43話
週が明けての月曜日。
猛烈な寒さの中、誰よりも先に目覚めたのはイーリスだった。
セナの容態は相変わらず良いとは言えないが、幸いにも回復の兆しを見せ始めている。足の裏の皮は早くも張って、歩くこと自体は可能だろう。だが、今は一刻を争う。
今日もメテオーラがセナを背負うことに決まり、おいらたちは小屋を後にした。
相変わらずの悪天候だが、それに文句を言う者はいない。イーリスお気に入りの傘も畳んだままだ。フードを深く被って、全身で雨風に立ち向かう。
道中、イーリスに何を企んでいるのか、何度聞いても答えてはくれなかった。
ただ、山腹の湖で、嵐の中一人黙々と大きな蓮の葉を調達していたのが怪しすぎる。何のためにそんな荷物を増やすのかと聞いても、やはりニヤニヤするだけで何も答えない。
そうこうするうちに、山頂に辿り着いた。
来た方角を振り返ると、ほんの三日前に目にして歓喜した町上空の雪雲は既になく、北の雪山に日光が降り注いで輝いていた。いや、北の空だけではない。東西南北どこを見渡しても雲一つない。
おいらたちの上空に空じゅうのすべての雲が集結しているんじゃないかと不安になるほどの、見事なまでの異常気象っぷりだ。
しかしイーリスは振り返ることなど一切せず、ただ真っ直ぐに南方を見据えていた。
イーリスの足下から先は、草木も生えていない、なだらかな斜面になっている。その先は断崖絶壁で、とても人が降りられるような場所ではない。
その絶壁をじっと見つめたまま、イーリスはおもむろに口を開いた。
「メテオーラさん、魔法で風向き、変えられる?」
不意を突かれたメテオーラは、遅れて頷く。
「ええ、少しくらいなら。でも、例えばその蓮の葉を落下傘のようにして飛ぶような真似は、とてもできませんよ」
メテオーラの突飛な発想においらは目を剥いた。まさかそのための蓮の葉なんだったら勘弁してほしい。ここから飛び降りるなんて、命がいくらあっても足りやしないぜ。
おいらの意見に賛同するわけではなかろうが、イーリスは軽く頷く。
「うん、わかってる。ただ、ちょっと風向きを変えてくれたら、あとはわたしがなんとかする」
「なんとかって、何をするつもりなのですか?」
とうとう、メテオーラが聞いてしまった。
おいらは耳を塞ぎたくなるのを堪えて、イーリスの言葉を待つ。
イーリスが披露したのは、メテオーラの発想を遙かに超える代物だった。
「みんなでこの葉っぱにしがみついて、ここから滑り落ちるの。で、崖のところで空に飛び出すでしょ? そこでメテオーラさんが、風向きを整えるの。こんなに強い風だったらめっちゃ飛べるよ。地面にぶつかるときがいちばん怖いけど、ふんわり降りれたら、もうだいじょうぶ。で、あとはずっと追い風で、沼をどろんこ魔法で駆け抜ける。そのまま向こうの山まで一直線。どう?」
どうもくそもあるか、と言おうとした口を、おいらはすんでのところで噤んだ。
あろうことか、メテオーラが顎に手を当てて考え込んでいるのだ。
「失礼ですが、イーリスさんのどろんこ魔法というのは、信頼に値する魔法なのですか?」
「この先の沼は歩いて来たからわかる。だいじょうぶ、まかせて」
イーリスの瞳は真剣そのものだ。
だからって、子供の判断を鵜呑みにするのは危険すぎるぜ。
「危険すぎますね。ですが、心躍ります。空に飛び出すというのがこの上なく魅力的ですね。蓮の葉は馬車等の乗り物ではありませんし、問題ないでしょう」
「おいおい、何がどうなれば問題ないなんて言えるんだ。そんな危険を犯すなんて、どっからどう見ても問題外だろ。あんたが無事にサルに戻れないと、アイトリアは殺されちまうんだぞ」
「無事に戻れたとしても、間に合わなければアイトリアは生贄です」
メテオーラが真っ直ぐな視線をおいらにぶつけてくる。
おいおい、まさか、反対なのはおいらだけなのか。
「なに言ってるのよピュイ」
イーリスがおいらを手のひらに乗せて、笑顔を作る。
「昨日、しっかり休んどいてって、言ったでしょ?」
「お、おいなに期待してるんだよ。自分のアイデアの責任をおいらになすりつける気かよ」
狼狽えるおいらに、メテオーラまで温かい眼差しを向けてくる。
「ただのカエルでないことは理解していたつもりでしたが……ピュイさん、頼もしいです」
「あんたおいらの何を知ってるんだよ!」
「頼むからね、ピュイ」
おいおい、セナも、潤ませた目をおいらに向けるのは止めてくれ。卑怯だぞっ。そんな目で見つめられたら何も言えないじゃねぇか。
んで君たち、さっさと蓮に乗り込むとか段取り良すぎるでしょう!
「私は、いつでも準備万端ですよ」
蓮にしがみついて、メテオーラがイーリスに頷きかける。
「じゃあ、覚悟を決めてね!」
縁起でもないことを言うな。何が何でも成功させてくれよ。
なんて悪態をついているうちに、イーリスが詠唱を始めた。
「ここは山のてっぺんで、いいかんじの下り坂。土は水浸しでわたしのともだち。すんごい勢いで滑ってほしいってお願い、聞いてくれるよね?」
詠唱が終わった瞬間だった。蓮が、暴風雨の中、凄い勢いで斜面を滑り出した。
願望型の詠唱は威力が高いかわりに精霊任せの案分が増すきらいがあるが、もとよりこれは博打なのだ、確率の悪さを口にするのは野暮ってもんだ。
柔らかい蓮の葉がこんな勢いで滑ったら、普通は一瞬にして摩擦で破けてしまうところだが、もはや地面は泥と化し、摩擦は無いに等しかった。
スピードに乗るにつれて、視界が急激に狭まっていく。
気づいた時には、目の前は崖っぷちだった。
おいらは無理矢理視線をその先に向ける。
空だ。未だ真っ青な、サルの遙か上空を。
行かねばなるまい。
ふいに、浮遊感。
体が空に投げ出されたのが分かる。
次いで、ふわりと舞うような。
スピードは空中にあってなお衰えず、しかし蓮の葉が裏返るようなことはなく。
緩やかな放物線を描いて空を飛ぶ。
「わぁ!」
詠唱なしで風向きを操るメテオーラが、感嘆の声を漏らす。
気づけば雨脚が弱まっている。
頭上を仰ぐと、黒雲の中心より、おいらたちのほうがわずかに前に出ていた。
雨雲の速さに勝っているのだ。
無限にも思えた飛行時間は、実際にはわずかだったはずだ。
高高度からの着地による衝撃に身構えていたおいらは、しかし、その瞬間に気づかなかった。
一重にメテオーラの魔法による調整が抜群だったのだろう。
「こっから!」
イーリスは舌を舐めてから、本日二つ目の詠唱を始める。それは、またも願望型だった。
「沼は、蓮、好きだよね。泥は、わたし、好きだよね。なら、お願い。このまま真っ直ぐ、わたしたちを導いて!」
信じられないことが起きた。
加速したのだ。着地しているにもかかわらず。
間違いない。泥の精霊リームスは、全力でイーリスを手助けしている。
これはもしかすると、この湿地帯を、このまま一気に抜けられるかも知れない。
イーリスがおいらに声をかけてきたのは、そんな期待がちらりと頭によぎった時だった。
「ピュイ、限界、あとはまかせた!」
「おいおい、もうかよ、はやくねぇか?」
イーリスがおいらの抗議に耳を貸さないのはいつものことだ。
言葉と共に左手を蓮の隅から離し、おいらをむんずと掴んだ。
「いい? ぜったい離さないでね! こんなところに落ちたら、二度とみつからないよ!」
「わかってるって、ちゃんとタイミングを合わせろよ。三から数えてゼロでやるぞ!」
「うん! いくよ! さんっ! に! いちっ!」
「「ゼロ!」」
二人の声が重なった。
その瞬間、視界が真っ白になった。
それが収まると、おいらはまず、自分の手を見た。
ぎゅっと握りしめられた左手の中には、真っ青なカエルが苦しそうに伸びている。
一方おいらはというと、いろんなものを着込んでいる上に背中には重い荷物がのしかかっていて、動きにくいことこの上ない。しかも、もの凄い風を前から受けているため、身じろぎ一つ許されない。
成功だ。
おいらとイーリスは、完璧に入れ替わった。
これによって、イーリスが発動させた魔法の維持も、全ておいらが引き継ぐことになる。
そう、これこそが、イーリスがおいらに頼る奥の手だった。
「もしかして、ピュイさん、なのですか?」
隣で風を操っているのであろうメテオーラが、探るような目で見つめてくる。
一言も喋らないうちから言い当てられては、おいらとしては肩をすくめるしかない。
「一応、そういうことなんだろうよ。実のところ、おいらにも絡繰りはよくわからん。ただ、おいらがイーリスの体を自在に操っているのは間違いないところだ」
歯切れの悪いおいらに、メテオーラは何故か苦笑を浮かべる。
「その様子では、悪用したことはなさそうですね」
「当たり前だ。おいらはイーリスの保護者だからな。こんな事、できればしたくねぇ」
「では、ピュイさんは魔法を維持するために、嫌々イーリスさんの身代わりになったのですか? ピュイさんには、意志力に限界はないのですか?」
こいつ、冗談抜きにめちゃめちゃ切れるな。今更ながらに感心する。
おいらの意識がイーリスに移るという現象を許容するのも、それが魔法の維持のためだと気づくことも、そう簡単ではないと思うのだが。そして最後には、魔法を維持するために要求されるおいらの意志力が、信用に足るものなのかを即座に疑ってかかっている。
こんな頭の切れ具合、有り得るのか?
「あんた、一瞬でそこまで思いついたのか?」
おいらの率直な問いに、メテオーラはゆっくりと瞬きをする。
「会話の流れからして、そう考えるのが自然では?」
そ、そういうもんか?
ゆっくり検討している暇はないので、とにかく受けた質問に答える。
「……おいらが引き継いだ魔法の維持に関しては、おいらの意志力は要求されない。だが、イーリスがこの体に戻ったとき、いっつもものすんごくのたうち回っているから、たぶん魔法が発動している間中、イーリスの意志力はずっと消耗し続けているんだろう。イーリス自身の意志力がどれだけ摩耗しようが、あくまでもこの体が意識を失わない限り、魔法は維持されるって寸法みたいだな。ま、この力に気づいたのも、こんな使い方を思いついたのも、どれもこれも偶然が重なってのことなんだ。正直こんな乱暴な離れ業、おいらは使いたくないんだけどな」
おいらのどこか言い訳がましい蓮上の長台詞に、メテオーラはゆっくりと頷いた。
「そうですね。ピュイさんの意識がイーリスさんの体を操ることも含めて、どんな悪影響を彼女に与えるかわかりませんし」
話が早くて助かる。
だが、メテオーラは風向きをコントロールしながら更に続ける。
「それにしても、肉体と意志力の分離による永久機関だなんて。ピュイさん。このことは、本当に、誰にも知られないように気をつけたほうが良いかもしれませんよ」
メテオーラに目をやると、今までになく真剣な目でおいらを見つめていた。
奥の手なんだ、秘密にするのは当然だ。
おいらは深く考えずに頷きを返した。
そんなやりとりの間も、スピードは落ちることなく快調に湿地帯を滑走している。
顔に吹き付ける雨風が心地良い。
人間の肌が受ける刺激というのは、実に臨場感がある。
それに比べてカエルの時の触覚の嘘臭さと言ったらない。この感覚のミスマッチこそが、おいらは人の思考を得た化けガエルなのではなく、何らかの因果によりカエルの姿に変えられてしまった可哀想な人間のはずだと考えている根拠の一つでもある。
おいらが生の実感に打ち震えているうちに、その時が来た。
ついに蓮の葉は雨雲が支配する雨女の領域を突き抜けて、青空の下に飛び出したのだ。
「思うんだが」
改まって切り出すおいらに、メテオーラが首をかしげる。
「乗り物に乗ってはいけないっていうのは、こういうことが起きないように、なんだよな」
振り返れば、おいらたちの後ろを雨雲が猛烈な勢いで追いかけてきているのだ。誰かに見られたらとってもまずいのは言うに及ばずだろう。
おいらの遠回しな物言いに、メテオーラはにっこり微笑んでこう切り返してきた。
「速く走ってはいけないという制限は、私にはありません。さて、この蓮の葉は、乗り物でしょうか?」
おいらは前に向き直った。雨から解放されたのも束の間。
間もなく湿地帯を抜けて、どろんこ魔法による滑走は急速に速度を落とした。
メテオーラの逞しさに、おいらは唇を歪めて苦笑するしかなかった。
イーリスなら決してしないような、実に不気味な表情だったことだろう。