Pride and Prejudice
「お食事時になんですが、個人遺贈分にかかる日本の相続税の概算が出ました」
ホテルで朝食後のコーヒーを飲んでいると、エリザがやって来た。
「もう出たのか」
「概算です。確定額ではありません。変動要素が多いもので」
「じゃあ見なくていいんじゃ」
「見ておいたほうが良いですよ。今後のためにも」
俺は概算の書かれた紙とやらを受け取った。
数字が並んでいる。円。ユーロ。評価額。課税対象額。控除。税率。納付見込額。
そして、最後の行。
「ご覧の通り、概算では一兆八千億円前後です」
「……いっちょう?」
「評価額と為替次第で上下しますが、現時点では一兆七千億から一兆九千億円程度の幅を見ています」
「……」
声が出ない。
「これ、桁合ってます?」
「残念ですが合っています。最高税率は五十五パーセント。さらに小野さんは夫人の配偶者でも一親等の血族でもありませんから、算出税額に二割加算されます」
「税率に税率を重ねてるのか。ガソリン税みたいに」
「私に言われましても」
「いや、常識的に考えて個人に請求していい桁じゃないよこれ」
「請求ではなく納税見込額です。納税は常識ではなく法に基づく国民の義務です」
「法って常識から醸成されるもんじゃないの?」
「相続額がそもそも常識から外れてるんですよ」
俺は紙をもう一度見た。
今回、俺が受け取ることになった個人遺贈分は150億ユーロ。
それとは別に、350億ユーロ規模の財団を指揮する権限がついてくる。
合計で500億ユーロ。昨今の株高と国際情勢のお陰で、今なら540億ユーロくらいになりそうだ。
しかし、個人遺贈分だけでこれ?
「俺、受け取ったお金ほとんど触ってないのに税金だけ来るんですか? 取得した実感がないんだけど」
「申告書には実感を記入する欄はありません」
相変わらず冷たい正論。だが、エリザの顔にもわずかに苦味が走っていた。
ヴァレリー夫人の顧問弁護士としてこの数年、夫人と一緒に築いてきた財産がごっそり持っていかれるのは業腹ものなのだろう。
「で、これ払えるんですか?」
「現金一括納付は今はできません。夫人の財産は株式、不動産、信託、各国口座、船舶、美術品、非上場資産、国債などの形を取っています。評価にも換金にも時間がかかりますね」
「つまり?」
「かなりの資産を処分して現金化する必要があります」
処分。また嫌な言葉。
150億ユーロ、二兆八千億円円弱。その大半を占める一兆八千億円を、どうにかして納税できる形に変えなくてはならない。
急に胃のあたりが重くなる。
今までの学生生活で困っていた金の問題とは次元が違う。
ラーメンに味玉を載せるかどうかではなく、小国の予算並みの金額をひねり出せるかどうかの問題なのだ。
財産はある。しかし現金ではない。
資産ならば今後も金を生む。現金はただの数字だ。国に吸い上げられるだけだ。
「こういうのって、うまく乗り切る財テクとかあるんじゃ……」
「財テクの多くは、最終的に担保の評価額が借りた金額を凌駕するスキームで成り立っています」
「分かるように言ってくれ」
「今回のケースでは効果は限定的です」
「分かった。ありがとう」
テーブルの上の紙は事実上、請求書のようなものだ。
いや、国の言うことを聞いていたら受取額の三分の二は持っていかれるのだから請求書どころじゃない。
強盗の予告状だ。
「心中お察ししますが、こちらにもう一つ税金関連の案件があります」
「まだあるの?」
「国税から追加の照会です。財団は日本国内にも多くの資産を所有していますので……代表者や管理権限の変更で目に留まったのでしょう」
「しょうかい?」
「要するに質問状です。まだ正式な税務調査ではありません。少なくとも文面上は」
「文面上は、って何ですか」
「税務当局が、小野さんの申告前または申告準備中に事実関係や資料の提出を求めることがあります。今回は特に、財団の資産を実質的に支配しているのではないか、それは総額でいくらなのか、そういった諸々の確認です」
「情報の提出要請ですよね。調査じゃないですか」
「どういった建前であれ良い兆候ではありません。問題はここ」
エリザの指先を目で追う。
財団総帥の管理権限、理事の任命権、拒否権、投資方針の決定権、生活上の便益、報酬、経済的価値――
日本語なのに、意味が脳に入ってこない。
「つまり?」
「財団が管理している350億ユーロ相当の資産についても、あなたが財団総帥として実質的な支配権を得ているなら、その支配権に財産的価値があるのではないか。そう言ってこちらの出方を窺っているんですよ」
「待って」
俺は手を上げた。
「俺、その財団管理分の資産、自由に使えないですよね?」
「まあ、自由には」
「売れないですよね?」
「管理チームと相談しないと」
「自分の口座に移せないですよね」
「公私混同です。怒りますよ」
「あ、いや。なのにそっちにも税金かけるかもって言ってるんですか?」
「正確には、税金をかけられる余地がないか確認したい、という照会です」
「実質とか支配とか、それ、向こうの胸先三寸で判断変わりますよね?」
エリザの目が細くなる。怒っている。俺にではない。
エリザはコーヒーを一口飲み、文書をテーブルに置いた。
「おそらく、相手を見ています」
「相手?」
「小野さん、あなたです」
「俺?」
「この国の相続税の合計は年間で三兆円規模と聞きました。小野さんから搾り取るだけ搾り取れれば国庫は潤い、担当部署にとっては歴史に残る実績になるでしょうね」
「財団分まで含めれば一年分以上の相続税が、俺一人から取れる計算か……」
「ケツの毛まで毟りに来てるとはこのことを言うのでしょう」
『真面目な話をしてると思ってたのに、またそんな。日本のイディオムってエリザ向けのものが結構あるのね。ホホホホホホホ』
突如エリザのノートPCの画面に現れたAIマルグリットの笑い声が高らかに部屋に響く。
「うわっ」
「すっこんでいなさい。電子イタコ」
エリザがノートPCを即座に閉じた。
「……相手が名だたる旧家の財団、大企業の創業者一族、大学基金、国際的な慈善財団なら、最初からここまで踏み込みません。少なくとももっと慎重なアプローチを取るでしょう」
「ちょっとまって、それって俺が学生だから?」
「はい。後ろ盾となる政治家や組織との結びつきも薄い。少なくともそう見られているのでしょう」
即答。
「腹立つな」
「気に入りませんか?」
俺は文書を見下ろした。
国税が法から外れたことをしているわけではない。それは分かった。
だが、法に触れていないというだけだ。
俺から税金を毟り取ろうとする意思に手段を乗せて合法的に俺を追い込んでいる。
俺はなんてことない大学生だが、ここまで侮られるとさすがに腹が立った。
「気に入らないね。大いに気に入らない」
「念のため申し上げますが相続税を納付しても小野さんは困窮しません。残る個人資産だけでも昨日のサンタガータなら百台どころか、会社ごと買えますよ」
「まあ……そう言われりゃそうなんだけど」
「ですから確認します。残った資産で満足して穏便に済ませるか。それとも、財団資産にまで手を突っ込んでくる連中の手を跳ね除けるか」
「政府と喧嘩するってこと?」
「あちらが法の解釈と税務当局としての裁量とやらを盾に来るなら、こちらにも対抗手段はあります」
「ならやっちゃってよ。遠慮なく」
エリザは、ほんの少しだけ笑った。
「承知しました」




