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第5話 『痺れキノコと中和の科学』


 リューゲの街での暮らしが板についてきた頃。


 ケンタたちの生活は、少しずつ軌道に乗り始めていた。


 ギルドの仕事をこなしながら日銭を稼ぎ、ドランの工房を拠点に寝泊まりする。決して裕福ではないが、食うに困るほどでもない。バックパッカーとしては、地球のどの国にいた時よりもマシな生活かもしれなかった。


 その朝、ケンタは市場を歩いていた。


 リューゲの朝市は、地球のどの市場にも引けを取らない活気がある。石畳の大通りに色とりどりの天幕が並び、野菜、果物、干し肉、魚介、香辛料、そして名前も知らない異世界食材が山のように積まれている。


 獣耳の八百屋が「今朝採れたてだよ!」と叫び、鱗族の魚屋が銀色に光る不思議な魚を氷の上に並べる。朝露に濡れた青紫色の野菜が木箱から溢れ、香辛料屋の前を通ると、カレーともシナモンとも違う異国の芳香が鼻をくすぐった。


「いいなー、この雰囲気。モロッコのマラケシュを思い出す」


 ケンタが鼻歌まじりに歩いていると、一角に人だかりができていた。


「何だありゃ」


 覗き込むと、一人の老婆が敷物の上に座り、小さなカゴを膝に載せていた。カゴの中には、拳大の傘を広げた白いキノコが五本ほど入っている。


 傘は半透明で、内側にうっすらと紫色の筋が走っている。軸は太く、まるで象牙を思わせる乳白色。そしてそのキノコからは、市場の喧騒を突き抜けるほどの芳香が漂っていた。


 土の匂いとも、木の匂いとも違う。松茸に似ているが、もっと甘く、もっと奥行きのある、森の精髄を凝縮したような香り。


「……なんだ、このすごい匂い」


「あ、あれは……!」


 いつの間にか隣に来ていたライラが、目を見開いた。


「『夢幻茸ムゲンタケ』よ! 幻のキノコ!」


「幻のキノコ?」


「年に一度、双月が重なる夜にだけ生える超希少キノコなの! 旨味が凄まじくて、調理すると出汁だけで極上の料理になるって言われてるわ! でも採れる場所も限られてて、普通は市場に出回らないのよ!」


 ライラの紫色の瞳が、以前の暴れイノシシのステーキの時と同じ——いや、あれ以上の輝きを放っていた。


「値段を聞いてみよう」


 ケンタが老婆に話しかけると、日に焼けた顔に深い皺を刻んだ老婆がゆっくりと答えた。


「一本、金貨三枚だよ」


「金貨三枚!?」


 ドランが悲鳴を上げた。金貨三枚あれば、この街で一ヶ月は暮らせる。ケンタたちの全財産は、銀貨十五枚程度だ。


「ま、まあ……幻のキノコだしね……」


 ライラがしょんぼりと肩を落としかけたその時。


 老婆がケンタの顔をじっと見つめた。


「……あんた、人族にしちゃ面白い顔してるね。旅人かい?」


「ええ、遠い国から来ました」


「ふうん……ま、旅人なら、自分で採りに行くこともできるだろうさ。『霧深谷きりみだに』って場所がある。ここから北西に半日くらい歩いたところだ。谷底の倒木の根元に、まだ数本残ってるかもしれないよ」


「おばあさん、ありがとう!」


「礼はいいよ。ただし気をつけな。あのキノコ、毒抜きを失敗すると舌が痺れて三日は味がわからなくなる。調理は慎重にね」


 ケンタはライラとドランを振り返った。


「行くか?」


「行くに決まってるでしょ!!」


 ライラの即答に、ドランも「ぼ、僕も行きますっ」と追従した。



   ◇ ◇ ◇



 霧深谷は、その名の通り深い霧に包まれた谷だった。


 リューゲの街から北西に半日。青紫色の草原を抜け、苔むした岩場を下ると、まるで綿菓子の中に飛び込んだかのような白い世界が広がった。


 視界は五メートルほど。足元には苔と腐葉土が柔らかく積もり、歩くたびにふかふかと沈む。空気は冷たく湿っていて、吸い込むと肺の奥まで潤った。


「幻想的だな……」


 ケンタが呟くと、ライラが小声で応じた。


「この霧は魔素マナを含んでるの。この環境じゃないと夢幻茸は育たないのよ」


「な、なんか怖いです……お化けが出そう……」


「お化けはいないだろ。たぶん」


 谷底に降りると、巨大な倒木が横たわっていた。苔に覆われた幹は直径二メートルほどもあり、根元は複雑に絡み合って小さな洞窟のようになっている。


 その根元の隙間に、ほのかに光る白い傘が見えた。


「あった!」


 ライラが駆け寄る。霧の中で、夢幻茸の半透明の傘がかすかに青白い発光を放っていた。紫色の筋が、まるで血管のように脈動している。


「きれい……」


「生きてるみたいだな、これ」


 ケンタは慎重にキノコの根元にナイフを入れ、一本ずつ丁寧に採取した。全部で四本。市場で買えば金貨十二枚相当だ。


「よし、これで帰ろう。調理は工房でやろうぜ」


「ええ! 私、夢幻茸の鍋を食べるのが夢だったの! 二百年前に一度だけ食べたことがあるんだけど、あの味が忘れられなくて……」


「二百年前って……スケール違いすぎない?」


 四本のキノコをバックパックに大事にしまい、三人は帰路についた。



   ◇ ◇ ◇



 天上界、光の宮殿。


 ルミナスは水鏡で地上を覗いていた。


「セラフ、あのバグ人間たち、何か変なキノコを採ってきたわ」


「夢幻茸ですね。地上でも稀少な食材です。しかし毒抜きが難しく、失敗すると舌が三日間痺れます」


「え、毒なの? やだ! かわいそう!」


 ルミナスが眉をひそめた。


 この光の女神は、基本的にお人好しだった。自分の領域で暮らす生き物が苦しむのは好まない。見つけたバグ(ケンタ)を排除する気になれないのも、根がお人好しだからだ。


「毒があるなら、浄化してあげればいいじゃない!」


「え……しかし、ルミナス様——」


「『聖浄化ホーリー・ピュリファイ』! はい、終わり! これで毒がなくなったわ! 安心して食べられるわね!」


 ルミナスは得意げに微笑んだ。


 セラフは嫌な予感がしたが、言えなかった。最高神の善意に水を差すのは、天使の領分ではない。


「……よろしいのでしょうか」


「何が? 毒を消してあげたんだもの。感謝されこそすれ、文句を言われる筋合いはないわ! さ、おやつにしましょ!」



   ◇ ◇ ◇



 工房に戻ったケンタたちは、さっそく夢幻茸の調理に取りかかった。


「まず毒抜きだ。おばあさんが言ってたろ、失敗すると舌が痺れるって」


「ええ。毒抜きの方法は古文書に書いてあったわ。水に一晩さらしてから、低温でじっくり加熱するの。それで毒成分が分解されて、旨味だけが残るって」


「なるほど。じゃあまず水にさらそう」


 ケンタが夢幻茸を水盆に入れた瞬間だった。


「……ん?」


 キノコの色が、変わった。


 半透明で青白く光っていた傘が、みるみるうちに灰色になっていく。紫色の筋は消え、あの森の精髄のような芳香も、急速に薄れていった。


「え? ちょっと、何が起きてるの!?」


 ライラが慌てて水盆を覗き込む。


「色が……消えてる……匂いも……」


 一時間後。水からあげた夢幻茸は、ただの灰色の干からびたキノコになっていた。匂いは完全にゼロ。触ると、ぼそぼそと崩れる。


「…………」


 三人が無言で灰色のキノコを見つめた。


「と、とりあえず出汁を取ってみましょう」


 鍋に水を張り、灰色になったキノコを入れて火にかけた。


 ぐつぐつと煮立つ鍋から立ち上る湯気は、無臭。


 味見をした。


「……水だ」


「水ね」


「水ですね……」


 旨味が、完全に消えていた。毒は確かになくなっている。舌は痺れない。だが、味もない。香りもない。ただの灰色の、ぼそぼそした物体になっていた。


「なんで……? 毒抜きの手順は間違ってないはずなのに……」


 ライラが困惑の表情で首を傾げる。


 ケンタは腕を組んで考えた。


「……ライラ。このキノコの毒成分って、どういうものか知ってる?」


「えっと……古文書には『神経を刺激する酸性の毒素』って書いてあったわ」


「酸性……。で、旨味成分は?」


「それは……特殊な苦味と旨味の複合体って書いてあったけど……あ」


 ライラの表情が変わった。


「もしかして、毒と旨味が化学的にくっついてる……?」


「たぶんそうだ。地球のキノコにも似たようなやつがある。フグの毒と似た構造のやつだ。毒成分と旨味成分が同じ化合物の中に共存していて、毒だけを取り除くのが難しい」


「じゃあ、水にさらしたから毒と一緒に旨味も流れちゃった……?」


「いや、それだけじゃない気がする。このキノコ、採取した時よりも劣化が早すぎる。何かが旨味成分を『破壊』してる感じだ」


 ケンタは灰色になったキノコの欠片を手に取り、指で潰した。ぼそり、と粉のように崩れる。


「……聖なる力の匂いがする」


 ライラがぽつりと言った。


「え?」


「微かだけど……このキノコ、聖属性の魔力が残ってる。誰かが浄化の魔法をかけたみたい」


「浄化? 誰が?」


「わからない。でも、浄化の魔法って、対象に含まれる『害のあるもの』を全部消すの。毒もだけど……旨味成分がキノコにとっての生存に必要な物質だったとしたら……浄化がそれを『害のない状態にする』ために中和しちゃったのかも」


 ケンタは天井を見上げた。


「……誰かは知らないけど、善意で余計なことをしてくれたわけか」


 遥か天上で、おやつを食べながらくしゃみをした女神がいたが、ケンタたちがそれを知る由もなかった。



   ◇ ◇ ◇



「さて、どうする。キノコはあと三本ある。浄化の影響を受けてない新鮮なやつを使うしかない」


 残りの三本は、バックパックの中にいたおかげで被害が少なかった。傘はまだ青白い光を保ち、あの芳醇な香りも残っている。


「ただし、毒抜きをしないと食べられない。水にさらすと旨味も一緒に流れる。加熱だけじゃ毒は消えない……」


 ケンタは顎に手を当て、考え込んだ。


「ライラ。もう一回確認。毒成分は酸性なんだよね?」


「ええ。古文書にはそう書いてあったわ」


「旨味成分の性質は?」


「えーと……『アルカリ性の液体では風味が増す』って記述があった気がする」


「やった。それだ」


 ケンタがぱちん、と指を鳴らした。


「酸とアルカリの中和だ」


「ちゅう……わ?」


「理科の基本。酸性の物質にアルカリ性の物質を加えると、化学反応で中和されて無害な塩と水になる。レモン汁(酸性)に重曹(アルカリ性)を入れたらシュワシュワするだろ。あれと同じ原理だ。キノコの酸性の毒をアルカリ性の何かで中和すれば、毒だけを無力化できる可能性がある」


「でも、じゅうそう? なんて異世界にはないわよ?」


「いらない。もっと身近にある。灰だ」


「灰?」


「木灰はアルカリ性なんだ。日本の昔の人は山菜のアク抜きに灰汁を使ってた。灰を水に溶かして濾過すると、アルカリ性の液体ができる。これにキノコを浸ければ、酸性の毒成分だけが中和されて、アルカリ性に強い旨味成分は残る——はずだ」


 ライラの目が大きく見開かれた。


「すごい……! 理屈は通ってる……! でも、濃度を間違えたらキノコ自体がダメになるんじゃ……」


「そこは慎重にやる。灰汁の濃度を薄めから始めて、少しずつ調整する。温度管理も重要だ。酵素と同じで、化学反応は温度で速度が変わるからな」


「温度管理……じゃあ、私の火の魔法で!」


「ああ、ライラの微調整可能な火は最適だ。あと、ドラン。灰を水で溶かして濾す、細かい金属のザルを作れるか?」


「ザルですか……目の細かいの、ですよね。えっと……」


 ドランはしばし考え込んだ後、工具箱から細い金属線を取り出した。


「こ、この金属線を編めば……一時間くらいで作れます」


「頼んだ」



   ◇ ◇ ◇



 一時間後。


 ドランが作った金属ザルは、職人芸の結晶だった。細い金属線が均一に編まれ、まるでシルクの布のように滑らかな網目を持っている。


「すごいな、これ……コーヒーのフィルターより目が細かい」


「は、はい……! こういうの作るのは得意で……」


 ケンタは工房の竈の灰をかき集め、ドラン製の金属ザルで丁寧に濾した。


 灰が水に溶け、微細な粒子がザルで除かれ、透明に近い薄黄色の液体が残った。灰汁あくだ。指先につけて舐めてみると、かすかにぬめりがある。アルカリ性の証拠だ。


「よし。これにキノコを浸す。ライラ、鍋の温度を四十度くらいに保ってくれ」


「四十度って……どのくらい?」


「手を入れて、ちょうどお風呂の温度。熱すぎず、ぬるすぎず」


「了解! ……ケンタ、異世界の単位わかんないこと多いから、そういう感覚的な指示のほうが助かるわ」


 ライラが杖で鍋の下に微弱な炎を灯す。ケンタは灰汁の入った鍋に、夢幻茸を一本だけ入れた。


「まず実験だ。残りの二本は温存しとく」


 キノコが灰汁に浸かると、表面から微かに泡が立ち始めた。


「おっ、反応してる」


「これが、酸性の毒とアルカリ性の灰汁が中和してるってこと?」


「たぶんな。泡は二酸化炭素だろう。酸とアルカリが反応すると、水と塩と、場合によっては二酸化炭素が出る」


 三十分ほど、ケンタは温度と泡の様子を見守り続けた。泡の発生が緩やかになってきたところで、キノコを引き上げる。


 灰色になった最初のキノコとは明らかに違った。傘はまだ半透明の白を保ち、紫色の筋もうっすらと残っている。そして何より——


「匂いが残ってる!」


 ライラが鼻をひくつかせた。


 あの森の精髄を凝縮したような芳香が、むしろ灰汁に漬ける前より洗練された形で漂っている。雑味が抜けて、純粋な旨味の香りだけが残ったような。


「よし、味見してみよう。薄く切って、生で一口——」


「ダ、ダメよ! 毒が残ってたらどうするの!」


「舌先でちょっとだけ。ピリッとしたらすぐ吐き出す」


 ケンタは薄切りにしたキノコの欠片を、舌の先にちょんと載せた。


 三秒。五秒。十秒。


 痺れは——ない。


 代わりに広がったのは、途方もない旨味だった。


 昆布と鰹節とポルチーニ茸を全部合わせたような、奥深い旨味が舌の上で爆発する。最初に甘みがあり、次に微かな苦み、そして長い余韻として旨味がいつまでも残る。


「…………うまい」


「え、本当!? 痺れない!?」


「全然痺れない。これはすごいぞ。とんでもない旨味だ」


「やったあ!! じゃあ残りの二本も同じ処理して! 鍋にするわよ! キノコ鍋!」



   ◇ ◇ ◇



 残りの二本の夢幻茸も同様に灰汁で処理し、毒抜きに成功した。


 次は調理だ。


 ケンタは市場で買ってきた野菜——異世界の白菜に似た「雪葉菜ユキハナ」と、太い根菜「赤牛蒡アカゴボウ」、そしてイノシシ肉の残りを用意した。


「キノコ鍋は、出汁が命だ。夢幻茸の出汁がこれだけ旨いなら、余計な味付けは最小限にしたい」


 大きな鍋に水を張り、夢幻茸を一本丸ごと入れて弱火にかける。


 じわじわと温度が上がるにつれ、鍋から立ち上る湯気が変わった。


 最初は無臭だった蒸気が、やがて薄い黄金色を帯び始める。そしてそこから漂い出す香りは――


「…………なにこれ」


 ライラが、くらっと揺れた。


 工房中に、圧倒的な旨味の香りが満ちていった。


 森の朝露と、焚き火の煙と、古い木樽のウイスキーと、熟成されたチーズを全部足したような——言葉にするのが困難なほど複雑で、それでいて調和のとれた香り。


 鼻で嗅いだだけで唾液が溢れた。


「ドラン、大丈夫か?」


「だ、大丈夫じゃないですっ……! この匂い嗅いでたらもう我慢できないですぅ……!」


 ドランはテーブルに突っ伏して涙を流していた。


 出汁が十分に出たところで、残りの具材を入れていく。


 まず、薄切りにしたイノシシ肉。金太陽果(酵素)で処理してあるので、鍋に入れた瞬間にきれいなピンク色に変わり、柔らかくほぐれていく。


 次に、雪葉菜。白菜より少し厚みのある葉は、出汁を吸って黄金色に染まっていった。シャキシャキとした食感を残す程度に、さっと火を通す。


 赤牛蒡は、皮を剥いて薄く削ぎ切りにした。ゴボウに似た土の香りが、キノコの出汁と絶妙に調和する。


 最後に、残りの夢幻茸を薄切りにして鍋に散らした。


 蓋を取ると、黄金色の出汁の中で具材がゆらゆらと揺れていた。


「完成だ」


 三人は、鍋を囲んで座った。


 椀に出汁を注ぐ。黄金色の液体が、ぽってりとした粘度で椀を満たす。


「まずは出汁だけ飲んでみよう」


 三人が同時に、ずずっ、と出汁をすすった。


 ケンタの口に広がったのは、今まで飲んだどんなスープとも違う味だった。


 最初の一口で、旨味の津波が押し寄せる。舌の表面全体が、もう「おいしい」以外の信号を発さなくなる。喉を通る時に、温かい旨味が胃の底まで染み渡り、体の芯からぽかぽかと温まっていく。


 二口目で気づく。この出汁には何層もの風味が重なっていることに。表面にはキノコの華やかな香り、中層には肉の旨味、底には根菜の土の匂い。それらが喧嘩せず、むしろ互いを引き立て合って、口の中に小さな森を作り出している。


「…………」


 三人とも、無言だった。


 最初に口を開いたのは、ライラだった。


「……っ!! なんっ……なにこれ……!! こんなの……二百年前に食べた時の百倍美味しい……!!」


 紫色の瞳から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれた。


「この出汁……嘘でしょ……人生で一番美味しい……!」


「ぼ、ぼくもう、言葉が出ないですっ……!! 幸せすぎて死にそうですっ……!」


 ドランはもはや号泣しながら椀を空にしていた。


 ケンタも、さすがに黙って頷いた。これは旨い。文句なしに旨い。


 具材を箸で取り上げる。出汁を吸ったイノシシ肉は、金太陽果の酵素処理のおかげで溶けるような柔らかさで、噛んだ瞬間に黄金色の汁がじゅわっと溢れ出す。


 雪葉菜は、シャキッとした食感と葉の甘みがキノコの出汁と合わさって、野菜だけでご馳走になるレベルだった。


 赤牛蒡の薄削ぎは、出汁の風味を閉じ込めた繊維がほろりとほぐれ、大地の力強さを感じさせる。


 そして夢幻茸本体。ぷるん、とした弾力のある食感。噛むと、凝縮された旨味がぶわっと弾ける。ものすごい。


「おかわり!」


「おかわりですっ!」


 ライラとドランが同時に椀を突き出した。


 結局、大鍋いっぱいの夢幻茸のキノコ鍋は、三人で一滴残らず平らげてしまった。


 最後の一滴を飲み干したライラが、幸せそうに目を細めた。


「……ケンタ。あなたのカガクって、本当にすごいわね」


「べつにすごくない。灰がアルカリ性だってことなんか、基礎の基礎だよ」


「中学……あなたの世界の学び舎のことね。そこでは子供がこんな知識を学ぶの?」


「まあね。実生活で役立つかって聞かれると微妙だったけど、異世界じゃめちゃくちゃ役に立つな」


「ケンタさん……」


 ドランが、満腹で眠そうな目をこすりながら言った。


「今日の鍋、忘れられないです。僕、ケンタさんについていって、本当によかった……」


「大げさだな。でも、ありがとう。ドランのザルがなかったら灰汁が作れなかったし、ライラの温度管理があったから毒抜きが成功したんだ。三人だから作れた味だよ」


 ケンタがそう言うと、ライラとドランの顔がほころんだ。


 窓の外では、双月が仲良く並んで夜空を照らしていた。



   ◇ ◇ ◇



 天上界。光の宮殿。


「ルミナス様」


「ん? なにセラフ」


「先ほどルミナス様が浄化なさったキノコですが……浄化の影響で、毒だけでなく旨味成分も完全に消えた模様です」


「え?」


「しかし、例のバグ……もとい、異世界人は、灰から作ったアルカリ性の液体を用いて、浄化されていない別のキノコの毒だけを中和し、旨味を残したまま安全な食材に変換しました」


「…………」


 ルミナスは金色の瞳をぱちくりとまばたきさせた。


「えっと……つまり、私の浄化が裏目に出てて、あの子はそれより上手い方法で毒を抜いた……ってこと?」


「……はい」


「ムキーーー!! 私の浄化より上手くやったってこと!? こっちは最高神の権能よ!? それを灰の汁ごときで超えた!?」


「まあ、原理的には化学的な中和反応でございますので……」


「なにその、かがくてきなちゅうわはんのう! 意味わかんない! 悔しい!!」


 ルミナスはぷくっと頬を膨らませて玉座を蹴った。


 だが、五秒後には。


「……でも、あの鍋、すっごく美味しそうだったわね」


「…………」


「私も食べたいなー。天上界に夢幻茸ないの?」


「ございません」


「えー。ケチ」


 光の女神は、やはりぶれなかった。


 闇の宮殿では。


「カカッ。ルミナスの浄化が仇になる展開、最高だな」


 ダクネスがチェスの駒を弄びながら笑っていた。


「あいつの善意が毎回裏目に出るの、何回見ても飽きない。そして、あのバグ人間がそれを上回るのも最高だ」


「次はどうなさいますか、ダクネス様」


「次? そうだな——次は、もうちょっとスケールの大きい嫌がらせだ。食い物ネタはもういいだろ。もっと直接的に、あいつらを走り回らせてやりたいね」


「お手柔らかにお願いいたします」


「断る」


 闇の少年神は、にたりと笑った。





   ◆ ◆ ◆



【次回予告】


 南部の村を脅かす暴走トロール!


 しかもダクネスの闇の加護で再生速度が異常に速い!


 腕を切り落としても三秒で再生する不死身の巨人を、

 ケンタはどう攻略する?


 鍵は——小麦粉と火花!


 次回、『バックパッカー、神々の砂場を往く』第6話——


 『トロールの自己再生と粉塵爆発』


 お楽しみに!

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