帝国の外側に築く経済圏
サラは帰国し、同期の派遣民たちと再会した。
集合場所は、タリス王の広い官邸の南庭にあるテラスだった。
派遣民は帰国すると、まず報告書を提出する。その後、こうした意見交換の場を設けられ、各自の取り組みや技法を共有したうえで、報酬を受け取る。持ちきれないほどの荷物があれば、荷馬車で各人の滞在先へ届けられる仕組みになっていた。
互いの経験を持ち寄り、次の仕事に生かすためである。
テラスには、大理石のテーブルと、アンティーク調のアイアンチェア、木製ベンチが配置されていた。頭上には葡萄の蔦が広く張り巡らされ、たわわに実った果実が日差しを受けている。
平時には、タリスの職員たちが私的な歓談に使う場所だった。
テーブルには葡萄酒、パン、チーズが並べられている。
しかし、今日の話題は、いつもの業務報告だけでは終わらなかった。
各地の貨幣事情について情報を交換しているうちに、サラは自分と似た問題に取り組んでいる同期が多いことに気づいた。
彼らもまた、配属先の役場を拠点として物資の備蓄を進め、タリス正貨と軍票を区別して扱うよう指導していた。
軍票は、タリス軍が物資の調達や労働者への支払いに用いる証票である。だが、遠征の拡大と乱発によって、発行元の信用は揺らぎ始めていた。交換を保証する物資がない軍票まで無条件に受け入れれば、いずれ市場の取引そのものが滞る。
そのため、各地では軍票の受け取りを慎重にし、役場が保証できる範囲を明確にする取り組みが始まっていた。
一方、タリス正貨については、貴金属としての価値や遠方との交易における利便性を見極めながら、通常の納税や商取引に利用していた。
正貨への信用が失われつつあるとはいえ、すべてが直ちに無価値になったわけではない。地域や取引相手によって評価は異なり、今のうちに必要な物資へ換えておくべきだと考える者もいれば、当面の取引に備えて一定量を残す者もいた。
彼らの対応は、それぞれの土地の事情に応じていた。
「私の配属先では、役場の倉庫を整備しました。穀物と医薬品の備蓄量を改めて調べ、非常時に住民へ渡せる数量を明確にしています」
一人の派遣民が説明した。
「こちらでは、商人同士の物々交換を記録する仕組みを作っています。現物の取引を禁止するのではなく、誰が何を持ち、何を必要としているのかを把握できるようにするためです」
別の派遣民が続けた。
「私のところでは、特約票の見本を配り、登録した物資と交換契約を結びつける方法を教えています。ただ、まだ実際に他の属州から物資を引き出せるところまでは整っていません」
サラは安堵した。
特約票の仕組みを理解し、各地で準備を始めている仲間がいる。
しかし、全員が同じ段階にいるわけではなかった。
すでに備蓄と交換窓口を整えた地域もあれば、倉庫を確保したばかりの地域もある。登録された物資と交換契約が結びついている場所もあれば、まだ計画段階にとどまっている場所もあった。
特約票を渡しただけで、各地が自動的につながるわけではない。
そのことを、サラは改めて認識した。
それでも、仲間たちが同じ問題に向き合っていることは心強かった。
各地の倉庫を一つにまとめる必要はない。むしろ、物資は分散して保管したほうがよい。重要なのは、どこに何があり、どれだけ提供でき、どの地域と交換契約を結んでいるのかを把握することだった。
やがて、報告は一段落した。
雑談が始まり、葡萄酒の杯が空いていく。
そして、話題はタリスの存続へと移った。
「……長くは持たないだろうな」
一人の派遣民が、杯を置いた。
「属州国の反乱を鎮めるため、遠征軍が各地へ派遣されている。戦費を賄うために正貨の発行量が増え、軍票も乱発されている。その一方で、軍隊は現地調達に頼り、住民との摩擦を起こしている」
「兵舎では、妙な病が流行しているという話もあります」
別の派遣民が声を落とした。
「穀物を見境なく食い荒らすほど理性を失う兵士がいるそうです。そんな状態の兵士が、どうして遠征許可を得られるのか。現場の人間にも分からないらしい」
テラスが静かになった。
タリスは、かつて武力によって諸国を支配してきた。
その軍隊が規律を失い、財政が揺らぎ、属州の反発を力ずくで押さえ込もうとしている。
以前なら想像もできなかった光景だった。
「タリスの倒壊は、免れないかもしれません」
サラが言った。
「本国が崩壊してからでは、準備が間に合わない。私たちが配属先の村を守れても、そこへ流民が集中すれば、食料も住居も足りなくなります」
彼女は鞄から、割り印のついた特約票を取り出した。
「私は、ノアリアの外縁にある流民街の差配人、ハクジャと契約を交わしました」
その名を聞き、何人かが顔を上げた。
「ハクジャ?」
「流民や脱走兵、ならず者を抱えている男だろう?」
「わざわざ、そんな人物と手を組む必要があるのか。各地の倉庫をつなぎ、配属先の住民を守ることには賛成だが、あまりに大きな仕組みにすれば、本国に気づかれる。反逆を疑われ、私たちが真っ先に処刑される可能性もあるぞ」
別の派遣民も頷いた。
「私たちの仕事は、まず自分たちの配属先を守ることだ。特約票を使い、地域ごとの備蓄を整える。それだけでも十分に大変なのに、流民街まで巻き込めば、管理できないほど巨大な網になってしまう」
サラは、すぐには反論しなかった。
彼らの懸念はもっともだった。
各地の倉庫を確認し、物資の数量を照合し、交換契約を結ぶ。それだけでも多大な手間がかかる。さらに流民街の組織まで加われば、扱う人間も物資も増え、管理は一段と難しくなる。
そもそも、ハクジャが信頼できる人物かどうかも、慎重に見極めなければならない。
「――臆病風に吹かれたか」
不意に、低い声が響いた。
全員が声の主へ視線を向けた。
そこにいたのは、ノアリアの経済学者、キロ・サンタニカだった。
サラの帰国を耳にし、真っ先に出迎えてくれた老教授である。彼は以前から派遣民たちに、軍票を無条件に受け入れず、実物資産と貨幣の信用を区別して扱うよう強く勧めてきた人物だった。
キロは、テーブルの上の特約票を一枚手に取った。
「君たちの懸念は分かる。だが、ハクジャという人物を、ただのならず者の頭目と考えるのは早計だ」
彼は割り印を確かめながら続けた。
「タリスが、あの流民街の経済圏を完全には潰していないのはなぜだと思う?」
「取り締まるだけの余裕がないからでは?」
「それもあるだろう。だが、それだけではない。あの市場から物資を調達している者もいれば、商人同士の取引に便宜を受けている者もいる。タリスの政界にも、あの経済圏に利害を持つ者がいるのかもしれん」
キロは特約票を卓上へ戻した。
「脱走兵や流民を受け入れているというだけで、あの場所を蛮族の巣穴と決めつけてはいけない。ハクジャの市場は、国も安定した役所も持たない人々が、自分たちで信用を作り、物資を取引するために築いたものだ」
彼はサラを見た。
「サラ殿は、私の机上の空論を実現し、さらにその先を行っている」
サラは黙って聞いていた。
「実物資産があっても、それを守る盾がなければ、一晩で略奪されて終わる。倉庫に穀物を蓄え、特約票を刷るだけでは、経済圏にはならない。物資を運ぶ者がいて、取引を履行する者がいて、盗難や暴力から市場の秩序を守る者が必要だ」
キロは、ゆっくりと葡萄酒を口にした。
「ハクジャは、そのための力を持っている」
彼は指を折りながら説明した。
「腕の立つ職人を集めることができる。力仕事をこなす者を動かせる。人々の動きを把握し、交易路を確保し、取引の場に規則を設けることもできる。君たちが作った経済圏を、物資の移動だけでなく、人材の移動にも利用できるということだ」
「ですが、ハクジャの市場にも問題はあるのでしょう?」
一人の派遣民が尋ねた。
「当然だ」
キロはあっさりと答えた。
「だからこそ、彼が何をしてきたかを見る必要がある。聞くところによれば、彼は偽造票を流通させる者たちを取り締まり、鑑定と台帳の照合を導入した。交換の裏付けがない紙片を、無条件に信用することをやめさせようとしている」
サラが頷いた。
「実際、私が訪れたときも、交換所では鑑定士が票と台帳を照合していました。裏付けのある物資を確認し、契約条件を満たすものだけを交換する。偽造票を製造・流通させる者を排除したことで、市場も以前より落ち着いています」
「それだけではありません」
彼女は続けた。
「ククルの村が焼かれたとき、ハクジャはルーン殿と住民を受け入れることを決めました。再建に必要な建築資材と食料を用意し、職人たちが再び働ける場所を作ろうとしています」
派遣民たちが顔を見合わせた。
「ククルには、精密部品の製造に長けた技術者がいます。羅針盤や測量器具を作る技術は、流民街の生産にも役立つでしょう。反対に、流民街には人手があり、仕事を求める者がいます。互いに足りないものを補えば、新しい取引が生まれます」
「つまり、流民街を受け入れ先にするだけでなく、生産の拠点としても利用するわけか」
「はい。人々が働き、物を作り、取引を続けられるなら、それは単なる救援ではありません。経済圏そのものの生産力が高まることになります」
キロは満足そうに頷いた。
「その通りだ。経済圏の価値は、貨幣の流通量だけでは測れない。どれだけの人間が、取引を通じて生き延びられるか。それもまた、経済の役割なのだから」
彼は、テーブルに置かれた特約票を指で押さえた。
「ただし、特約票を配れば、それで全土がつながるわけではない。倉庫の物資を確認し、交換できる数量を決め、運搬路を確保し、契約を履行できる相手を登録する。それらを一つずつ積み重ねなければならない」
サラは頷いた。
「そのために、今日、皆さんにお願いがあります」
彼女は一人ひとりに、数十枚ずつ特約票を手渡した。
「これは、各地の倉庫と交換契約を結び、物資を融通するためのものです。実際に使える範囲は、登録された物資と契約の状況によって異なります。まずは自分の配属先で、どれだけの物資があり、何を提供でき、何を必要としているのかを確かめてください」
派遣民たちは、受け取った票の割り印や記号を確かめた。
「タリスが倒壊したら、互いに助け合いましょう。セレニアだけに人を集めるのではなく、各地の倉庫と取引先をつなぎ、流民を受け入れられる場所へ分散させる。誰かが村を失っても、別の土地で働き、暮らしを再建できるようにするのです」
それは、単なる物資交換の提案ではなかった。
タリスの崩壊後も人々が生き延びられるようにするための、広域的な協力の呼びかけだった。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、先ほど反対していた派遣民の一人が口を開いた。
「分かった。まず帰ったら、倉庫の備蓄量を再確認する。報告書に記載した数字だけでなく、実際に引き渡せる量と、運搬できる経路まで調べ直そう」
「こちらも、交換契約が結ばれていない近隣の村と話し合ってみる。どの物資を提供できるのか、何を必要としているのかを整理すれば、つながれる地域が増えるはずだ」
別の派遣民も頷いた。
「偽造票への対策も必要だな。誰が発行したのか、何に裏付けられているのか、どこで交換できるのか。そこを明確にしなければ、特約票そのものへの信用まで失いかねない」
サラは安堵した。
彼らは、ただ大きな構想に賛同したわけではない。
実際に何をしなければならないのかを理解し始めていた。
各地の倉庫を確認し、交換契約を整え、交易路を調べ、人材の受け入れ先を作る。
一つずつ確かめながら、つなげていく。
その繰り返しによって、初めて経済圏は機能する。
キロは、派遣民たちの様子を眺めながら静かに微笑んだ。
「よろしい。君たちが作ろうとしているものは、タリスに取って代わる新しい帝国ではない」
彼は、テーブルの上のパンを一切れ手に取った。
「国が揺らいでも、人々が互いに物資を融通し、働き、暮らしを立て直せる仕組みだ。中央がすべてを支配しなくても、各地が互いを支えることはできる」
そして、残った葡萄酒を飲み干した。
「そのことを忘れなければいい」
その場にいた者たちは、ようやく納得したように頷いた。
やがて、みな帰り支度を始めた。
各自の配属先に戻り、倉庫の確認や交換契約の整備を進めるためである。
サラもまた、帰途につく準備を始めた。
最後にテラスを離れる前、彼女は一度だけ振り返った。
大理石のテーブルには、使い終えた杯とパン屑が残っている。頭上では、葡萄の蔦が風に揺れていた。
タリス王の官邸。
帝国の権威を象徴する場所。
その片隅で、帝国が倒壊した後の人々の暮らしを支える仕組みが、静かに話し合われていた。
教授は一人、その場に残っていた。
帰っていく派遣民たちを見送りながら、キロは小さく呟いた。
「さて……間に合うだろうか」
答える者はいなかった。
ただ、彼の手元には、割り印のついた特約票が一枚残されていた。
その小さな紙片が、まだつながっていない各地の倉庫を結ぶ、最初の一歩になることを願いながら。




