23 帰宅-尾藤家-
いつもこの時間に「やれ上着だ鞄だ制服だ」と衿を正して歩く道を、手ぶらで気侭に歩くのは、不思議な気分だった。
どこからか、ひらひらともう終わりかけの桜の花びらが空を漂って降って来た。…陽介の家の庭から飛んでくるはずなどないが、春季はその花びらに手をのばし、手のひらをひろげて静かに受け取った。
(…うん。大丈夫。行こう。)
春季は自分で自分を促し、自宅へ戻った。
居間には母がいた。
母の白い肌には、いくつも痣ができていたか、母はいつものようにその美しい金髪をきっちりと結い、衣装も正し、薄く化粧もしていた。
「ただいま。」
春季が言うと、母は顔を向け、いそいそ近寄って来た。
「…どこにいたの?心配したのよ。」
「…大丈夫だよ。」
「…ショウヤはどうしたの?見つかったの?」
「…うん、見つけたよ。…ちょっと預かってもらってる。」
「…そう。」
…沈黙が生じた。母は、春季のことがあまり得手でない。…春季は助け舟を出した。
「…何か食べられるものない?」
「昼のスープが少し残ってるわ。…あたためてあげましょうね。」
母はそう言って、春季のおでこのあたりをそっと撫でた。
「…春季、勝手に外泊しては駄目よ。」
「うん。」
「…お父さんかお母さんに許可をとってからにして頂戴ね。」
「…うん。」
「…どこに泊ったの?」
「…ほっつき歩いてたから、寝てないよ。」
春季はウソをついた。
「ショウヤはどこに預けて来たの?」
母はしつこく尋ねた。
「…ペットの葬祭屋さん。」
…ウソをつきとおすコツは、多分、要所に本当のことを混ぜておくというあたりなのかもしれない。お母さんは、何ともいえない顔になり、春季をきゅっと抱いた。
「…年寄りだったものね。…悲しいわ。とてもいい子だったから…。」
「…うん。」
「…お金かかったでしょう?」
「ああ、学校で先輩に借りた。」
その言葉に、お母さんはひっかからなかった。
「…あとでいくらかかったか言いなさい。すぐかえさなくては。」
「うん。」
「…手を洗ってらっしゃい。」
お母さんは春季を放すと、背中を軽くおして、洗面所のほうへ追いやった。春季は促されるままに手を洗った。
ダイニングには機嫌の悪い夜思が包帯で全身ぐるぐる巻きの寝間着姿で席についていた。春季の顔をみた途端、その美しい顔を歪めて言った。
「帰って来たのかよ。別に戻って来なくたって誰も心配しやしないのに。」
「夜思。八つ当たりしないのよ。…もっと優しくしてあげなさい、お兄ちゃんなんだから。」
お母さんがうんざりした調子で言った。
「好きでお兄ちゃんではございやせん。」
夜思が皮肉たっぷりに言うと、お母さんはキッと睨んだ。夜思はぎくりとして、目を逸らした。
春季は夜思の斜向かいに座った。
「で?お兄様、今日はおサボりでございますか?」
「馬鹿野郎、動けないんだよ。腕は折れてるし。足首は捻挫だ。」
「…ざまあみろ。」
「春季よしなさい!」
お母さんが割り込んで来て、春季にスープをくれた。
春季はスープを飲んだ。
…味気ない。学食のラーメンでも食べてくるのだった。
お母さんがいなくなってから春季は更に言った。
「…おまえが一生歩けなくたって誰も悲しみゃしないのに。」
「ふん、そのときゃお前にシモの世話させてやるからな。覚えてな。」
夜思は慣れているのもあって、それなりの兄たる貫禄で軽く流しただけだった。…ちなみに、夜思が兄貴面して威張れる相手は春季だけだ。小夜にイヤな顔をされたら、尾藤兄弟の中では評価が下がってしまうので、皆、小夜には殊更に気を使っている。
「…一輝兄は?」
「…さっきまで歩き回ってたが、バテた。寝てるのと違う?ろっ骨折れてるし。」
「トシとるとその他打撲も治りおそいんだろうな。」
「…ピークは明日以降だぜ。ふふん、じじいだからな。」
夜思はクックックッと笑った。
そして、ふと、春季の左手に目をとめた。
「…?」
じろじろ見ている。
「…なんだよ。」
春季が小声で尋ねると、夜思は眉をひそめた。
「…なんだ、その変なの。」
「…変って何が。」
春季はとぼけた。
「…おまえ、昨日ミルエに会ったって本当か?」
「…さー。ガラの悪いのに恐喝されたけど。」
「…それ、ミルエにやられたのか?」
「それって何だよ。」
「…左手に何かつけられてる。…ええと、なんだ?読めないのが多いな、でもまんなからへんに鳥みたいな記号がかいてある。象形文字だね、多分。」
春季は内心驚いた。正直言って、夜思はただの病人だと思っていたので。
「なんか読めんの?へえ。気色悪~。」
「…紙とペン持って来な。」
有無をいわさぬ調子で夜思は命じた。春季は仕方なく紙とペンを持って来た。夜思はさらさらと、紙にその文字らしきものを書き写した。
「…めんどくさいから自分でもってな。」
夜思はそういって、書いた紙を春季に差し出した。春季は有り難くいただいておいた。あとで陽介に頼んで斎に送ってもらおうと思った。たまには電波も役にたつ。…と思ったら釘を刺された。
「…あとでリリヤに見せるんだ。僕の記憶に間違いがなければ、それは神聖文字ってやつだから。多分リリヤなら読める。」
それは大変だ、絶対見せないようにしないと。…春季はにっこりした。
「そうするよ。」
夜思はうさんくさそうに見たが、それ以上念をおしたりはしなかった。夜思も春季のことは苦手なほうだ。その代わりに、ひそひそとこう言った。
「…親父殿には見せるなよ。利用されるから。」
春季は内心おどろいた。思わず夜思をじっと見ると、夜思は言った。
「…教団の電波な自主研にひっぱっていかれて、バカみたいな物語つきで自慢のタネにされるのがオチさ。アキラは教団内部では相当な政治家だけど、それ以前に目立ちたがりのカリスマ未満だから。たちの悪いUFOマニアとたいしてかわりゃしない。」
兄弟の中で一番父寄りの夜思がこういうことを言い出すとは思わなかった。
「…僕は根には行ったことがない。多分親父殿もないはずだ。可能性としてはリリヤだけど…」
夜思はチラリと居間の向うのソファに沈んでいるお母さんを見た。
「…あの人は自分の夢の話はしたがらない。頻度も低いしね。5~6年にそれらしいのが一つ、とかそんなレベルだ。…それもなんだか…ちょっと違うっぽい。だが知識としてはいろいろ知ってるし、少なくとも親父殿の空想よりはやくにたつから、その書き込みの話もきちんと話したほうがいい。」
春季は「へええ」と思って尋ねた。
「…あんたはどんな夢みるわけ?危ない目にあったこともあるとか、お父さんは言ってたけど。」
「…それは親父殿の空想だよ。僕の折り合いが悪いのはミルエじゃない。河原にいるドラゴンだ。」
「河原にいるドラゴン?」
「…河原があって、そこに黒いドラゴンが必ずいるんだ。なぜかわからないがそいつの尻尾を踏んづけたり、足にぶつかったりしてしまう。…見えにくいんだ、僕には。相性が悪い。ときどき物凄い勢いで怒って追いかけ回される。でもあれはミルエじゃないね。多分、誰かの視者体だよ。…そういやお前、眼鏡をどうした?」
春季はスープ皿を片付けながら言った。
「…昨日の騒ぎのさなかに壊れたよ。」
「ふーん。」夜思は面白そうに笑った。「…教団では、『見えない』って状態は『ミルエに近い』ってことなんだってさ。」
春季はスープ皿とスプーンを流しで洗いながら尋ねた。
「どういう意味?」
夜思は意地悪そうに笑った。
「しらない。古い書物にそう書いてあるんだってさ。」
春季は手をぬぐって、自室へ向かった。
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部屋では一輝がベッドで壁を向いて横になっていた。毛布からはみ出た逞しい肩に包帯が覗いている。
3人の兄たちの部屋には二段ベッドが一台と多機能(高いベッドの下に机やクロゼットが取り付けられている形のもの)が一台はいっているが、一輝と春季の部屋は、シングルが二台入っている。ベットとベットの間に本棚つきの机が向かい合わせで並んで部屋を二分しており、入り口に近いほうが春季のスペースだ。身長ほどの本の山が乱立する小さな摩天楼の隙間を縫って奥へ進むと、一輝のベッドがある。…ちなみにこの兄貴がこの部屋に女を連れ込んだことは、親がいないときも含めて、感心なことに一度もない。あの立派な体をあたら禁欲主義に遊ばせておくのもどうか、という気もしないでもないが、とにかく浮いた噂などまるっきりない兄である。
「…ろっ骨折ったって?大丈夫?」
声をかけると、一輝は起き上がった。
「…ガキのくせに女と外泊か?」
…くっきりした濃い眉の間に、縦じわが寄っている。
春季は窓を開けて、酸性紙の醸し出すよくない空気を新鮮なものに入れ替えた。温かい春の風がなんともいえず心地よく部屋にふきこむ。
「…昨日は知合いの猫たちみんなで、ショウヤの通夜をしたんだよ。」
春季がぽつりと言うと、一輝も流石に黙った。
久鹿家の猫たちが一緒に通夜をしてくれたのは本当で、パスタなどは困ったようにずっと春季のそばをうろうろしたあげく、ついには陽介の靴下を盗んで来て、春季にプレゼントしてくれた。…元気がないから、餌をやらなくてはいけないとおもったらしいのだが、久鹿家には鼠がいなかったのだ。…せっかくなのでそのときはもらっておいたが、一応学校で着替えた服と一緒に陽介に返しておいた。他の猫たちも何匹か…見たこと無いやつも含めて…客間にやってきて、ショウヤの亡骸を覗き込んだり、春季のそばに座ったりして朝までつきあってくれた。明け方、そうせきくんまで陽介の布団から抜け出てやってきて、少しだったが顔を見せていった。
「…どうやって縄を切った?」
一輝は静かに話を逸らした。
春季は言った。
「…先輩がもどってきてほどいてくれた。」
「…そのあとどうしてたんだ。」
「…よく覚えていない。」
春季は嘘を考えるのが面倒になったので、そこで切った。一輝は険しい顔になった。だが、骨が折れているので大きな声は出せないようだ。
「…親父が騒いでたようだが、『夢』をみたっていうのは本当なのか?」
「…夢なんか見てないよ。」
「ただ騒ぎたかっただけか?」
「…根っこがうじゃうじゃしたところでなんかでかいのに恐喝されたのは本当だよ。夢なんかじゃない。息ができなくて殺されるかと思った。」
「…脅された?なんて。」
「…約束守れって。」
「ああ、あのときのな。」
あまりにあっさりと一輝が言ったので、春季はびっくりした。
「何、あのときって。」
「…昔、お前ミルエに呼ばれたことがあるだろう。…あのときから多分、おまえはミルエにマークされてるんだ。おかげさまで我が家は大変だったんだぞ。お母さんが呪われたり。お父さんが凄まれたり。夜思は悲鳴あげてぶっ倒れるし、小夜は頭に野犬ぶら下げて帰ってくるし。鶏だの羊だの、魔よけに私が何匹屠ったと思ってるんだ。マルフォイだって結局はあのせいで…。なんの約束やらかしたか、思い出したのか?お前。」
春季はとんでもないことだと思い、頭を思いきり左右に振った。
「違う! 僕は何も約束なんかしてないよ! あそこにいた女の人だって多分僕の親がした約束だろうって言ってたんだ! 」
「…誰に何ふきこまれたかは知らんが、お前がまだ3つか4つのときに一人でとことこ山を登ってって何か…少なくとも魔法樹を召喚するのに立ち会ってるのは本当だぞ。魔法樹がばりばり生えて、びっくりしてかけつけたら、家から2時間もかかるところの古い遺跡の石に、指をさすようなマークができてて、そっちへいったら例の廃屋があってお前がいたんだ。…キョトンとしてたけどな。いつもどおりに。おまえも知ってるだろうが、あの修練所のまわりにはうちのほかには見渡す限り一件の家もなかったんだ。」
「…魔法樹が生えた?」
「そいつを消す研究をしたおかげでリリヤとアキラは魔法樹のはやし方をマスターしたんだ。魔法樹が近くにあると、夢が多くなるっていう統計も、その時とれた。」
春季はうすら寒くなった。
…自分のしらない自分がいるような。
風がふきこんできた。
いつのまにか結構時間がすぎていたらしい。春の陽は少しずつ美しい色みを帯び始めていた。
春季は一輝に言った。
「…僕、覚えてないよ、そんなこと。」
「…あのときもニコニコしてそういってたぞ。お袋も俺も嘘だってことだけはわかったが、いくら聞いてもお前はおぼえてないの一点張りだった。…楽しそうにな。ああ、違うな。覚えてない、じゃなくて、あのときは『わかんない』だったな。」
…まるで、「おまえの浅知恵には飽きた」といわんばかりの態度で、一輝はそう言った。
けれども春季は本当に覚えていないのだ。
一輝は無理に問いつめようとはせずに、別の話をし始めた。
「…今日は学校へは行ってたんだな。」
「…そりゃ行くよ。」
「…小夜は休んだ。夜思もな。俺も2時間前にダウンした。美治は大学のサークル会館にでもひきこもっているだろう。…お前はなかなか太いな。仁王並だ。…いいことだ。」
「…」
「…例の先輩君は来てたのか?」
「…来てたよ。」
「…何か言ってたか?」
「…今日は家族のそばにいろって。いなかったら後悔するかもしれないって言ってた。…だから気はすすまなかったけど、帰って来たよ。」
「…!」
一輝はそれでちゃんと意味を察した。慌てて立ち上がろうとして、痛みに呻いた。
「…くそっ! 何者なんだあのガキは!」
「…知らないの?」
「知らん!」
「…ふーん、…なんか尾藤家は、目木さんを誘きよせるために僕や姉さんを次々に先輩んとこに送り込んだと思われてるらしいよ?」
「ああ…それは…リリヤが確かにそういうまじないをやっていた。だが何がどう媒介するかまではわからんだろ、単なる呼び寄せの呪文だから。もしかしたら犬か猫でも追いかけて飛び込んでくるとか、そういう形だったかもしれん。結局そのまじないがあまりあてにならなかったから、目木斎のスケジュールを調べて…ってことになったんだ。…そうか、効いてたんだな。…だが…小夜も知合いなのか?」
…そういうわけだったのだ。
春季は思わず黙り込んだ。
ではもしかして陽介が自分に優しかったのも、自分が強烈に陽介に惹かれたのも、母のまじないのせいだったのだろうか?
小夜が考え方や行動のまったく合わない陽介と付き合っていたのも…?
…ならやら目眩がしてきた。
自分が、自分の気持ちだと思っているものが、果たして本当に自分自身のものなのか、それとも何かにあやつられているのか、よく分からなくなって来た。
…好きだという気持ちは偽物だったのだろうか。独占したいといういたたまれないほどの気持ちも、そばにいれば心地よいのも…すべて?
目が回るようなショックだった。
「…春季、小夜も彼の知合いなのか?」
一輝がくりかえした。
そのとき、春季の目に、自分の左手が映った。
(…僕は誰かの呪術の中で踊っているのですか?)
(ハルキ、人間は全て、大いなる魔法のなかにある。そなただけではない。みな、すべて。)
(みな、すべて。…あの人はそう言った。あの何もない暗闇のなか、たったひとりで。)
春季は決然と顔をあげた。
「…それは姉さんに聞いてよ。僕の口からは言えない。」
春季ははっきりそう答えた。
「…お父さんは先輩を殺すか監禁するつもりだと言っていたけれど、他のみんなもそれがいいと思ってるのかな。一輝兄も?」
「…彼はチューブラインの一件に勘付いているが…どうだろうな、彼が騒いだところでうちからは何の火器も爆薬も発見されることはないし、おそらく証拠不十分に持ち込めると私は思っている。仁王もそのあたりらしいが…。まあ、リリヤ次第だな。…リリヤが呪物を処分したがったなら、彼の命はないだろう。…そんなにバックのしっかりしてる子ならもう少し考えなくてはいかんが…」
一輝はそこまで言うと、軽く溜息をついた。
「…だがどうもいかんな…私は数日間は動けない。春季、すまんが机の上の容器をとってくれないか。」
春季は一輝の机のほうに回りこんだ。…一輝のスペースは、きれいにかたづいている。よけいなものなどなにもない。…本さえない。
机の上には水薬の容器が置いてあった。一輝に手渡すと、一輝はスクリューキャップをはずして、一口ぐいっと飲んだ。
「…なにそれ。」
「…痛み止めだ。」
そして蓋を閉めると、春季に返した。春季は机に戻した。
「…話の途中ですまないが、少し休ませてくれ。限界だ。…今日これからのイベントはご夫婦におまかせする。私は脱落だ。」
「あ…うん、ごめん。」
一輝はそろりそろりと痛そうに横になった。春季は毛布をかけなおしてやった。
春季は自分のスペースにもどり、小さな摩天楼をすりぬけてベッドに近付き、私服に着替えた。かなりはき古したジーンズと、長そでのTシャツを着たが、少し寒かったので、厚地のパーカーを着た。
ちょうど着替えおわったところで来客があった。
少し考えた春季は、一応、鞄に制服とジャージをたたんでつめ、いつでも持ち出せるように準備した。




