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カール・ヨハンセン

翌日の午前十一時。

ホテルの応接室に入ってきた男を見て、俺は思わず姿勢を正した。


年齢は五十代半ば。灰色の髪を短く整え、濃紺のスーツには皺一つない。

派手さはないが、その佇まいからは強烈な威厳と迫力が感じられる。

何より190cm近いその身長と、服の上からでも分かる隆々とした筋肉には目を見張るばかりだ。


「カール・ヨハンセンと申します。ヴァレリー家の家政部門、および財団の実務部門を統括しております」


流暢な日本語と深い一礼。

外見も合わせ、頼もしい、という言葉が自然に出てくる。


「小野です。丁寧な挨拶どうも。ええと、執事さん……ですかね?」


「日本語で最もフィットするのは家令という言葉かと」


エリザが横から口を挟む。


「カールさんは資産運用、警備、住居管理、情報管理、AI部門の最高責任者です」


「責任を押し付けすぎてやしないか?」


「奥様のご意向でしたので」


低く落ち着いた声。カールは真顔だった。

この人とヴァレリー夫人との間には、強固な信頼関係と、相当な無茶振りの歴史があったことが感じられる。

エリザと夫人の関係とは違うものを感じるな。


「それでカールさん、今日のご用向きは?」


「奥様の御遺志で、今後は小野家にお仕えしたく思っております」


「財団から給与は出ています。かなりの高給です」


エリザが小さな声で補足した。

まあ、それだけの仕事をしているのだろう。


「既定事項なのだろうし、断る理由もない。着任を承諾します。

 AI部門の責任者ということは、AIマルグリットはカールさんの手によるものですか?」


「はい。奥様のご意向でした。

 運良く世の中の技術で使えるものが結構ありましたもので」


「運良く、で作れるものじゃないと思うけど」


「奥様は生前、ご自身の会話内容や判断の根拠を大量に保存しておられました。

 人格や会話を構成する材料は長い時間をかけてご本人が用意していたのです。

 まあ、苦労がなかったとは言えませんが」


「几帳面さが功を奏したんですね」


「奥様は計画性のある方でしたので」


褒めているのか恨んでいるのか、まったく判断がつかない。

エリザの表情を見るに、作ってほしくはなかったようだ。AIマルグリット。


「エリザさんが発する特定のワードに過敏に反応して会話に割り込んで

 くるように思います」


「それはご不便をおかけしているようで申し訳ございません。

 奥様の性格由来なのか、AIの特性なのか切り分けが必要ですので

 今しばらく経過を観察させていただけませんか。

 ちなみに、どのような単語に反応するのでしょう?」


「ええと、その……たぶん、性格由来です。おかまいなく」


エリザが口ごもる。エリザも先端技術まではさすがに明るくないらしい。

専門外のことだし、カールにあまり強くは出られないのかな。


「さて、本日の本題ですが」


カールはテーブルに首都圏の地図を広げた。

デジタルマップではなく紙の地図。印があるのは東京ではなく小田原。


「今後、小野様にはこちらに住んでいただきたく存じます」


「小田原? 俺の大学、東京なんだけど」


「承知しております」


「じゃあ、なんで小田原?」


正直、財力に物を言わせて今いるホテルの窓から見えるタワマンの最上階にでも住もうかと考えていたくらいだ。


「防犯防災および対テロ上の理由ですな。

 都心の高層住宅は出入口が限定されますし、地震の際は足かせになります。

 周辺道路の封鎖や避難経路の確保なども臨機応変にはいきません。

 毎日の警備も周辺住民への影響が大きいので人口密集地は避けるべきかと」


ホテル暮らしを続ける案も長期滞在者や従業員を巻き込むため不適切。

郊外の広い敷地なら監視線、退避路、車両導線をまとめて確保できる……

いくつか理由を並べられると、なるほどと思えることばかりだ。


「でも、今からそんな物件を探すの?」


「財団が小田原に所有している施設を使用します。

 日本のバブル経済が崩壊した一九九〇年代、とある大企業が現金確保のために

 手放した役員向け保養所兼研修所を奥様が買い取ったものです」


「財団って保養所まで持ってるのか」


「奥様は当時その企業の株主だったのですが、向こうから『買わないか』と

 打診されたのです。実際は懇願に近かったようですが。

 他に大阪に一つ、京都に二つ。日本国内では全部で12、このような物件が

 ございますな」


「12……」


マルグリットさんが生前、エリザさんにいろいろ止められたのはこれか。

資金繰りに困った企業から泣きつかれるたび、こういう物件を拾っていたのだろう。


カールが建物の図面を地図の上へ重ねる。

本館に宿泊棟、厨房、会議室、大浴場、宴会場、ビジネスセンター……

浮ついたバブル時代に作られたものだと言われればなるほどと頷ける豪華な造りだ。


「現在、改装中ですが小野様とご両親、エリザさんにはそれぞれ専用の居室を

 用意してあります。

 スタッフ用の居住区とサービス通路があるため、メイドたちも小野様一家の

 私生活を妨げずに動けます」


「メイド?」


「庭師に料理人、用務員などもおりますな。私を含めて9名が常駐し生活を

 サポートさせていただきます」


それがどんな生活になるのか想像もつかない。

想像がつかないから不満も言えない。ただギャップに対して不安になるだけだ。

とりあえず、支えてくれる人たちのためにも軽挙妄動は控えたい。


「あと、先ほど軽く触れましたが、

 静岡のご両親にも小田原へ移っていただきます。

 お二人にはすでに了承していただきました」


「は?」


俺はスマホを確認した。母からの未読メッセージが二十七件。


『お父さんが庭に畑を作れるか聞いています』

『海は見えますか』

『あんた、財団の人に迷惑かけてないでしょうね』


主導権はとっくに失われているらしい。

大きなため息の音が部屋に響いた。


「一応、理由を聞こう。だいたい検討はついてるけど」


「従来の警備体制ではご実家が狙われます。

 小田原ならご実家との行き来もしやすく、静岡へも東京へも移動が容易です」


正論だ。

正論なのだが、ここに来て親の人生まで歪めてしまったことが猛烈に悔やまれる。

蒲原の自宅から電車で県庁通いしていた父の穏やかな日々はもう帰ってこないのだ。


「……軽々しい気持ちで詐欺メールに返事なんかするもんじゃないな」


何度目だこの反省。



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