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Darkness -under the tree-  作者: 一倉弓乃
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24/26

24 退場

 尾藤家にやってきたのは、ほっそりした若い青年だった。亜麻色の髪を耳の下あたりでふんわり切りそろえた白人で、「去年まで大学で社会学の統計とるの手伝ってました」みたいな顔をしていた。だが、その口から出てきた連邦の共通語はまるで機関銃のように早かった。

「俺の妹分が世話になったらしいな。挨拶にきた。」

 …尾藤家の母に向かって第一声でこれを言える男は、ならず者だ。それはどんなに上品にみえようと、どんなにきれいな顔をしていようと、例外ではない。

「…どうぞお入りください。…主人をさがしてまいりますので。」

 リリヤはにこりともしなかったが、丁寧にそう言い、彼を居間に通した。

 春季は一輝に手の動きだけで「行け」ときつく命令されたので、部屋を出た。足音をたてないようにして、階段を途中まで降りた。

 やがてどこかから父が現れた。多分武道場にいたのだろう。あそこは父の瞑想部屋みたいなものだ。

「なにか御用ですかな?」

 いかにも神父さんといったような感じの丁寧な口調だったが、尾藤家の父親もけっして大人しいほうではない。春季は階段の中途に座って黙って居間の様子をうかがった。

「俺も時間がないところを無理矢理来ているんでな、つまらんオトボケはナシで頼むぜ。…今日斎に会って事情は全部聞いている。俺は斎が市長のところに来てから奴の担当でな。」

「…」

「…中味がどっかいっちまってたのを俺が回収したとかそういう担当だ。…言ってることはわかるな?」

 春季はその説明がよくわからなかった。

 降りて行って居間に入ろうか悩んでいると、小夜がやってきて、隣にそっと座った。

「…聞こえる?」

「…うん。」

 小夜はそこに座って、ばらばらの髪を手早く編み始めた。 

「…魔法樹を召喚するために斎にずいぶんなことしてくれたそうだが、一体なんの権利があってそんなことをしたのか、言え。…よく考えて言えよ。」

 なぜかそれを聞いた小夜がざわっと震えた。春季は奇妙に思ったが、その後に沈黙が続くようすをうかがって、さらに奇妙に思った。

 …尾藤家の父は宣教師だ。悪意ある要求を受けたぐらいでは、普段は絶対に屈しない。

「…いけない。行かなくちゃ。…おまえはまだここにいなさい。」

 小夜は立ち上がった。

「姉さん?!」

「あのひと、普通のひとじゃない。…父と母だけじゃダメだわ。ここまで勢いがひびいてくるくらいだもの。」

 小夜はそういうと、階段を降りて行ってしまった。…居間にはいったようだ。

「…だからって姉さんが行ってどうするんだよ…。」

 春季は思ったが、小夜が居間に入った途端、会話が再開した。

「…あなたは御存知ないのかもしれませんけど、あの子の血は穢れています。存在そのものが、神に対する冒涜なのです。」

 言ったのは母だった。

(穢れてるのは母さんの足もだよね…。)

 なんとなく春季はそう思った。だからどうという意味はなかったが。

「…だから何やっていもいいって意味か?…返事はそれでいいのか?御主人も。」

 父の声が聞こえなかった。…だが多分、うなづいただろう。

 …気がついたとき、春季は階段の下まで落ちて床で頭を打っていた。…まったく、その階段の中途から下までの「間」がない。気を失っていたのかと思うほどだったが、おそらくそうではなくて、非常に伝播の早い衝撃が一瞬で……春季は起き上がって一階の床から2階を見上げた……春季を叩き落としたのだ。打った頭を触ってみたが、軽い打撲程度だった。

 ぱりん、と音がした。

 春季がそっちを見た途端、がらがらと豪音を立てて家中の硝子が崩れ落ちた。

「…脅したつもりなの?…無知なことって恐ろしいわ。」

 母の声がした。

「…あの子の味方をするならお前は『悪』よ。」

 …お母さんて単純でうらやましいや、と春季が寝ぼけたことを考えているうちに母が何か唱えだした。

(あ。ヤバいかもしんない…)

 その思考が終わるか終わらないかの間に居間のドアがぶっこわれて人間が飛ばされてきた。

 春季は初めて間近に来客の姿を見た。

 来客が起き上がる前に、目が合った。

「…ハーイ。大丈夫?」

 春季が床に座ったまま尋ねると、来客は少しポカンとしたが、すぐにニヤっと笑った。

「…お袋さん、けっこうやるじゃん。」

「…姉さんが行ったら豹変したね。」

「…あんた春季?」

「うん。」

 春季は先に起き上がって、彼を助け起こした。

 壊れたドアから母がやってきた。きれいに結っていた髪がばらばらにほどけて、恐ろしくも美しい姿になっている。その後ろに、小夜が従っていた。

「…神はどうしようもなくそこにいるのよ。うまく折り合いをつけてゆかなくてはいけないの。機嫌をそこねるわけにはいかない。だからああいう子は邪魔なのよ。…うまく誰かの役にたって死ぬのが一番あの子のためなのよ。生きていたってつらいことばかりなんだから。…神の気配のわからない人に、何を言っても理解できないでしょうけどね…。」

 母はまるで春季など目にはいっていないかのようにそう言い放った。

「…さあ。用件があるなら言いなさい。」

 母は厳然と命令した。

 彼は服についたホコリをぱっぱっと払った。

 ふわ...と、壊れた窓から外気が流れ込んだ。

 春季は軽く押されて2~3歩あとずさった。

「…他人の人生勝手に決めるな。」

 言い終わった客に別の呪文が襲いかかった。

 春季はちょうど目の前に彼の手が開かれたのを見た。それが自分をかばったものだと気がつくのに一瞬遅れた。

 春季の目の前を黒いものが螺旋を描いて登ってゆく。髪の端が一瞬それに触れて、ぱっとはじかれた。…ちょうど客をとりまくように黒い風の壁が立ち上がっていた。

「…輪を閉じればお前は死ぬわ。」

 母は傲然と言い放ち、開いて向けた手を少しせばめた。

 客のスーツの肩が微塵に分解して、高そうなスーツがずたずたになった。

 春季はゾッとしてさらにあとずさった。

 客はそれでも取り乱さずに言った。

「…尾藤リリヤとその所属教団は告訴される。」

 母は鼻で笑った。

「何の咎で訴える気かしりませんがしたければしなさい。何の事件に関するいかなる証拠もありはしないでしょうよ。」

「残念だったな。連邦裁判所にじゃない。谷の神殿に、だ。脱走教母様! 残念ながら俺や斎は連邦の外側にもいささかのコネがあるもんでね!」

 不意に黒い竜巻きがやんだ。

 母は真っ青になっていた。

「…なんですって?」

「…谷の神殿に問い合わせた。リリヤを裁きたいかどうか。神殿の答えはイエスだった。教母が神殿のゆるしを得ずに脱走するのは許しがたい罪なんだそうだ。そのために谷の神殿にはよくないことがたくさん起こっていて、神殿ではあんたを捕らえて罰することが神の怒りをなだめるのに一番いいと思ってるそうだ。…俺にゃあよくわからんがな。まったく宗教ってえのは、ときどきイカレてる。」

 小夜が震えながら母の腕を抱いた。

「お…お母さん…」

「…それから谷の神殿はおまえらの教団を異端と断定した。」

 リリヤは声にならない悲鳴をあげた。

「…あそこも大変なんだよ。聖樹の神殿は消えちまうわ、島とも連絡がとれなくなっちまうわで。谷は聖樹の神殿に依存してたらしいからな。…だが何人か聖樹の木守が流れ着いてて、木守隊だけは健在すぎるほどらしい。」

「お…お前は何者なのですか!」

「だから言ったろ、斎の『担当』なんだよ。」

 客はそう言うと、ぼろぼろになったスーツの上着とシャツをひきむしって捨てた。中には袖のない黒い薄地の防護服を着ていた。二の腕がいい曲線を出している。

「…でも、なんなら取り逃がしたってことにしてやってもいいんだぜ?…」

 いつの間にか母の後ろに父もきていた。父は母の肩に手を置いて、客に言った。

「…要求は何だ?」

「…今後斎や斎の友達にあらゆる手出しはやめること。友達っていうのは久鹿のぼっちゃんだ、しってるだろ?これが一つ。」

「…」

「…もう一つは、その証に子供を一人、…誰でもいい、こっちにさしだすこと。」

「! 」「! 」

 小夜は母の腕にすがりついた。さすがに春季も青くなった。

「…とって食う気はねえよ。名目も実質も、P-1に留学ってかたちになるな。待遇はいいと思うぜ?ここのドミよりずっと金かかってるからな、アカデミーは。…おいおい、なに目ぇむいてんだ?おまえら自分のしたことよく考えろよ、そのくらい要求されて当然だろ? 俺の妹分に何してくれたんだ?…木、生やしただと?2回も? 激痛をともなう魔術だと?…生かしておくのも虫酸が走るくらいだ ! だがしょうがねえ、ラウールが尾藤の子供に会いたいっつってるし。」

「…子供を選ぶ。一週間くれ。」

 父は冷静に言った。すると客はおやおやと肩をすくめた。

「そんな猶予ねえだろ。こんなとこでうだうだしてたら俺がいくら誤魔化したって、木守がきちまうぜ?…すぐきめろ。それで残りは早速夜逃げだ。…残りの子供達はいつ戻るんだ?」

「…多分夜には戻るだろう。」

「…お宅らP-2の市民権でここに移入したらしいな?…そのパスポート有効にしておいてやるから、とりあえずは北米あたりに逃げたらどうだ?…勿論預かる子供に会いたくなったら、いつでも会いにきてかまわないんだぜ。…ただそっちが変な真似したら、その子の命がないってだけの話なんだし。」

 春季は、多分選ぶまでもなく、父の中では自分だろう、と思った。

 …父や一輝兄は「あれ」に約束したのが春季ではないかと疑っている。一輝は尾藤家がくらった呪術的アタックも春季のせいだと思っているようだった。春季を家から遠ざけたらどうなるか試してみたい気持ちがあるはずだ。

 …売られる。春季はおびえた。僕は多分、家族に売られる。

 そのとき、誰かが階段を降りてくる音がした。

 見上げると、寝込んでいた一輝だった。…勿論だ、二階には一輝しかいない。

「…必要なら私が行こう。私は怪我をしていて動けない。…移動の邪魔になる。」

 春季はびっくりして一輝を見た。

 何を言い出すのだろう。母が一輝を手放すわけがないではないか。一輝がいなくなったら家は困る。

 案の定、母はその提案を拒絶した。

 春季は急に恥ずかしくなった。

 皆が春季が行くことを期待しているとわかるなら、自分から言うべきだ、子供じゃあるまいし…春季はそう思って決断した。

「…お…お母さん。僕が行く…よ。一輝兄がいないと、お母さん寂しいでしょう?」

 春季がそう言うと、今度は小夜が激しく抵抗した。

「ばかっ! あんたなんて一番小さいのに! 駄目よっ! 絶対ダメ! 」

 そのあまりの激しさに、客は少しびっくりしたようだった。…確かに小夜は一見とても大人しそうに見える。…実は春季も驚いた。すると小夜は更に驚いたことに、突然母のそばを離れると、春季を無理矢理ひっぱりよせて、かばうようにぎゅっと抱き締めた。そして「人非人」と言いたげな目でじっと客をにらんだ。

「ね…姉さんおちついてよ。」

「…」

 小夜はそのままぎゅーっと目をつぶって、もう誰の話もきかない体勢にはいってしまった。

「おーおー、見えるねえ、人間模様。」

 客はげらげら笑っている。

「…こっちは誰でもいいぜ?…ニイサンの言うことも理屈は通ってる。いい判断だ。長男かい?偉いねえ! …春季でもいいぜ。ラウールが大歓迎するだろう。奴は若くてキレイな男の子が大好きだ、特にダークヘアの子。咲夜もトウがたっちまったからな。ふふふ。そろそろ新しいのが来てもいい頃だ。なに、大丈夫。子供に助平はしないよ。あれでなかなか我慢強いからな。」

「…誰にするかは我々できめる。黙っていてくれ。」

 父は静かに言った。それから春季のほうを向いて言った。

「…春季、すまないがダイニングに夜思がいる。夜思をつれてきてくれ。…一輝、仁王と美治に連絡はつかないか?」

「…やってみます。」

「ね…姉さん、お願い、放して。」

「イヤ!」

「姉さん…困ったな…。」

 春季がなんとなく客を見ると、期待されたと思ったのか、客はやってきて、小夜の背中をぽんぽんとたたいた。

「小夜、いつぞやは斎の髪をとても上手に結ってくれて有難う。…実はあのときのデートの相手は、俺なんだ。」

 小夜はびっくりして、思わず目をあけてまじまじと彼を見た。

「ええっ?!」

 …げにすさまじき婦女子のゴシップ根性…多分、ある意味本能なのかもしれない。春季はちょっと呆れた。

「…きみの弟を放してやってくれよ。彼には彼の仕事がある。」

 小夜はおずおずと手を放した。

 春季はちょっと彼に目配せして、その場を離れた。

(…大変なことになったな…)

 溜息をつきながらダイニングへ行くと、夜思があちこちを伝い歩いて、途中まで来ていた。春季は手を貸してやった。

「…話は聞こえてた。僕達4人のうち誰かが行くから、お前は黙って余計なこと言わないようにするんだ。」

 夜思はひそひそ言った。

「…なんで?」

 春季が尋ねると夜思はキッと眉を吊り上げてこたえた。

「…そんな文字入りで、教団から離れるな。危険すぎる。僕の知ってる限り、それが読めるのはリリヤだけだ。…それと、今僕が言わないと大変なことになるかもしれないから言うが、お前、夢でなく、体ごと行ったな?それだけは二度とやるなよ。雑巾しぼるみたいにひねり殺されるぞ。わかったか?」

「やるなって言われたって好きでやったわけじゃ…」

「しっ。だまれ。」

 階段の下に夜思を連れて行き、父が持って来た椅子にかけさせた。

 まもなく仁王と美治も帰宅した。


+++

 その頃、陽介の家の客間からはお父さんとサビ猫バショウくんの姿が消え、かわりにどやどやと一群がやってきていた。おやつの時間だ。お母さんが煮干しを持ってきて、陽介に渡し、「ちょっと空気をいれかえましょうね」とやんわり言うと、縁側の障子を開けた。

 …開けて、静止した。

 一瞬の間のあとに、お母さんは言った。

「まあ…アルテミス、大きくなって…。心配していたのよ、またどこか怪我をしたのじゃないかと思って。…この間の耳のところはもういいの?ちょっと見せてごらんなさい。」

 陽介はふと目をやって、思わずだまりこんだ。

 その陽介を睨んで、アルテミスよばわりされた咲夜が唸った。

「…おまえんちはどうなってるんだ。」

「…玄関ならあっちだぜ。」

「そういう意味じゃない!!」

 …お母さんになでなでされて、動くに動けない咲夜だ。

「あれえ、その声は咲夜だね。もうみつかっちったか! はやいねえ、テヘっ!」

 と斎が頭を掻くと、お母さんは「まあ」と口を押さえて言った。

「斎さんのお友達だったのね。…それなら一緒におやつを食べておいきなさい。ね?」

 …ね?と煮干しで招かれて、ますます動けない咲夜だった。

 混乱がひどくなるので陽介はとりあえずお母さんを部屋から追い出し、咲夜の靴を脱がせてそのまま縁側から上がらせた。斎は煮干しを掴んで、猫に撒くのかと思いきや、自分で食べている。

「…そんな小さい魚頭から食うなんて、残酷だ!」

 咲夜が斎を避難すると、斎は陽介に言った。

「…咲夜のいたとこってわりと食料事情のいいドームだったのよ。だからこのとーり。ひどいもんでしょ?」

「つーか、文化だろ、文化。」

「何が文化だ、野蛮人ども。」

「野蛮なんじゃない。生物として健康なんだ。…お前は文化ボケだ。ほら見ろ。」

 陽介が斎の後ろにくっついているヤマネコに煮干しをぽいを投げてやると、ヤマネコはそれをがしっ!と爪の出た足で踏み、しかるのちに頭からばりばり食べた。

「…これが健康な命というものだ。」

「…ヤマネコだ…。」

 咲夜は静かにびっくりしてそう言うと、そろそろと近付いてじーっと見た。もう陽介とのやりとりはどうでもよくなったらしい。どんぐりは咲夜の顔をちらっと見たが、無視した。

「…咲夜、さわるとあぶないよ。あたしが後ろむくと怒るんだから、こいつ。」

 斎は言ったが、咲夜はそのまま床にはりついてどんぐりを見た。どんぐりがじろっとまた見ると、咲夜はごろっと転がった。

 陽介は呆れてそれを見ていたが、どんぐりにはストレートに好意が伝わったらしい。どんぐりはふいっと立ち上がると、くるりと向きを変えざま、咲夜の頭を立派な尻尾で「ぱし!」と叩き、そのまま優雅に歩いて部屋を出ていった。

「…そうか。おめえら親戚だったもんな。」

「…どういう意味よ。」

 油断して煮干しをかじる斎に雉子虎が襲いかかった。斎は「ウキャー!」と万歳してばらばらと煮干しを放した。するとわらわらと斎のひざに猫がたかった。

「おうv にゃんにゃん天国v」

「…斎、びょーいんいこ。」

 喜ぶ斎に転がったままの咲夜が言うと、斎は言った。

「やーなこった。」

「…目、ずっと見えなくてもいいの?」

「ほっときゃなおるって。」

「…じゃ、せんせにそう言って、診断書かかせて、ラウールにわたさなくちゃ。…ラウール心配するよ。」 

「せんせって…あの例の?…やだなあ、怖いもんあの人。たまに怒っておいかけてくるし。会話全然なりたたないとき多いし。」

「…あんた我侭だよね。」

 咲夜は仰向けに寝転んだまま、さらりと言った。

 さすがに斎はだまりこんだ。

 陽介が言った。

「…斎、事情を聞いてくれる医者がいるなら、間にたってもらったほうがいい。…そういう現象について、一般人は無知だ。市長を納得させるのは大変だぞ、多分。」

「…よーすけはパウロっち知らないからそういうこと平気で言うんだよ。」

「パウロっち?」

「…コワイ医者なんだから。入院患者食っちゃうんだから。アタマ壊れてるし、性格変だし、それに…」

「それに?」

 陽介がお母さんの口まねで促すと、斎はさすがに恥ずかしくなったのか、ちょっと声が小さくなった。

「…ええと。」

 陽介は言った。

「アタマ壊れてるほうがお前の事情ビビらねーで聞いてくれるんじゃねーの?普通の医者じゃパニクるだけだろ。」

 咲夜は「よいしょっ」と起き上がって言った。

「…斎の数少ない『怖い相手』なんだよ。」

「なんで。」

「…うーん。うまく言えないけど、俺もあんま得意じゃないね~。確かに変人だし、変な噂たくさんあるんだよ。…でも、親切だし、手術は上手いんだぜ。俺の顔、継ぎ目なしだろ?俺一回火傷で顔半分くらいつぶれてるけど、せんせがきりばりしてくれたんだよ。…なによりラウールに無理矢理いうこときかせられる数少ない人物だし。」

「…市長よりえらいのか?」

「…どうなんだろ。…なんか親密な感じだよ、あの2人は。ラウール若い頃入院歴があるから、そのとき世話になって、…それで信頼してるんじゃないかな、多分。…それに斎はイマイチかもしれないけど、向こうは斎贔屓なんだ。」

「…なんだ、よさそうなお医者さんじゃないか。その最後の条件が特にいい。行って来いよ、斎。」

「…向こうに一回帰ったら、また学校おくれっちまうもん。」

 斎がさらに抵抗すると、陽介は少し考えて、咲夜に言った。

「…その医者、呼べねえの?こっちに。」

「…うーん…。変人だから、気が向きゃフラっときてくれると思うよ。忙しい忙しくないにかかわらず。」

「…菊さんなら呼べないか?」

「あ、菊はダメ。せんせと菊はもう、なんつーか、意志の疎通ないから。菊しゃべるのが早過ぎて全然つうじないらしい。せんせはマイペースを絵にかいたような人だからね~。」

「…ホットライン開けるか?」

「ああ、できるけど?」

「…俺が事情を話して交渉してみよう。」

「…あんた奴に会ったことないじゃん。」

「じゃあ誰がやる?…お前がやるか?」

「…わかった。俺がやるよ。」

 咲夜は頭を掻いて懐から電話をひっぱりだした。

 


+++


 渦中の尾藤家に帰宅した美治の後ろを何か黒くて小さいものがとことこついてきた。

「まあ…クロ、どうしましょう…」

 小夜の嘆きを聞くまでもない。アルテミスだった。アルテミスは懐かしそうに小夜に歩み寄ると、にゃーん、にゃーん、と小夜の足に絡み付いた。小夜はアルテミスを抱き上げた。

「…クロ…困ったわ。お家へおかえり、と言おうにも、お前にはおうちがないし。」

「ここのうちの猫?」

 客が尋ねたので、春季が答えた。

「いえ、ちがいます。野良です。」

「よくくる通いの猫?」

 …よく来ているのはほんの昨日からなのだが、説明するのが面倒だったので、春季は言った。

「…あんたとこの間者猫と違いますのん?」 

「なにそれ盲導犬みたいな職業猫の一種?そんな猫がいたら一日3万で雇うぜ業者紹介してくれ。」

「へえ。違うならトウがたったとか言われた咲夜さんが化けて出たのかもしれませんね。」

「なんだ咲夜だったのか。おーい、咲夜、来い来い。」

「…男嫌いなんですよ、あの猫。」

「…ますます咲夜っぽいな。ひっかくか?」

「たいへんひっかきます。」

「咲夜だ咲夜。」

 客はおもしろがってアルテミスの首の後ろを掴み、小夜から奪い取った。

「!いじめないでください!」

 小夜が抗議した。アルテミスはニギャーという口をして客を睨んだ。首を掴まれているので声は出ない。つっぱるようにのびた手から爪がつきだしている。客は腕をのばしてうまくアルテミスの攻撃を封じていた。

「おまえ凄いじゃん! こんな技もってるなら早くみせろよ! 俺もさすがにこれはできねえなあ。」

「返して!」

 小夜がうばい返すと、アルテミスは「こわかったよう、こわかったよう」とでも言うようにニャーニャ-騒いで小夜にしがみついた。

 春季は溜息をついて言った。

「…んなわけないでしょう。バカな冗談で姉さんからかうのやめてください。」

「…馬鹿な冗談で貴様が俺をからかったのはどうよ。」

「…乗りますか普通。」

「その普通って言葉、早めにゴミに出せ。さもなきゃどっかのだれかにリサイクルで使ってもらうんだな。役にたつうちに、役にたつ世界で。」

 春季が五月蝿そうに頭を掻くと、美治が春季に手招きした。春季が椅子をたってそちらへいくと、ひそひそと言われた。

「…なつくな。」

「…誰かが相手しないわけにはいかないでしょ。」

「いいからほっとけ。バカ。」

 …この「バカ」という言葉にいちいち反応しているようでは、尾藤家の末弟は勤まらない。…それに美治が春季にこれを言うとき、他の兄たちとは違う特別な含みがある。間違えても「バカとはなにさ」とか言ってはいけない。美治は一輝なんかとは根っこが違うのだ。

 家族は結局話し合いの結果、…やはり春季を出す方向でまとまった。小夜や、神経の細い美治や夜思は論外で、仁王はなぜかまるで候補に上がらず、結局一輝か春季かという方向で話は進んだ。小夜は家族の中で結局いつも「最後に我慢を引き受ける役」だったし、母か小夜かどちらかの気持ちを優先するとなったら、尾藤家では問答無用に母が優先された。美治は発言しない人物だし、春季と小夜は、話し合いから排除されるのが常だった。そうした仕組みもあって、春季が引き渡されることに決まった。

 幸いなことに小夜も泣いている暇はなく、親に言われてすぐに発つ準備に追いやられた。小夜は黒い猫を抱いたまま階段をのぼってゆく。…春季は昨日すでに小夜との別れは済んでいるので、さしたる感慨はなかった。近々本格的にこういうことになるだろうという確信のようなものが心のどこかにあって告げた別れだった。

 仁王と美治が動けない兄弟の分も含めてしたくすることになった。2人は小夜のあとに続き…美治だけがとおりすがりに春季の頭を撫でて行った。

「…じゃ、そういうことになったみたいなので、よろしく。…ええと、まだ名前をきいていなかった。」

 春季が客に言うと、客はニヤリとした。

「菊だ。呼び捨てでいいぜ。春季。」

「よろしく、菊。」

 菊が手を差し出したので、春季は握手した。…しっかりした温かい手だった。

「…僕はいつ発ちます?」

「これからすぐ俺と一緒に。」

「…行く前に久鹿のぼっちゃんのとこ、寄れますか?」

「…少しなら。」

「…姉さん、アルテミス、先輩に預けるよ。洗濯ネットにいれてから、バスケットか段ボールにでも入れて。ちょっと凶暴すぎるから、その子。」

 春季が階下から言うと、小夜は黙ってアルテミスを箱に入れて降りて来て、春季に手渡した。

 ちょうどその時、菊の電話が鳴った。菊はポケットから電話をひっぱりだして応じた。

「…ああ、うん、見つかったか?うん、そうか。…こっちも済んだ。これからそっちへいく。そこで待ってろ。…もう逃がすなよ。まったく、女に弱ぇんだからおめえは。まあ斎を女に数えてる根性は認めてやる。立派だ。…じゃあな。」

 菊が電話をしている間に、父がやって来て言った。

「…春季、落ち着いたら何人かで会いに行く。なるべく早く。」

「…うん、わかった。」

 それから一輝がきた。

「…春季、こういうことになって、私もいささか不本意だが、仕方がない。ひどいようなら交代も考える。…とりあえず当分堪えろよ。」

「お気づかいなく。…ろっ骨早く治るといいね。」

「まったくだ。」

(…へし折ってごめん…どうやったかおぼえてないけど…)

 春季は心の中だけで謝った。

 他の家族からは、もう何もなかった。

 そして春季と菊を残して、家族は小さな荷物とともに、こわれた家から静かに出て行った。逃げ出しながら、ふりかえる者はなかった。

「…さて、と。俺達もいくかい。何かもってくもんある?別に何もいらないけど、個人的なものがあったらとってきな。ほら、ばーちゃんの形見とか、好きな女の子の写真とか。」

 菊が気さくに肩をたたいてきた。そしてニカっと若い顔で笑うと言った。

「まあ心配しなさんな! ひっひっひっ。」

 …なにやら企みの気配だった。    

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