黒な空間が扉の向こうには広がっている。
「入ってみるか?」
言いながら、グロウがナイフを抜き、その黒い靄のようにも見える空間に刺してみていた。特に感覚として感じるものはないのか、適当に左右に動かした後、そのナイフを抜いた。そうして刃先を確認してみるが、特に変質している気配もなかった。
「ガス探知は作動してないし、ガイガーカウンターも異常ないな」
一方ジェイも持ってきていた探知機の類いで中を確認している。そちらも特に問題はないようだった。
「じゃあ、また俺から入ってみて、異常がなかったら呼ぶわ」
グロウは軽い声で言うと、自動小銃を構えた状態でその扉の中に入っていった。
すると、そう時間もかからずに戻ってきて、黒い靄の中から顔だけ突き出してくる。
「特に危険なものはないみたいだが、中、また扉があるぜ」
そう言って、また中に引っ込んだグロウは、今度は右手だけこちらに突き出してきてついてこい、と手をひらひらと振るジェスチャーをしてくる。
ラヴェンダーとジェイも、危険なものはないという言葉を信じて、黒い闇の中に足を進めた。
「別の空間?」
そうして中に入ってみて驚いた。扉の中には全く別の、床と壁の境界線も分からないような見渡す限り真っ白な空間が広がっていた。外の風景の片鱗は全く見いだせない。
代わりに、広場とほぼ同じくらいのサイズの円形の空間には、ほぼ正面に扉が一つ、そして左右に扉が一つずつあった。
全くつながりがないように見える空間だが、噴水広場とそれに連なる通路とは位置的に関連はありそうだった。
「どの扉に行くか、だな」
入る前に扉から外してきた≪月印のメダリオン≫を懐にしまいながら、ジェイが言う。
「一応中の安全確認するときにあっちの扉見て来たけどな、なんかを填める枠はなかったぜ」
グロウが左手にある扉を指さしながら言う。
「じゃあ、そちらは今現時点で開ける方法がないとして、右の扉から見てみるか」
ジェイがそう言ったのに頷いて、三人は右の扉の前に移動した。
扉の素材は入ってきたものとは違い、石の素材でできていた。ただ一枚岩ではなく、いくつかの岩を積み重ねたような素材だ。その中央、開く扉の境目には、ぎざぎざとした線状のくぼみがあるが、メダリオンのような円形のものが填まる枠はなかった。
「ここを開くには別のアーキファクトが必要と言うことか……」
「あっちにはこのくぼみそのものがなかったのよね?」
ラヴェンダーが問うと、グロウは大きく首を頷いた。
「ああ。扉の素材は似てるけど、くぼみみたいなのは一切なかったぜ」
「じゃあ、あっちの扉は一方通行で,こちらからは開けられないのかもしれないな」
「真ん中の扉に行ってみましょう」
開かない扉の前にいても仕方ないので、三人は入ってきた扉の正面、方向で言うともう一つの神殿があった方角にある扉の前に立った。
「……これは、メダリオンが填められそうだな」
周囲の空間に溶け込んでしまいそうなくらい美しい白に塗られたその扉は、入ってきた扉と同じく丸いくぼみが二枚の扉を跨ぐように彫り込まれている。ジェイは再びメダリオンを取り出すと、それを填めようとした。
「――っいっ」
けれど、低く呻くと、メダリオンを取り落とす。
「どうしたの?」
まるで扉に跳ね除けられたように弾かれた右手を、逆の手で押さえて身を折ったジェイに、ラヴェンダーは駆け寄った。
「わからない。だが、すごい強い静電気みたいなのが、突然……」
「見せてみろ」
呻くジェイの手を取り、グロウがその手から黒の革手袋を剥ぎ取る。すると指先から付け根にかけて真っ赤に腫れていた。しびれているのかわずかに震えてすらいる。
「一応冷やすか」
そう言って、グロウは腰に下げていたホルダーからペットボトルを取り出すと、その水をジェイの指にかけてやる。
ひんやりとした感覚に幾分痛みが和らいだのか、ジェイの表情も少し緩んだ。
「……少し、マシになってきた」
「良かったわ。でも、これまでこういう罠みたいなのなかったから、困ったわね」
指をグーパーと動かせるくらいには持ち直してきたジェイの様子に、ホッと胸を撫で下ろしたラヴェンダーは、ため息とともに扉を見上げた。
「電流が流れたんだとしたら、ゴムならいけるのかしら……」
「ゴムならこれはどうだ?」
そう言って、グロウはサバイバルナイフを抜くと、躊躇なくそれを扉に近づける。
「ちょっと、待っ……」
「ってぇ!」
ラヴェンダーが止める間も無くサバイバルナイフの柄で扉をつついたグロウは、ジェイと同じように盛大な悲鳴と共にナイフを取り落とした。
ナイフが、キン、と甲高い音で床を叩く。
「ちょっともう、何やってるのよ」
「だって、電気ならゴム通さないはずだろ?」
「電流かどうかわかってないのに迂闊に動きすぎよ」
「くっそー」
文句を垂れながら、ナイフを手にしていた方の手袋を剥ぐと、グロウはその赤銅色の瞳を見開いた。
「んだ、これ?」
彼の大きくてゴツゴツとした手はやはり赤く腫れていた。しかも彼の場合、ナイフを握っていたせいか手の平が全体が赤くなっていた。
だが、全体が均一に腫れてるというより、まるで何本かの鞭で同じ方向から打ったかのようなミミズ腫れが、平行に何本か走っている。
明らかに静電気のせいには思えない腫れ方だった。
「……こんなの、開けるの無理じゃねえのか?」
「扉の雰囲気も、禍々しいしな。入らない方がいいのかもしれない」
手を怪我した男二人が、それを逆の手で押さえながら文句を言っている。
けれど、ラヴェンダーはジェイのコメントが不思議で、首をかしげた。
「禍々しいってどういうこと?」
問いかかけながら、ラヴェンダーは扉を見上げた。
真っ白で静謐な扉には、薄く銀色で植物の模様が描かれているが、ジェイの言うような恐ろしい雰囲気はない。
むしろ、ラヴェンダーには、落ち着く空気が周囲を包んでいた。
「どういうことって……怒った人の顔みたいな模様が描かれるだろうが」
「木目がそう見えるだけかと思ったけど、やっぱそう見えるよな?」
ジェイが言って、グロウが同意する。
それに、ラヴェンダーは戸惑い、扉を指さした。
「どういうこと? 私には白塗りの下地に銀色の植物の模様しか見えないわ」
「はあ? 何言ってるんだ、ラヴェンダー?」
「禍々しいどころか、すごく綺麗よ、この扉」
惚れ惚れとして、感嘆の溜息を漏らすように呟いたラヴェンダーは、思わずそっとその扉に触れてしまった。
けれどジェイやグロウが受けたように何かにはじかれるようなことはない。
しっとりとして滑らかな扉の感触だけが、手の平にあった。
「月……アルテミス——そういうことなのね」
そうして扉を撫でながら、ラヴェンダーは一つの可能性に行き着いた。
「神殿から見たとき、進んできた方向の空に月があったでしょ? それで、アテナ像の文言には最初の≪扉≫に関する記述にはアポローンとアルテミスの名前があった……月の象徴がアルテミスなら、ジェイ達がダメージ受けたことに納得がいくのよ」
そう言って、ラヴェンダーは二人を振り返った。
「アルテミスは月の女神であると同時に狩猟と貞潔の女神だわ。自分の部下が男性と通じたことを知ったときは怒って動物に換えてしまったり、自分の裸を見た男性を鹿に換えて猟犬に襲われるように仕向けたり、こう、交際に関することにうるさい話が多いのよね」
そう告げてから、ラヴェンダーはジェイとグロウの姿を見比べた。
手の平全体が赤く貼れたのにけろりとして持ち直しているグロウと、指先しか腫れてないのに未だに痛がって身を屈めているジェイ。違いは元々の頑丈さの差かと思ったが——
「だからダメージの差は——今まで泣かせた女の数の差、かもね?」
ラヴェンダーが言うと、グロウは、おお、と納得したように手の平を拳で打ち、ジェイは苦い顔をした。
「ラヴェンダー、多分その仮説正解だぜ! これに懲りてもう少しまともになるんだな」
「現に貞淑な私には美しい扉に見えるし、グロウも木目がちょっと怖く見える位にしか見えてないのに、ジェイだけ禍々しいって言ってたものね。反省しなさいって女神様からの神託よ」
「……うるさい。放っておけ」
二人がかりで言われ、ますます渋い顔になったジェイだった。
「とにかく、扉はお前が鍵を入れれば開くんだろう。さっさと開けろ」
「はいはい」
未だにメダリオンを拾うこともできないジェイに肩をすくめながら、ラヴェンダーはそれを拾い上げ、扉に填めた。
銀色の光が溢れ、扉がゆっくりと開く。
「一応、この先も男子禁制だったらいけないから、私から行くわね」
ラヴェンダーはそう断ると、止められるよりも先に銀色の光の中に飛び込んだ。
すると不思議なことに、そこは神殿の中だった。けれど、先ほどの神殿とは雰囲気が違う。
並ぶ柱の模様も違うし、床は四角い白い石に丸い銀色の石をはめ込んだパネル状のものが敷き詰められている。
その床の模様を追って顔を上げれば、その先の祭壇の上には、前の神殿で見たのと同じくらい大きな女神像がある。
結い上げた髪のその女神は背中に矢筒を背負い、左手には弓を手にしている。右手には捉えた鹿の角を掴み、その足下には二頭の犬か、狼のような獣が従っていた。
台座をよく見ると、そこにはザリガニのようなものが彫り込まれていた。さらに像の背後にある壁には、二つの建物に似たものが浮き彫りにされている。
狩猟の女神アルテミスと、他にも何か意味があるのだろうか、と思いながら、その様を端末を取り出して静止画で撮影した。エリーゼに見せればきっと分かるだろう。
見回してみたが、やはり人気もなく、危険な気配はない。
それを確認するとラヴェンダーは足を元来た扉の方へ向けた。
「——こちらは危険なさそうよ」
元の空間に移動して、待っていた二人にそれを告げ、にっこりと笑って見せた。
対してそれを待っていた男二人は、渋面である。
「お前、何かあったらどうするんだよ」
「そんな細い腕で武器もほとんど持ってないのに戦えないだろ」
次々に叱責の言葉を口にする。
「確かに戦闘技術なんて護身術がせいぜいだけど、私すばしっこいから何かあったらすぐ逃げられるわよ」
「そうかもしれないけど、まずはグロウという盾を前に出してだなあ……」
そう、ジェイが説教を続けようとしたときである。
カチン
何かが外れる音が、少し遠いところで鳴った。
音のした方を見ると、先ほどグロウが確認した、なにもくぼみがないという岩の扉が、ゆっくりと内側ーーこちらに向かって開らかれていく。
「ちょっと……このタイミングで開くとか、嫌な予感しかしないんだけど」
ラヴェンダーが顔を引きつらせて呟いた言葉とその予感が、残念ながら正しかった。開いた扉の中から、ばらばらと人影のようなものがはき出されてくる。
出てきたのは、ラヴェンダー達とほぼ同じくらいの背丈の二足歩行をした者達だ。
だが、その腕の数が普通じゃない。どれも左右に二本ずつ生え、剣や槍、刃のついた円盤、といった武器を手にしている。
どれも、顔から足の先まで真っ黒で、服は着ていそうなシルエットなのに、どこが肌で、どこが服なのか、あるいは目や鼻といった期間があるのかも、分からない。
武器を構えて素早くこちらに距離を詰めてくる様は、間違っても礼儀正しくご挨拶しよう、と言う風には見えなかった。
「お前ら、先に行け!」
人数と、状況とをさっと見て判断したグロウが叫ぶ。
「俺が食い止める! 行け!」
「でも!」
「いいから! お前らがいる方が足手まといだ!」
言うと、グロウはその大きな腕でジェイとラヴェンダーを捕まえると、放り出すように扉の向こうに押し出した。
「グロウ!」
押された衝撃で神殿の床に転がったラヴェンダーが身体を起こして振り返ったときには、扉は閉まっていこうとしていた。
触ると痛みが走るだろう扉をつかんで、強引にグロウが閉じようとしていたのだ。
「待って! 私も!」
加勢しようと踏み出したラヴェンダーの上は、けれどジェイによって掴まれ、引き戻される。
「離して! ジェイ!」
「俺がいない間に、捜し物見つけといてくれよな」
顔だけこちらに出し、そう言ってウィンクすると、グロウは力任せにその扉を閉めた。
「グロウ!」
扉が閉じられた瞬間、まるでそこになにもなかったかのように、空間が完全に切り離されてしまう。手を伸ばしても、ただラヴェンダー達がいるのと同じ空間が続くだけである。
「なんで止めたの!?」
ラヴェンダーは振り返り、腕を捕まえてきたジェイの胸に拳を叩きつけた。
「二十人はいたわ! 一人でなんて、無理よ!」
「落ち着け」
「落ち着いてなんていられないわよ! もう、あっちに戻ることもできないのよ!」
「大丈夫だ。だから落ち着け、ラヴェンダー」
「グロウに何かあったら、私……!」
脳裏をかすめた最悪の想像に、ラヴェンダーは息を飲み口元を両手で覆った。
折角ジェイとグロウは生きていてくれたのに、それを、こんなところで失ってしまうなんて——
「落ち着いてこっちを見ろ! ラヴェンダー!」
強く呼ばれ、両頬を掴まれて、ぐいっと顔をジェイの方に向かせられる。
身を屈めたジェイの氷翡翠の眼差しが、じっとこちらを見つめていた。
「大丈夫——大丈夫なんだよ」
そう告げる彼の瞳には焦りも、恐れもなく、シンと凪いだ海のように穏やかだった。
まるで、なんの懸念も持っていない、と言うように。
「心配する気持ちは分かる。だが、お前が言っても俺が言っても、本当になんの役にも立たないんだ。それくらい——あいつの戦闘能力は常軌を逸してる」
ラヴェンダーを安心させようとしての言葉にしては大分強い語感で囁かれ、ラヴェンダーは思わずその深紫色の瞳を見開いた。
「どういうこと?」
「……とりあえず、時間を無駄に使うこともないから、移動しながら話すぞ」
そう言って、ジェイはラヴェンダーを解放すると、代わりに彼女の左腕を引いた。
戸惑うが、空間が閉じられてしまった今ラヴェンダーにできることはもうない。仕方なくそれに従って歩き出した。
おそらく何か秘密があるとしたら祭壇の方だろう、と、そちらに歩を向けながらジェイが口を開く。
「あいつが習っていた格闘技の先生覚えてるか?」
「……ジョーンズ先生のこと?」
「そうだ」
「それはもちろん覚えているわ。私の先生でもあるもの」
そのジョーンズ先生には、ラヴェンダーも基礎ではあるが格闘技を教えてもらっていた。女優になってかっこよく殺陣を演じるためなのであまり本格的ではなかったが、少なくとも護身術として変な男に絡まれても身を守れるくらいにはしてもらっている。
一方でグロウは、本人も身体を動かしたり鍛えたりするのが好きだったのもあってかなりの頻度で通っていたし、道場に行ってもグロウだけ直接先生と組み手をしてもらっていたりしたので、かなり目をかけてもらっていたようではあったが——
「あの先生な、世界でも有名なくらいの凄腕の傭兵だったんだよ」
「は?」
「しかも、傭兵になる前はアメリカの体制下にいて、アメリカ軍のマーシャルアーツはもとより、冷戦時は情報局にいてソ連に潜入していたらしくて、ソ連兵として殺人格闘術のシステマを身につけてたし、兵役でイスラエルに行った際クラヴ・マガも身につけたと言っていた。ほとんど歩く殺人兵器みたいな人なんだよ」
「まさか……嘘でしょ? あの優しいジョーンズ先生が?」
ラヴェンダーにとっては稽古中は厳しいが、それ以外は優しくて目尻のしわが滲む笑顔が暖かい先生だった。
とても、そんな人には見えなかった。
「俺もスラムに身を寄せてから知って驚いたが、残念ながら事実だ。で、そのジョーンズ先生が才能を見いだして、持てる技術の全部をたたき込んだのが、あいつなんだよ」
そう言われ、にわかに信じられずにラヴェンダーは思わずなにもないはずの空間を振り返ってしまった。
「しかもCQCだけじゃない。サバイバルゲームにかこつけてCQB……クローズ・クォーターズ・バトルの技術も教えてるし、ゲリラ戦で使える罠の張り方とか、そんなのまで教えて込んでんだぜ……正直、孤児院で生き延びられたのは、あいつの戦闘技術がなかったら不可能だった」
そう言って、その時のことを思い出したらしいジェイはわずかに身震いをした。
あの夜、武器になるものはジェイが隠し持った拳銃が一丁あるのみだった。だが、グロウはそれにすら頼ることなく、孤児院の裏にかけてあった縄だけを手に中に潜入してあっという間に敵を制圧し、最後には敵の拳銃を奪って息の根を止めていたのだ。
本当に、それは”あっという間”だった——見ていたはずのジェイには何が起こったのかすら分からなかったのだ。
正直あのとき、グロウが怖いとすら思ったほどだった。
それでも、その時に彼がジェイをかばって肩を打たれたように、中東で、仲間を助けようとして腕を吹き飛ばされたように、グロウが怪我をするときは大体誰かをかばおうとしたときだ。
だったら、足手まといになる自分たちがいない方がよっぽど彼にとっては戦いやすい。
それが、ジェイがラヴェンダーを止めた理由だった。
「……信じられないわ。グロウが、そんな……」
「だが、見ただろう? あいつは顔色も変えず、簡単にあのバケモノの息の根を止めてみせた。それこそ、次元が違うんだよ」
ジェイの言葉に、ラヴェンダーはもう一度後ろを振り返った。
五年前の時点ですらジェイに身震いをさせるほどの強さだったのに、その後傭兵として前線にいた彼が、どれほどになっているのか、想像もつかなかった。
「だから、俺たちは俺たちのできることをする——行くぞ」
ジェイが言って、さらに強く腕を引いたので、ラヴェンダーは大きく頷いて、足を速めた。
ジェイの言葉を、グロウの実力を信じて、もう後ろは、振り返らなかった。
閲覧ありがとうございます。
次話投稿は1月19日16時の予定です。




