その不吉な予感
腹の子の名前が決まった夜から、二日後のことだった。
降り積もっていた雪がまだとけず、そのまま凍った寒い夜のこと。
最近は、龍之介も丸一晩、目覚めずに寝てくれる。たまに起きて泣けば、孝子がすぐ隣の控えの間にいるし、菊も定期的にその様子を見に行ってくれていた。今はもう綾がわざわざ夜中に出向くことはなくなっていた。
綾は正重のところにいたが、この夜はいつになく寝付かれず、龍之介のことが気になっていた。
昼間、伝い歩きを始めていた龍之介が廊下で転び、額をすりむいた。その時はたいして泣きもせず、平気でいた龍之介だったが、今こうして考えると心配になってきた。頭の怪我は怖いと聞いたことがあった。夜中に一人、ひきつけでもおこしていたらと考えたら、居ても立っても居られなくなった。
正重は隣で寝息をたてている。様子を見たらすぐに戻ってくればいいと考えていた。その褥からそっと起き上がる。
その寒さに思わず身を震わせ、綿入れを羽織る。
「綾」
と呼び止められた。
「起こしてしまいました。申し訳ございません」
「どこへ行く」
「ちょっと奥向きへ。龍之介様のご様子を見に行って参ります。静かに起きたつもりでしたが・・・・」
正重も上半身を起こす。
「武士をなめてもらっては困る。寝ていようが、いつもと違った気配には気づくものよ」
「そういうものですか」
「うむ、新太郎と久四郎も起きておるぞ。そなたの気配にな」
恐縮する。誰にも迷惑をかけないように行って来られると思っていたから。
正重が廊下への障子を開けると、そこにもう新太郎と久四郎が片膝をついて、頭を下げていた。
ほのかな灯まで手にしている。
「どうなされましたか」
「綾が奥向きへちょっと行きたいと申すので、わしも行こうと思う」
正重もついてくるという。
「いえ、正重様。慣れたところでございます。わたくし一人で大丈夫です。すぐに戻ります故」
すると新太郎が言った。
「我らが綾様と奥向きの入口まで参ります。若はそのままお休みくだされ。今宵は村上様も別の控えの間におられますので、わずかな時、我らがいなくても差し支えないかと存じます」
正重は側近の二人を見る。少し間があった。何か躊躇している様子だった。
正重は、自分の懐剣を綾に渡した。
「このようなものを?」
「一人でいるときは、いかなる時でも身に着けておくべきだ。特にこの二人は、奥向きには入れぬ」
それを受け取ることで、皆の不安がなくなるのであればと、正重から懐剣を受け取った。
この瞬間、四人の間にとてつもない不吉な予感があった。それが綾に懐剣を持たせたのだろう。誰にも理由はわからないが、なんともいえない不安が渦巻いていた。
正重は、ふいに綾を抱きしめた。そして、口づけをする。それは激しく、まるで長い別れになるかのような触れあいだった。
二人の側近の目の前でのことが恥ずかしくて仕方がない。二人も目のやり場に困り、無表情だが目をそらしていた。
「正重様、人前でこのような・・・・・どうなされましたか」
やっと綾を放してくれた。少し非難じみた言い方になる。
「いや、愛おしくてな。すまぬ」
正重は笑う。
「だがな、綾。この二人はいつも、わしたちの夜の営みを聞いておるのだぞ。今更、このくらいなんでもないだろう」
という。
真っ赤になった綾が叫んだ。
「若様っ」
その声に正重は身をすくめる。
「怖いのう、綾は」
と言って破顔した。
「では、すぐ戻って参ります」
「わかった」
正重はうなづく。そして側近二人に言う。
「大事な綾と赤子じゃ。頼む」
「はっ」
と返事をし、二人は深々と一礼した。




