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「私、エステア・ラグレインは――セオドリク殿下との婚約を破棄いたしますわ」
「……は?」
それが誰の声だったのかは、わからなかった。
けれど、大神殿の広間にいた誰もが、同じ顔で固まっていた気がする。
王家の重臣も、神殿の上位神官たちも。
第二王子セオドリクの隣では、神託の巫女メルディアも目を見開いていた。
当然だ。
本来なら、この場で婚約破棄を告げるのは私ではなく、セオドリクのほうだった。
そのあと、彼はメルディアを新しい婚約者として紹介するはずだった。
そして私は、偽りの聖女として断罪される。
ラグレイン家ごと切り捨てられ、この広間で処刑される。
そのたびに――なぜか、同じ朝へ時間が巻き戻る。
だから、今度は先に言ってみた。
このまま同じように婚約破棄され、同じように処刑され続けるくらいなら……なにかひとつでも崩したかった。
短い沈黙のあと、低い声が広間に響いた。
「……いま、なんと言った?」
「ですから……婚約を破棄すると、申し上げましたの」
その後、セオドリクたちとの応酬が続いた末――ぱち、ぱち、ぱち、と。
緊迫した空気には不似合いな、ゆったりとした拍手が後ろから聞こえてきた。
「まさか、自分から先に婚約を破棄するなんて……君がそんなに面白かったとは、知らなかったよ――エステア」
私が幼い頃からラグレイン家に仕える、白銀の魔術師フェルの声だった。
どうしてこんなことになったのか。
始まりは、「ある夢」を見た朝だった――
◇ ◇ ◇
『……約束するよ。どんなに時が経とうと、君の残したものはすべて、僕が――』
視界いっぱいに、赤が広がっていた。
石畳の上に、血が流れている。
膝をついた長い髪の女性が、狼にも獅子にも見える大きな獣へ手を伸ばしていた。
獣もまた、傷だらけの身体を引きずるようにして、その手に鼻先を寄せようとしている。
その人の横顔だけが、なぜかはっきりと見えて――
(――私の、顔?)
途端に、景色が反転した。
冷たい石畳の感触。
喉の奥に絡みつく血の味。
獣の低い唸り声。
次の瞬間、背中になにかが深く突き立った。
見下ろした先、自分の脇腹から、黒く鋭いものの先端が突き出ている。
「……っ」
息が、吸えない。
一拍遅れて、焼けるような痛みが押し寄せた。
寒い。気持ち悪い。指先から力が抜けていく。
獣が吠える。なにかに飛びかかっていく。
その姿もだんだんと遠のいて、私の意識はそこで途切れた。
――朝。
私は寝台の上で目を覚ました。
(夢……?)
白い天井が、ぼんやりと目に入る。
ゆっくりと上体を起こし、頭を軽く振る。
いつもの朝の光が、窓から差し込んでいた。
「どうして、こんな夢を……」
さっきの生々しい感覚が、まだ身体に残っていた。
背中を貫かれた痛みも、息ができなかった苦しさも、思い出すだけで気分が悪くなる。
それなのに――
(あの獣は、なんだったのかしら)
夢のなかとはいえ、自分が殺されたことよりも、そっちのほうが妙に気にかかった。
「……いえ、ただの夢よね。早く忘れましょう」
自分に言い聞かせるように呟くと、寝台から立ち上がる。
今日は大神殿で、定例の儀がある。
第二王子セオドリク殿下の婚約者として、私はあの人の隣に立たなければならない。
朝の支度を済ませようと鏡台に向かう。
赤みがかった栗色の髪を整え、眠気の残る淡い赤紫の瞳をひとつ瞬かせた。
――まさか、今日という日が終わらなくなるなんて、この時の私には知る由もなかった。
◇ ◇ ◇
自室を出ると、廊下に誰かが立っていた。
白にも見える銀色の長髪を後ろで緩くまとめ、その髪と同じような色合いのローブを、無造作にまとった長身の男。
襟元や肩にあしらわれた、毛皮めいた装飾が目を引く。
この家に仕える魔術師、フェルだ。
壁に背を預けて腕を組んでいた彼は、私の姿に気づくと、口元だけで笑った。
「おはよう、エステア。今日もお早いお目覚めで」
「……おはよう、フェル。珍しいわね、こんな朝早くから起きているなんて」
「そりゃあ……定例の儀がある日だもの。なにかおかしいかい?」
「おかしいわよ……あなた、そんな日に顔を出すこと自体、一度もなかったじゃない」
呆れたように返すと、彼は小さく首を傾げた。
そんな何気ない仕草まで妙に様になっていて、なんとなく調子が狂う。
私が物心ついた時から、フェルは魔術師として家にいた。
だからかなりの年上のはずなのに、いまではなぜか、私とあまり年の差がないように見える。
家の誰も、そのことを不思議がらない。
(若作りの魔法でもあるのかしら)
……なんて、さすがに直接聞く勇気はない。
ただ、誰もが口を揃えて「彼はすごい魔術師だ」と言う。
(なにがすごいのか、私にはさっぱりわからないけれど。だってあの人、いつも木の上で昼寝ばかりしているんだもの)
なのに、今日はこんな朝早くから起きている。
まさか空から槍でも降ってくるのかしら。勘弁してほしい。
そんなことを考えていたら、ふいに名前を呼ばれる。
「エステア」
フェルがじっと、私の顔を見る。
「な……なに?」
金の瞳をまっすぐ向けられ、どうにも居心地が悪い。
「顔色よくないね。ちゃんと眠れた?」
「……えっ?」
「ひどい顔してる」
「……ひどい顔なんて――」
そう言い返しかけて、ふと思い出す。
(もしかして……自分が殺される夢なんて見たから?)
鏡で顔を見た時は、たいして気にも留めなかったけれど。
「そんな顔で定例の儀なんて行ったら、君の婚約者にも余計な心配をかけちゃうんじゃない?」
フェルはごそごそと懐を探ると、白い組紐を取り出す。
銀糸が編み込まれているのか、さりげなく上品に煌めいている。
「ほら。気休めだけど、お守り」
「……は?」
「いいから。今日はつけときなよ」
そう言われても……と、すぐには手を伸ばせずにいる。
けれど彼は、差し出した手を引っ込めるつもりはなさそうだった。渋々頷く。
「わかったわよ……ありがとう、フェル」
組紐を受け取ろうとしたところで――「貸して」と短く言ったフェルに、手首を取られた。
「ちょ、ちょっと……!」
あまりに自然な手つきで、するりと組紐が手首に巻かれる。
ひやりとした指先が一瞬だけ肌に触れて、妙に意識してしまう。
「これでよし。じゃ、またね」
それだけ言って、フェルは廊下の奥へ立ち去ってしまった。
「……なんだったのかしら」
手首に巻かれた組紐を、まじまじと見つめる。
(まあ……あからさまに怪しげなものには見えないし、つけておいて損はないかしら)
ふう、と小さく息を吐く。
それから、朝のお祈りのために礼拝室へ向かった。
◇ ◇ ◇
私の家――ラグレイン家の屋敷は、王都大神殿の北棟に連なっている。
大神殿の奥にある、初代が施した封印を守るのが、代々この家に生まれた聖女の役目だからだ。
遠い昔、この地を苦しめた「大いなる災い」が封じられていると伝わっている。
もっとも……いまでは、この役目の重さを本気で信じている者は少ないのかもしれない。
神殿でさえ、ただの慣例のように受け止めている節があった。
なにが封じられているのか、もうはっきりしない。
それに、今日まで封印に異変が起きたこともない。
だからといって、私は手を抜く気にはなれなかった。
(きっと……意味があることなのだから)
そう思わなければ、自分がなんのために聖女として育てられてきたのか……わからなくなってしまいそうだった。
屋敷の礼拝室で朝の祈りを短く済ませ、大神殿の最奥にある封印の間へ向かう。
両開きの大きな扉の前には、年配の神官が待っていた。
脇には、ふたりの衛兵が無言で立っている。
形式どおりのやり取りを済ませ、神官と衛兵を扉の外に残し、私はひとりでなかへ足を踏み入れた。
封印の間の奥には、巨大な石扉があった。
私はその前に立ち、決められたやりかたで祈りを捧げる。
石扉に刻まれた紋様が、いつもどおり淡く光を返した。
その光は、封印を守るための聖女の祈りが、今日も正しく捧げられた徴だと教わってきた。
(ひとまず、朝の務めは終わりね)
そうして日中の務めをこなしているうちに、やがて定例の儀の時刻が近づいてきた。
夢のことも、フェルのことも、もう忘れたつもりでいたのに、ふとした拍子に何度か頭をよぎって……そのたびに、考えすぎだと振り払った。
◇ ◇ ◇
午後。
定例の儀が、大神殿の広間で始まる。
この儀には、王家代表と神殿の上位神官たちが出席する。
扉の向こうでは、ラグレイン家の関係者たちもいつもどおり席につき、列席を許された貴族や下位神官たちの姿も見えた。
私は聖女として、最後に広間へ足を踏み入れる。
壇の近くには、第二王子セオドリク殿下が、王家の代表として立っていた。
表情はひどく張りつめ、青緑の瞳は私を見ようともしない。
すぐそばには、見慣れない女性まで佇んでいた。
年の頃は、私とそう変わらない。
乳白に近いやわらかな色合いの衣をまとい、褪せた金の髪をゆるく流している。
ほとんど色のない薄い水色の瞳だけが、静かにこちらを見ていた。
その女性と目が合った瞬間――背筋がぞくりと粟立った。
理由はわからない。ただ、本能みたいなものが「危険だ」と叫んでいた。
さりげなく目を逸らすと、壁際に立つ白いローブ姿の男性――フェルが目に入った。
(嘘……あのフェルが、広間にまで来るなんて)
「定例の儀があるから早起きした」とは言っていたけれど、どうせいつもの軽口だと思っていた。
しかも、その顔にいつもの笑みは張り付いていなくて……ただ黙ってこちらを見ている。
金の瞳にはなんの感情も浮かんでいなくて、それがひどく冷ややかに見えた。
いやな予感が、さらに強くなる。
セオドリクの待つ壇まで、なんとか進む。
すると――彼が一歩、前へ出た。
あまりにも不自然な動きだった。
私を見ないまま口を開く。
「エステア・ラグレイン。君との婚約を、破棄する」
「――えっ」
呟くと同時に、広間に小さなどよめきが走る。
一切の動揺を見せず、彼は淡々と続ける。
「この婚約は、王家と神殿が共にこの国を支える証だった。……だが、その前提は失われた。神殿にとって、君は――もう聖女ではない」
聖女ではない。
突然そう突きつけられても、意味がわからなかった。
(だって……封印を施したのは、ラグレイン家の初代聖女で……今日だって、石扉は私の祈りに応えたのに)
なんとか言い返そうとしたけれど、その前に、セオドリクがさらに告げた。
「ゆえに王家も、君との婚約を続ける理由はない。代わりに……新しい婚約者を連れてきた。――メルディア」
「ええ、殿下」
鈴を転がしたような澄んだ声で返事をしたのは、セオドリクの隣にいた見知らぬ女性。
乳白色の衣の裾をつまみ、上品に一礼する。
「ごきげんよう、皆様」
「メルディアは、西方から参った神託の巫女。彼女が見抜いたのだよ。ラグレイン家の……『嘘の封印』を」
「嘘の……封印……?」
広間のざわめきが、一段と大きくなる。
そこでようやく……気づいてしまった。
この場で明らかな動揺を見せているのは、末席の貴族や神官たち――そして、ラグレイン家だけだった。
壇に近い席にいる王家の重臣たちは、誰ひとり顔色を変えていない。
神殿の上位神官たちもまた、止めに入るどころか、ただ静かに成り行きを見ていた。
(この場は、最初から私を……ラグレイン家を切り捨てるために、用意されていたのね)
王家と神殿のなかに、ラグレイン家を疎んじる者たちがいることは、以前より噂されていた。
けれど、まさかここまであからさまな手を使ってくるなんて。
そんな私をあざ笑うように、メルディアはくすくすと笑うと、するりとセオドリクの懐に滑り込む。
彼はメルディアの肩を抱き寄せ、私を睨みつけた。
「彼女はこの国の恩人だ。それに比べ……お前はなんだ。嘘の封印で人を騙してきた、偽りの聖女じゃないか。いや、お前だけじゃない。先代も、その前も、皆同じだったのだろう。――虫唾が走る」
ガタン、と大きな音がした。
顔を向けると、ラグレイン家の席で父が立ち上がっていた。
顔色は蒼白で、目は大きく見開かれていた。
娘の私だけじゃない。先代聖女だった母まで侮辱されて、黙っていられなかったのだ。
けれど、ラグレイン家ごと切り捨てられたいま……当主である父でさえ、この流れはもう止められない。
(……私が、なんとかしなきゃ)
当代の聖女である私が、ラグレイン家を守らなきゃ。
息を整える。もう、怯んでいる場合じゃなかった。
「メルディア様、でしたか」
睨みつけることなく、セオドリクの腕に抱かれたメルディアをまっすぐ見据える。
「封印が嘘だとおっしゃるのなら……その神託こそ、真実である証拠はおありで? このエステア・ラグレインを、偽りの聖女と決めつけるのなら――あなただって、偽りの巫女かもしれませんわよね?」
私が詰め寄っても、メルディアは笑みを崩さない。
「哀れなかた……先祖がついた浅ましい嘘に、あなたまで騙されていたのですね」
彼女の目が、わずかに細められる。
「ですが、一度もおかしいと思わなかったのですか? 聖女の祈りで石扉が光る――それだけで、本当に封印が保たれていると?」
「なにを……っ!」
言い返そうとして、はたと気づく。
石扉は、私が祈れば間違いなく光る。
それが本当に、封印を保っている証なのか示す術は――持っていない。
「ほらね。ご自分でもわからないのでしょう?」
メルディアの口元が、かすかに吊り上がる。
「だからこそ、神託が必要なのですわ。人の目には見えない……偽りを暴くために」
彼女の白い指先が、そっとセオドリクの袖をつかむ。
「ねえ、殿下。もうおわかりでしょう? 偽りの聖女は、ラグレイン家もろとも――いますぐここで、処刑すべきですわ」
広間の空気が、凍りついたように静まる。
「そうだな」
セオドリクは迷いなく頷いた。
近くの兵に合図をし、剣を持って来させる。
(嘘……でしょ……)
予想もしなかった事態に、頭が真っ白になる。
剣を受け取ったセオドリクが、迷いのない足取りでこちらへ歩いてくる。
「偽りの聖女に、情けは不要だ」
「待っ――」
振り下ろされた刃が迫る。
反射的に、身体を横へ捻って避けようとする。
その時――片方の手首を強く掴まれたような感覚がして、身体が逆方向へぐいと引かれた。
「きゃっ!」
足がもつれ、肩から床へ叩きつけられるように横倒しに崩れる。
ガキン、とすぐそばで刃が石床を打った。
(なに……いまの……)
肩の痛みに耐えながら、床に手をつく。
手首の組紐が目に入る。
朝、フェルにほとんど強引に巻かれた「お守り」だ。
(この組紐に……引っ張られた?)
ただ、助けられたような感じではなかった。
避けようとした体勢を、無理やり崩されたような気がする。
編み込まれた銀糸が、かすかに光る。
それ以上のことは、なにもわからなかった。
(……いまはそんなことより、早く逃げないと。このままでは、本当に……殺される)
立ち上がろうと、もう片方の手もついて体を起こす。
「逃がさん」
セオドリクの低い言葉が聞こえた直後――
背中に、なにかが深く突き立った。
「……っ」
見下ろした先……自分の脇腹から、鋭い刃先が突き出ている。
息が、吸えない。
一拍遅れて、焼けるような痛みが押し寄せた。
寒い。気持ち悪い。指先から力が抜けていく。
朝見た夢――私が殺された時の光景が蘇る。
あの夢と同じだ。息苦しさも、寒さも、痛みも、なにもかも。
(父は……)
半ば無意識に、父の姿を探す。
けれど、父のいたあたりには兵たちらしい影がいくつも重なっていて、もう誰が誰だかわからなかった。
(このまま……父も、家の他の者たちも皆……殺されてしまうんだわ)
彼らの姿が、次々と頭に浮かんでは消える。
そのなかには、白いローブ姿も混じっていた。
(フェル……あの「お守り」は、結局なんだったの……?)
壁際に立っていた彼の姿を探そうにも、かすんだ視界では難しい。
そのことを考える余裕すら、徐々に失われていく。
虚しさだけが胸のなかを満たす。
(私は……ラグレイン家は……いったいなんのために、封印を守り続けてきたんだろう)
少なくとも、こんな人たちのためなんかじゃない。
そう思ったところで、もうどうすることもできない。
涙すら零す時間もなく、私の意識はそこで途切れた。
◇ ◇ ◇
――朝。
私は寝台の上で目を覚ました。
「……ぇ?」
掠れた声が漏れる。
白い天井が、ぼんやりと目に入る。
上体を起こす。見慣れた自室だ。
いつもの朝の光が、窓から差し込んでいる。
(また……私が殺される夢?)
けれど、今度はただの夢と呼ぶには……あまりにも生々しかった。
神託の巫女。嘘の封印。……偽りの聖女。
「……ぅ……」
思い出して吐きそうになるのを、なんとか堪える。
気づけば、手が脇腹をさすっていた。
傷なんてないはずなのに、そこにまだ痛みが残っている気がして。
けれど、見下ろした手首には、あの白い組紐だって巻かれていない。
それはそうだ。夢のなかの出来事だったのだから。
そう思って、少しだけ息をつく。
(……とりあえず、朝の支度をしなくちゃ)
夢のことをいつまでも気にしていても仕方がないと、なんとか寝台から立ち上がる。
今日は大神殿で、定例の儀がある。
第二王子セオドリク殿下の婚約者として、私はあの人の隣に立たなければならない。
(婚約者として……)
夢のなかで、彼に婚約を破棄されたことを思い出す。
(……まさか、ね)
朝の支度を済ませようと鏡台に向かう。
鏡のなかの私は、いつもとなにひとつ変わらない。
扉を開けて、自室を出る。
すると、廊下には――昨日の朝と同じように、フェルが壁に背を預けて立っていた。
「おはよう、エステア」




