第21話 堕ちた偶像と虚飾の檻
「……よし。お食べ、クロエ」
「あ、あぁっ……ありがとうございます、ルチア様……!」
陽光がたっぷりと降り注ぐ、王宮の豪奢な温室。
私の足元で四つん這いになり、よだれを垂らしながら「待て」をしていた女が、許可の言葉と共に床に置かれた皿へと顔を突っ込んだ。
かつて私を陥れ、セドリックの隣で勝ち誇っていた男爵令嬢、クロエ・フォン・ランバート。財務大臣に徹底的に「教育」され、今ではすっかり私の足元に侍る便利な『愛玩動物』へと成り下がっている。
(ふふ、随分と毛並みが悪くなったこと。でも、従順な犬は嫌いじゃないわ)
私は優雅に紅茶を含みながら、皿を舐め回すクロエを冷ややかに見下ろした。
彼女の人間としての尊厳は、とうの昔に砕け散っている。
王太子妃となった私にとって、かつてのライバルすら、退屈しのぎの情景の一部に過ぎなかった。
ただ、私たちの『極上のエンターテインメント』は、この明るい温室ではなく、光の届かない場所にある。
「ルチア。俺の可愛い雌犬。行くぞ」
「はい、カイル様」
カイル様にエスコートされ、私たちが時折訪れるのは、城の最果てにある薄暗い北の塔だ。
重い鉄扉を開けると、ひんやりとしたカビと汚物の匂いが鼻を突く。そして、部屋の奥で鎖の音をガシャンと鳴らし、ドブネズミのように這いずり回る男――かつてこの国の第一王子だった、セドリックの姿があった。
「あ……ル、ルチア……お前、俺のルチア……!」
「気安く俺の女の名を呼ぶな、ゴミ屑が」
カイル様は冷酷に吐き捨てると、セドリックの目の前で私の腰を強く抱き寄せた。
「ああっ……カイル様……っ、んんっ……」
分厚いドレス越しに急所を撫で上げられ、私はわざとらしく、甘く淫らな声を張り上げる。
セドリックの血走った両眼が見開かれ、鎖を引きちぎらんばかりに暴れ出す。
「やめろ! 触るな! それは俺の女だ! 俺の所有物だあああっ!!」
狂ったような絶望の叫び。それが、カイル様の激しい愛撫を受ける私にとって、何よりの極上の音楽(BGM)だった。
***
そして数日後。
私は護衛を遠ざけ、一人で北の塔を訪れた。
薄暗い牢の中、死んだようにうずくまるセドリックの前に立ち、私は聖女のように慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「セドリック様。……お可哀想に」
「ルチア……? ああ、俺を助けに来てくれたのか! そうだろう!?」
鉄格子にすがりつく彼を見下ろし、私はそっと身をかがめ、甘く蠱惑的な声で囁いた。
「……ええ。今は敵対しておりますが、婚約者だった者の情けです。名前を捨てて、異国でひっそり生きるとお約束してくださるなら、助けてあげてもいいわよ」
「や、約束する! 俺はもう王位なんていらない! だ、だから、ここから出してくれっ――」
ガチャン、と。
私は彼の言葉を遮るように、わざと不器用な手つきを装い、牢の鍵の束を彼の指先がギリギリ届く位置へと『落とした』。
「あっ……いけない。誰か来るわ」
怯えた小鳥のような顔を作って、私は踵を返す。
背後で、セドリックが必死に鍵へ手を伸ばす音が聞こえた。
(一度、希望を見せてから奈落に突き落とすのが一番の絶望でしょう? セドリック様。あなたが私にしてくれたことの、これはお返しよ)
冷たい石の階段を上りながら、私はハンターのように口角を吊り上げた。
私に助けられたと勘違いしたセドリックが、大人しく逃げるはずがない。自分の価値を微塵も疑わないあの男は、必ず「王権を取り戻す」ために動くはずだ。
――そして、事態は私の筋書き通り(いや、私たち夫婦の筋書き通り)に動いた。
自由を手に入れたセドリックは、塔を抜け出し、かつての側近であった騎士団長の家へと駆け込んだ。しかし、公式には「死んだ」とされている彼を出迎えたのは、忠誠ではなく冷たい刃だった。
『死んだはずの殿下を騙る、不敬な狂人め!』
己を証明する術を持たない彼は、言葉を尽くせば尽くすほど狂人として扱われ、最後は民衆の面前で無様に引き立てられ、哀れにも処刑されたのだ。
「……あの馬鹿は、ひっそりと生きる道など選ばないと思っていたが。見事に踊ったな」
夜の帳が下りた寝室。
私をシーツに押し倒しながら、カイル様が低く喉を鳴らして笑う。
私が鍵を落としたことも、セドリックが脱走して自滅することも、この絶対的な主人はすべて監視させていたのだ。
「ええ、あの人は、自分の器も冷静に見られない愚か者ですもの」
私は冷酷な笑みを浮かべて答え、カイル様の広い肩に腕を回した。
セドリックが逃げた先で、大人しく暮らすのであれば、見逃してやる気でいた。
――実際に逃がしてみなければ、あの男がどう出るかは分からない。
けれど、己の自尊心を抑えきれずに復讐に走るだろうということも、容易に予想の付くことだ。
……その上で逃がした。
私たちは、世界を欺き、他者の絶望を極上のワインのように味わい尽くす最強の『共犯者』――この底知れぬ悪意の共有こそが、私たちを繋ぐ最も純粋な愛の形なのだ。
「お前は……最高に美しい、俺だけの犬だ」
カイル様の熱い指先が、私の首筋に赤く残る『主人の印(噛み痕)』をなぞる。
私はその指先を愛おしげに甘噛みし、歓喜の吐息を漏らした。
重い冠の重圧も、過去の傷跡も、すべてはこの快楽のためのスパイス。
私は暗闇の中、絶対的な主人と共に、永遠に続く退廃と支配の甘い檻へと、喜んで沈んでいった――。
END




