言えないこと
結界が静かに安定したのを確かめてから、
セレストはようやく息を吐いた。
瘴気は、もうほとんど感じられない。
澱んでいた空気は澄み、
肺に吸い込むたび、ひどく冷たく、清らかだった。
……成功した。
不意に嫌な予感が胸を掠め、
セレストは振り返った。
自分のすぐ後ろ。
つい先ほどまで腹部に手を添えていた運び屋が、
岩肌に片膝をつくどころか、
そのまま前のめりに倒れている。
「……そんな……」
血の気が引く。
「大丈夫ですか……!?
しっかりしてください……!」
反応はない。
瞼は閉じられ、意識を失っている。
すぐに治癒の法力を施そうと、
彼の胸元に手を翳した。
淡い光が灯り、
衰えていた呼吸が、少しずつ整っていく。
そのときだった。
袖のずれた腕、
岩に擦れて露わになった首元。
そこに、見覚えのない痣が浮かび上がっているのに、
セレストは気づいた。
「……?」
道中では、確かに無かった痕。
落下の際に打ったにしては、形が不自然だ。
まるで、
内側から滲み出たような色。
黒ずんだような、
古傷の名残のような痕。
――これは……何……?
まるで“前からそこにあったもの”が、
今になって表に出てきたかのようだった。
胸の奥に、
小さな違和感が生まれる。
だが、今はそれを追う余裕はなかった。
「……ごめんなさい……少し、失礼しますね……」
セレストは両手を重ね、
淡い光を掌に宿す。
法力を送りながら、
彼が目を覚ますのを、じっと待った。
セレストは、その場を離れなかった。
再び瘴気が戻らないか、
彼の容態が急変しないか。
そのどちらもが怖くて、
どれほどの時間が経ったのか、
分からない。
やがて、
運び屋の指先が、わずかに動いた。
「……ん……」
微かな声とともに、
重たい瞼が、ゆっくりと持ち上がる。
ぼやけた視界の中で、
最初に映ったのは、
すぐ目の前にある、白い影だった。
「……っ!?」
思わず息を呑む。
目の前には、
覗き込むようにこちらを見るセレストの顔。
距離が、近い。
近すぎる。
「……あ……」
言葉にならない声が漏れる。
「よかった……意識が戻りましたね……」
安堵したように、
セレストは小さく息を吐いた。
その柔らかな声に、
現実へ引き戻される感覚がする。
「……あの……」
状況を理解するより先に、
視線が泳いだ
その拍子に、
ふと気づく。
――息が、楽だ。
さっきまで、喉の奥に絡みついていた重たい気配がない。
肺に入る空気が、驚くほど澄んでいる。
辺りを包んでいた瘴気は、
いつの間にか、ほとんど感じられなくなっていた。
「……瘴気が、ない?……」
思わず、声が弾んだ。
「さっきまで、もっと……こう、
吸うだけで肺が痛くなる感じだったのに……」
洞窟の奥を見やり、
信じられないものを見るように目を見開く。
「すごい……。
聖女様、やったんですか……?」
素直な賛辞が、そのまま零れ落ちた。
セレストは、わずかに目を伏せる。
「……私一人の力、ではありません」
そう答えながらも、
視線が自然と、彼の顔へと向いてしまう。
「……それより……あなたの方こそ……」
そっと彼の額に手を添える。
「急に倒れられたので……とても、驚きました……」
運び屋はきょとんとした表情で瞬きをした。
「……倒れてたんですか?」
自分の身体を見下ろし、
ようやく状況を思い出す。
「……ああ、そういえば……
さっきまで、立って?さっき?……」
言いかけて、首を傾げる。
「……ああ、すいません知らないうちに快方して
いただいていたようで」
セレストは、ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。
視線が、わずかに揺れる。
「……瘴気の中和の際に、
あなたが……少し、巻き込まれてしまって……」
丁寧な言葉遣い。
だが、どこか歯切れが悪い。
「その……倒れられたので、
応急的に治癒の法力を……」
それだけ告げて、
セレストは、わずかに視線を逸らした。
言葉の裏に、
飲み込んだ“何か”がある。
――意識の底で出会った存在。
――ノマエと名乗った、あの穏やかな声。
――彼は知らない。
伝えるべきか。
それとも、伏せるべきか。
この優しい沈黙を、
壊してしまうのではないかという躊躇が、
喉元までせり上がる。
「……」
一瞬、口を開きかけて、
セレストは、また閉じた。
だが、
セレストの胸の奥には、
小さな棘のような迷いが残ったままだった。
――このことを、
告げるべきなのだろうか。
――それとも、
知らぬままの方が、
彼にとって幸せなのだろうか。
答えは、まだ出ない。




