第三話 声を上げて泣けばいい。 2
「何か誤解があるようなので言いますが、俺と市村は只の同僚です――」
なんの迷いもてらいも無い、明るい茶色の瞳が、真っ直ぐ信行さんに向けられている。
そして、微かに口の端を上げ、微笑を浮かべて、榊くんは言葉を続けた。
「今まではね」
――え?
「あなたが彼女とどういう関係だったかなんて、俺には興味ありません。 俺は出会ってから三年間、市村菜々葉という人間を、間近で見てきました。 彼女が、どういう人間かは、俺自身が一番よく知っています」
クスリ、と、何かを思い出したように、楽しげにはっきりとした笑みを浮かべ、榊くんは、静かな、それでいて大きな破壊力を持った爆弾を投下した。
「俺は、市村が、好きです」
――え……?
好きって。
榊くんが、私をっ!?
えええっ!?
なんだか、とんでもないことを聞いた気がして、信じられない思いで、榊くんの顔を見詰めた。
心の奥まで見透かされそうな、真っ直ぐな瞳に視線がつかまり、鼓動が変な風に踊り出す。
「ドジで鈍感で、おっちょこちょいで」
……って、榊くん。
それって、あんまりじゃないの?
「次に、何をやらかすんだろうって、出会ったときから、もう、目が離せなくなって。それ以来ゾッコンなんですよ」
はい?
「悲しいかな、彼女には既に付き合っている男がいたので、良い同僚、良い友人に徹してきましたが、これからは、遠慮しません。全力で、市村を口説きます」
その顔に浮かぶのは、自信に満ち溢れた、不敵な笑みだ。
『それと――』と、彼は、がらりと表情を険しいものに変えて、ゆっくりと信行さんに歩み寄った。その迫力に気圧されたように、信行さんは数歩、後退る。
「今後彼女を侮辱するようなことを一言でも言ったら、俺が赦しません」
「な、何を、訳の分からないことをっ」
グイっと、上背のある榊くんに胸倉を掴まれた信行さんは、顔色をなくして更に後ずさり、
「す、好きにするがいい。俺にはもう関係がない女だ!」
捨て台詞を吐いて、逃げるようにエレベーターに乗り込み、去っていった。
残されたのは、榊くんと、あまりの成り行きに何も言えずに呆然と佇む、私の二人だけ。
「え、と、その。……変なことに巻き込んで、ごめんなさい」
敢えて、さっきのビックリ発言には触れずに、私はぺこりと頭を下げた。
だって、今は、感情の許容量が限界値に達していて、少しの刺激で、決壊しそうなんだもの。
なのに。
「気にするな」
ひどく優しい声で、榊君が言う。
そればかりか、まだ震えている私の背中を、まるで幼子にするみたいに、トントンと撫でる。その大きな手の感触と、不器用さが、心の中に、温かい波紋を描く。
思わず、ポロリ、と頬を熱いものが、零れ落ちた。
トントントン、と、優しいリズムが、背を叩く。
「よく頑張ったな」
もう、ダメだ。
その優しい言葉の威力の前では、もうなんの抵抗も出来ない。
「っ……う」
ポロリ、ポロポロと、後から後からあふれ出る涙が、上気した頬の熱を奪って、滴り落ちていく。
ふいに、頬に、少し冷たい榊くんの長い指先が触れた。
親指の腹で、涙を拭い取り、そっと私を引寄せる。
傷付けないように、守るように、大きな懐に、すっぽりと包まれて。
「ほんと、目が放せないよ、菜々葉は……」
榊くんは、知り合ってから初めて、私の苗字ではなく名前を呼んだ。
それは、とても甘い響きを持って、私の心の奥にふわりと染み入った。
ここまで、お付き合い下さりまして、ありがとうございます。
ここまでは、携帯サイトで先行公開中の短編バージョンで、既に書き上げてあるものを掲載して来ましたが、ここから先は長編バージョン用の書き下ろしになります。そのため、更新が今までよりもスローペースになるかと思います。
のんびり、お付き合いいただけたなら、幸いです。