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悲劇の時

 新太郎が先を行き、綾の足元を照らす。久四郎が後をついてきてくれる。中奥から奥向きへの廊下を歩いていた。


 通常、奥向きへの戸は、夕刻になると錠で閉ざされる。しかし、中奥の正重のところへ通う綾は、たまにこの時間外にも行き来しなければならないこともあった。その都合を考えて、合い鍵を持っていた。綾だけに許されたことだった。

 奥向きの入口に立つ。


 新太郎は心配そうに綾を見る。

「ここでお待ちしております。すぐに戻られるのであれば、このまま錠をかけなくてもよいと思います」

 そう言って、綾に灯を渡してくれる。

「本当にすぐに戻ってこられるのですね」

と念を押された。

「はい、龍之介様の寝顔を見たらすぐに戻ってまいります」

 綾は二人を見てそう言った。



 そこからも長く続く暗い廊下。しかし、慣れた場所でもある。

 龍之介の寝所は、奥の中庭の方にあった。侍女たちの部屋は、さらに奥にある。


 綾の歩く音と衣擦れの音しかしない。静かだった。皆が寝入っている。

 龍之介の居間への障子が見えた。なんとなしに安堵した。


 その時だった。

 すぐ前の中庭側の雨戸がカタンというわずかな音をたてて、外れた。


 はっとして足を止める。咄嗟に手前の、開け放たれた座敷へ入って、身をひそめた。灯を吹き消す。

 雨戸が自然に、外側から外れることはないからだ。


 屋敷内から、外の様子はよく見えた。

 月のない暗い夜だったが、凍った雪は白くて、その黒い影を浮かびあげらせていた。

 外から頭巾で顔を覆った黒装束の忍びの影が一人、侵入してきた。その者は、廊下の周囲を見回して、そのまま向かいの龍之介の居間への障子に手をかけた。


 龍之介はその奥の寝所で寝ている。綾の全身の毛が逆立つ。


「何者じゃっ」

 大きな声を出した。


 綾は正重から渡された懐剣を抜く。そして廊下へ出て、自分の姿を見せた。

 龍之介の部屋へ入れさせないために、怪しい者の目を自分に向けさせるつもりだった。

 その忍びの影は、綾の声に一瞬怯んだ。しかし、その後ろから別の忍びの影が現れた。


 一人ではなかった。これでは綾に勝ち目はない。すぐさま、大きな声を出した。


「出合え、曲者じゃ。龍之介様の御寝所に曲者が入り込んでいる。出合えっ」


 奥の侍女たちを呼ぶため、そして奥向きの入り口で待つ新太郎と久四郎に助けを求めるために、大声を張り上げた。


 しかし、綾が叫ぶのと同時に、忍びの一人が刀を抜き、綾に切りかかってきた。それは素早い動きだった。熟練の忍びとわかる。

 キンという金属がぶつかる音が響いた。

 綾はかろうじて、その一撃を頭の上で受け止めた。ものすごい衝撃に手がしびれる。


 あとから入ってきた忍びが、他の雨戸を蹴破った。狭い廊下では、身動きがとれない。刀も思うように振れないからだった。

 その方が綾にも好都合だった。刀に力を入れ、ぱっと後ずさりする。もこもこしていた綿入れを脱ぎ、綾は裸足のまま中庭に降りた。夜着だけだが、寒さはまったく感じない。

 忍びの者も綾を追って中庭に降りた。誰かが駆けつけてくれるまで、なるべくこの忍び達を龍之介の部屋から遠ざけなければならない。


 騒ぎを聞いて、奥向きも騒がしくなってきた。

「綾様っ」

 いち早く、新太郎と久四郎が駆けつけてきた。

「新太郎様、久四郎様っ、曲者が」

 二人の姿に綾は安堵した。しかし、忍びは三人いた。すぐにその一人が刃を新太郎たちに向ける。カキンという白刃が闇に火花を散らせた。


 綾の気がそちらにそれた。そのわずかなスキを狙って、忍びの者は綾に白刃を大きく振り上げた。まるで滝の上から下へと水が叩きつけられるかのような早さだった。さっき、受けた一撃で、綾の手はまだ痺れている。今度はかわせないと思った。観念した。


 その直前にどこからか声が飛んだ。


「よせっ、そのおなごに手を出すなっ」


 それは忍び同士で交わされた言葉だった。

 綾に向かって、既に刀を振り下ろしている忍びは、その動きを止められないでいた。

 本来なら、その白刃は綾に致命傷を負わせていただろう。その声にわずかに力を抜いていた。刃はわずかに反れて、綾の左肩をざっくりと切った。


「綾さまっ」


 孝子の悲痛な叫びが響いた。

 騒ぎに起きてきたのは龍之介の寝所の控室に寝ていた孝子だった。そして孝子の後ろに忍びが立った。新太郎は孝子を庇う。その忍びと刃を合わせながら、孝子を廊下の奥へ追いやる。その新太郎の背に、綾を斬った者がたった。そして綾を斬ろうとしたあの上段からの一振りで、背中を一撃された。


「シンッ」

「新太郎様っ」

 

 孝子が悲鳴を上げた。久四郎も悲痛な叫び声をあげる。

「シンッ」

と何度も叫びながら、他の忍びの一人と戦っていた。ようやく、久四郎がその一人の腕を斬った。

 しかし、新太郎を殺した忍びと綾を切った者が久四郎のところへ向かう。

 孝子を意識した久四郎は、二人の忍びに囲まれ、そして腹を一突きにされた。


 その直後に菊が薙刀を持って現れた。屋敷内に明かりが灯され、中奥からも侍たちが駆けつけてきた。


 綾は左肩を切られ、倒れるまでにその情景を見ていた。

 綾が切られたその直後、新太郎がやられ、久四郎も切られた。その展開はわずか瞬き二つ、三つの間に起ったのだ。



 綾は池へ落ちた。

 池の水は氷を張っていたが、人一人の重みには耐えきれず、派手な音を立てて割れた。綾の体は冷たい水の中へ落ちていった。



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