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第8話 『迷いの森と人間の偏り』


 リューゲに戻って数日が経ったある日、ギルドの掲示板に珍しい依頼が貼り出されていた。


「『霧の森の通行路調査。森を横断する安全な道を確立されたし。報酬:金貨四十枚。依頼主:リューゲ商業組合』」


「霧の森って、街の北にあるあの森よね。『迷いの森』って呼ばれてるやつ」


「迷いの森?」


「まっすぐ歩いてるはずなのに、気づいたら同じ場所に戻ってしまう呪われた森。地元の人は『魔法の迷路ラビリンスだ』って言ってて、誰も横断できないの。でも、あの森を抜ければ北部の港町への最短ルートになるから、通れるようになれば交易路として大きな価値があるわ」


「迷いの森か……面白いな」


「面白い、じゃないわよ。入った人が何時間歩いても出発地点に戻ってきちゃうんだから。中には丸一日歩き続けて、くたくたになってスタート地点に倒れ込んだ冒険者もいるわ」


「ぼ、僕の知り合いのドワーフも挑戦して、泣きながら帰ってきました……」


「よし、行こう」


「早い! もうちょっと考えてから——」


「考えるより見たほうが早い。現地調査だ。バックパッカーの基本」



   ◇ ◇ ◇



 リューゲの街から北に歩くこと三時間。


 青紫色の草原が途切れ、深い森が現れた。


 霧の森は、その名の通り年中霧に包まれている。針葉樹に似た背の高い黒松くろまつが林立し、地面は苔と落ち葉で覆われている。木々の間を白い霧が流れ、十メートル先が見えたり見えなかったりする。


「確かに視界が悪いな。日差しも入りにくい」


「方位磁石は使えないの?」


「持ってるけど——ああ、やっぱりだ」


 ケンタがバックパックからコンパスを取り出した。針がくるくると回り、どこを指すべきか定まらない。


「魔素が濃い森だと、金属の針が狂うのよ。この森は特に魔素濃度が高いから、方位磁石は使い物にならないわ」


「太陽の位置も霧で見えない。星も木の天蓋で見えないだろうな。つまり、方角を知る手段がほぼない」


「だから迷うのよ。まっすぐ歩いてるつもりでも、方角がわからないから、いつの間にか曲がって戻ってきちゃうの」


「ふむ……」


 ケンタは森の入り口に立ち、腕を組んだ。


「じゃあ実験してみよう。まず、本当に『まっすぐ歩いたら戻ってくる』のか確かめる」


「実験?」


「ライラ、ドラン、俺の後ろについてきてくれ。普通に歩く。まっすぐ前を向いて、なるべく直進するつもりで」


 三人は森の中に足を踏み入れた。


 黒松の幹が等間隔に並び、苔の絨毯が足音を吸い込む。霧の中をゆっくりと歩く。前を向いて、まっすぐ。


 十分。二十分。三十分。


 景色が変わらない。同じような黒松、同じような苔、同じような霧。目印になるものが何もない。


「ケンタ、なんか同じ場所を歩いてる気がするんだけど……」


「気のせいだろ。まっすぐ歩いてるはず——」


 四十五分後。


 ケンタは、見覚えのある倒木の前に立っていた。


「…………」


 森に入った時に目印として小石を積んでおいた場所だ。出発地点から五メートルも離れていない。


「——戻ってきた」


「ほら言ったじゃない! これが迷いの森よ! まっすぐ歩いてるのに、同じ場所に戻ってくるの!」


「ぼ、ぼくたち呪われたんですかぁ……!?」


 ドランが泣きそうになっている。


 だが、ケンタは笑った。


「いや、これは呪いじゃない。やっぱりそうだった」


「え?」


「リングワンダリングだ」


「りんぐ……わんだりんぐ?」


「サバイバルの常識だよ。人間は、目印がない環境でまっすぐ歩こうとしても、無意識に曲がって円を描いてしまうんだ。これをリングワンダリングって言う」


 ライラが首を傾げた。


「どういうこと? まっすぐ歩いてるつもりなのに曲がるの?」


「ああ。原因は体の左右差だ。人間の体は完全に左右対称じゃない。右脚と左脚で微妙に長さや筋力が違う。歩幅も微妙にずれる。目印や太陽の位置で補正できる環境なら問題ないけど、この森みたいに視覚的な手がかりがゼロの環境だと、その微妙な左右差が蓄積されて、いつの間にか円弧を描いて歩いてしまう」


「……つまり、呪いの正体は、人間の体の癖?」


「その通り。実際に実験した研究者がいてな。目隠しをして『まっすぐ歩いてください』と指示した被験者は、全員が数百メートル以内で円を描いて元の場所に戻ってきた。これは人間だけじゃなくて、多くの動物に見られる現象だ」


 ライラが目を見張った。


「す、すごい……あの迷いの森の謎が、体の左右差で説明できるの……? 何百年も『魔法の迷路だ』って信じられてたのに?」


「魔素でコンパスが狂い、霧で太陽が見えず、木の天蓋で星が見えない。方角を知る手段が全部潰されてるから、体の左右差を補正する方法がない。完璧な条件が揃ってるんだ。呪いじゃなく、環境と人体構造の組み合わせだよ」


「じゃあ……解決策は?」


「視覚に頼らずに直進する方法を使えばいい。いくつかある」



   ◇ ◇ ◇



「方法その一。目印をつける」


 ケンタはドランに向き直った。


「ドラン。この森の木に、一定間隔で目印をつけてくれ。ナイフで幹に印を刻む。三十歩ごとに一つ」


「は、はい! それなら簡単です!」


「目印があれば、同じ場所に戻ってきた時にすぐ気づける。円を描いてることがわかれば、修正できる」


「でもケンタ、それだけじゃ『どっちがまっすぐか』はわからないわよね?」


「そう。だから方法その二」


 ケンタはバックパックからロープを取り出した。


「ライラ、このロープの端を持ってくれ。俺が先に進む。ロープがまっすぐ張った状態で、お前が俺の後ろにいれば、二点間の直線が保証される」


「ああ! ロープでつながっていれば、曲がったらロープが斜めになるから気づける!」


「その通り。二人の間のロープが常にまっすぐなら、少なくともその区間は直進できてる。これを繰り返して、区間ごとに直進を保証していけば、森を横断できるはずだ」


「方法その三は?」


「木を使う」


「木?」


「前方の木を目印にして、そこまで歩く。着いたら次の木を目印にする。木から木へ、一直線上に並べて歩けば、直進できる。三点が一直線上にあることを確認すればいい。三点直線法っていうサバイバル技術だ」


 ライラはしばらく黙って、それからぽんと手を打った。


「全部、視覚以外の方法で直進を保証してる……! 体の左右差を『仕組み』で補正してるのね!」


「そういうこと。じゃあ、やってみよう。全部の方法を組み合わせて使う」



   ◇ ◇ ◇



 二度目の挑戦。


 ドランが三十歩ごとに木の幹にナイフで×印を刻む。ケンタとライラはロープで繋がり、さらにケンタは三点直線法で前方の木を目標に定めながら進んだ。


 霧の中を、慎重に歩く。


 今度は、景色が変わり始めた。


 見たことのない形の倒木。苔の生え方が違う岩。さっきまでなかった小川のせせらぎ。


「進んでる……! 本当にまっすぐ進んでるわ!」


「ドランの目印も、一度も重複してない。円を描いてない証拠だ」


「ケンタさん、前に光が見えます!」


 ドランが指差した前方に、霧の切れ間から明るい光が差し込んでいた。


 三人は足を速めた。


 黒松の林を抜け、霧が晴れ——


 目の前に広がったのは、北部の丘陵地帯だった。


 緑の丘が波のように連なり、遥か遠くに青い海が光っている。海風が霧を吹き払い、澄んだ空気が肺を満たした。


「抜けた! 森を横断した!」


「やったああああ!」


 ライラが歓声を上げ、思わずケンタに抱きついた。


「ちょ、ライラ——」


「あ、ごめん! テンション上がっちゃって!」


 慌てて離れるライラの頬が、少しだけ赤かった。霧のせいだと思いたい。


「ぼ、僕たち、何百年も誰も突破できなかった迷いの森を……横断したんですね……」


「ああ。呪いでも魔法でもなかった。人間の体の癖と、それを補正する仕組みの問題だ」


 ケンタは振り返り、今抜けてきた森を見つめた。


 白い霧が、まるで森全体を抱きしめるように漂っている。不思議で、美しい光景だった。


「帰り道にも目印をつけてきたから、これで往復のルートが確立できた。あとはギルドに報告して、商業組合に道標の設置を提案すれば——」


「交易路が開通する! これ、リューゲの歴史が変わるレベルの大仕事よ!」


「報酬も金貨四十枚だしな」


「お金の話にしないでよ、もう! でも嬉しい!」



   ◇ ◇ ◇



 帰路。


 もときたルートをドランの目印を辿って戻る際、ケンタは森の中をきょろきょろと観察していた。


「どうしたの?」


「この森、よく見ると薬草が豊富だ。それに、黒松の樹脂は防水素材に使えそうだし、苔も染料になりそうなやつがある。交易路が開通したら、森の資源を活用した産業も生まれるかもしれないな」


「さすがバックパッカー。どこに行ってもその土地の可能性を見るのね」


「旅人の習性だよ。どんな場所にも、まだ誰も気づいてない価値がある——って、爺さんが言ってた」


「爺さん、爺さんって。あなたの師匠は本当にすごい人ね」


「ああ……すごい爺さんだった」


 ケンタは少しだけ遠い目をした。


 ……爺さん、あんたもこの世界を歩いたのか。あんたの教えが、こんなところで役に立ってるぜ。


 ライラがそんなケンタの横顔を、少しだけ長い間見つめていた。ドランが前を歩いているのをいいことに。



   ◇ ◇ ◇



 天上界。


 闇の宮殿で、ダクネスは片眉を上げた。


「迷いの森を突破しやがった。あれ、俺も手を加えるか迷ったんだけど、結局何もしなかった森だぜ。自然の環境だけであれだけ人を迷わせる場所を、ロープと目印だけで攻略するか」


「あの森は、ルミナス様が創世時に魔素を濃く設定した地域ですね。コンパスが効かないのはその影響です」


「つまりルミナスの世界設計が、間接的にあの迷いの場を作ったわけだ。あいつの完璧主義の産物を、ロープ一本で攻略するバグ人間。相性が面白すぎる」


 光の宮殿では。


「えー! 迷いの森が突破された!? あそこ、私が世界を作った時に魔素を濃くしたから、絶対に横断できないはずだったのに!」


「リングワンダリング、という人体の現象を知っていたようです。体の左右差が原因で直進できない現象を、物理的な目印とロープで補正しました」


「りんぐわんだりんぐ……人間の体って、そういう仕組みになってるの? 知らなかった」


「ルミナス様は人間をお創りになりましたが、設計の詳細は——」


「忘れたわ! 何万年も前のことだもの!」


「…………」


 セラフは天使としての忍耐を総動員して、沈黙を守った。


「でもーー」


 ルミナスが頬杖をつきながら、ぽつりと呟いた。


「あの子、私が作った世界の仕組みを、私より理解してるわね。なんか……ちょっと嬉しいかも」


「嬉しい、ですか?」


「だって、自分が作ったものの価値を、誰かが深く理解してくれるって、嬉しいことじゃない? ……あれ? 何で私こんなこと言ってるんだろ。ま、いっか。おやつにしよ」


 光の女神の心に、小さな変化が芽生え始めていた。





   ◆ ◆ ◆



【次回予告】


 謎解きから一転、グルメ回が帰ってきた!


 街で噂の絶品食材「天駆鳥テンクドリ」!


 だがこの鳥、異常なほどの警戒心と俊足で絶対に捕まらない!


 しかもダクネスの素早さバフで光速レベルに!?


 次回、『バックパッカー、神々の砂場を往く』第9話——


 『逃げ足の速すぎる鳥と滑車トラップ』


 お楽しみに!

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