ハクジャ
流民街に、噂が広がっていた。
セレニアには、普通の軍票とは違う札がある。
軍票ではなく、特約票というらしい。
それは、登録された倉庫の物資と交換契約を結びつける証票で、セレニアの役場が扱っていたものだという。
今まで流通していた軍票の中には、交換を保証するものもあれば、発行元の信用に頼るしかないものもある。
そして、両者は見た目が似ていても、同じ価値を持つわけではない。
噂は、半日もしないうちに市場を駆け巡った。
ハクジャは、その話を聞いても慌てなかった。
彼は机の上に積まれた軍票や手形を一枚ずつ手に取り、静かに眺めていた。
彼が作り上げた市場では、軍票や商人同士の手形が、いつの間にか一種の通貨として流通している。
最初は、流民同士の小さな物々交換から始まった。
食料を持つ者が衣服を求め、衣服を持つ者が薬を求める。しかし、互いに欲しいものが一致するとは限らない。
そこで、次の取引に使える証票が重宝されるようになった。
タリス軍が発行した軍票なら、遠征軍の駐屯地で物資の購入に使えることがある。さらに、セレニアでは、かつて役場が軍票十枚を穀物一キログラムと交換していた。
その話が流民たちの間に伝わり、軍票を持っていれば、いつか食料に換えられるかもしれないという期待が生まれた。
期待は信用となり、信用は取引を生んだ。
やがて軍票だけでなく、商人同士が発行する手形も市場を巡るようになった。
しかし、市場が大きくなるにつれて問題が起きた。
タリスの悪徳商人やならず者たちが、似たような紙片を持ち込むようになったのだ。
印刷された文字。
紙の大きさ。
表面の模様。
一見しただけでは、本物と区別がつかない。
そもそも、軍票の発行元が信用を失いつつあるのなら、本物であることと、額面どおりの価値があることは別の問題だった。
ハクジャは、それを承知で市場を拡大してきた。
流民街には、安定した役所も、全取引を監督する公的な制度もない。すべての証票を事前に検査していては、商売そのものが滞ってしまう。
そのため、ハクジャは商人たちの評判や取引履歴を重視していた。
誰が発行したのか。
誰が受け取ってくれるのか。
過去に約束を守ったことがあるのか。
その積み重ねが、市場の信用を支えていた。
ところが、今日。
その信用に、初めて亀裂が入った。
ハクジャは、机の上の紙片を見下ろした。
「……面倒なものを持ち込んでくれたな」
彼の前には、先ほど商人から届けられた、特約票の特徴を描き写した紙片があった。
特殊な割り印。
紙質。
インクの滲み方。
そして、商人には意味のわからない小さな記号。
それらは、今まで流通していた軍票とは明らかに違っていた。
だが、ハクジャが気にしているのは、紙の見た目ではなかった。
「……これは軍票じゃないな」
彼は呟いた。
特約票の割り印が本物だったとしても、それだけで流民街に流通している軍票の価値が保証されるわけではない。
特約票は、特定の倉庫、登録された物資、そして交換契約を結びつけるための証票だ。記載された条件を満たし、台帳と照合できて初めて、物資を受け取る権利が成立する。
どの軍票でも穀物と交換できる、という意味ではなかった。
しかし、それを知らない流民たちは、違う結論にたどり着くだろう。
特約票に本物の割り印がある。
ならば、似た印のついた軍票は信用できるのではないか。
逆に、割り印がない軍票は偽物なのではないか。
もし市場でそんな考えが広がれば、今まで使われていた証票が一斉に拒絶される可能性がある。
商人たちは取引を控え、手元の軍票を物資に換えようとする。物資を持つ者は引き渡しを渋り、市場は一気に機能不全へ陥るだろう。
ハクジャは、紙片を指先で弾いた。
「……なら、先にルールを作ればいい」
本物の印を見分けるだけでは足りない。
誰が発行したのか。
何を裏付けにしているのか。
どこで、誰に対して使えるのか。
その三つを確かめられる仕組みが必要だった。
軍票は軍票として、発行元と信用の程度を明らかにする。
商人の手形は、発行した商人と支払いの約束を記録する。
そして、登録された物資と交換契約を結びつけた特約票は、別の証票として扱う。
それぞれの性質を混同しなければ、無用な取り付け騒ぎを防げるかもしれない。
さらに、その規則を市場の共通ルールとして認めさせることができれば、流民街の取引は一段と安定する。
ハクジャは、そこで初めて顔を上げた。
「この札を持ち込んだ者は?」
「セレニアの者らしいです」
「役人か?」
「本人は何も名乗っていません。ただ……」
「ただ?」
「服装が、妙に新しかったそうです。特約票を見せた後、古着を買っていったとか」
ハクジャは少しだけ笑った。
「探せ」
命令を受けた男が部屋を出ていく。
しばらくして、別の男が戻ってきた。
「見つけました。今も流民街にいます」
「近づくな」
「え?」
「脅す必要はない。こちらから探していると知られれば、逃げるかもしれん」
ハクジャは、特約票の特徴を描いた紙片を懐にしまった。
「向こうから来てもらう」
*
私は、あつらえた古着を羽織った。
粗末な布。
擦り切れた袖。
少し大きめの靴。
鏡を見る。
セレニアで着ていた服とは、まるで違う。
これなら、多少は流民街に溶け込めるだろう。
人の流れに紛れて歩いていると、先ほどの商人とは別の男がこちらを見た。
目が合う。
男は何も言わず、すぐに路地へ消えた。
私は足を止めなかった。
やがて、背後から声がした。
「お嬢さん」
振り返る。
粗末な外套を着た青年が立っていた。
「ハクジャ様から伝言です」
私は黙って青年を見る。
「セレニアから来た方ですね。先ほど市場で、特約票を見せたそうですが」
胸の奥が冷えた。
いつの間に、そこまで調べたのだろう。
青年は続けた。
「ハクジャ様は、その票に興味をお持ちです」
「興味?」
「ええ。あなたが見せた特約票は、普通の軍票とは仕組みが違う。あの割り印が何を保証するのか、そして、どこまで使えるものなのか。詳しくお聞きしたいそうです」
私は目を細めた。
ただの脅しではない。
ハクジャは、特約票を手に入れたいのではなく、その信用を支える仕組みを知りたがっている。
そして、その仕組みを理解すれば、流民街の市場にも応用できると考えているのだろう。
「ハクジャ様は、あなたが何のためにここへ入り込んだのかも聞きたいそうです」
青年はフードを被った。
そして、手招きをする。
「来てもらえますか」
私は周囲を見回した。
逃げることもできる。
だが、それでは意味がない。
私はハクジャに会うために、ここまで来た。
「わかった」
青年の後ろにつく。
路地を曲がる。
さらに細い路地へ入る。
人の声が遠ざかり、代わりに、どこかで金属を叩く音が聞こえてきた。
私は歩きながら考えていた。
ハクジャは、特約票そのものを欲しがっているのではない。
特約票が示すもの――登録された物資と、その物資を引き渡すという契約。そして、それを確かめるための印章や台帳。
そうした仕組みを、自分たちの市場にも取り入れようとしている。
流民街で使われる軍票や手形を、すべてセレニアの役場が保証することはできない。
そもそも、私たちにはそのつもりもなかった。
だが、ハクジャが独自に物資を確保し、発行元や交換条件を明確にし、信用を裏付ける仕組みを作れるなら、話は別だ。
流民街の経済は、単なる噂や期待によって支えられるものではなくなる。
食料や薬を持つ者。
それを管理する倉庫。
交換契約を履行する人間。
そして、その取引を記録する台帳。
それらが結びつけば、流民街にも持続的な信用の仕組みが生まれる。
やがて青年が、一枚の木製の扉の前で立ち止まった。
「ここです」
扉が開く。
暗い部屋の奥に、一人の青年が座っていた。
年は二十代半ばほどだろうか。
周囲には屈強な男たちが控えていたが、彼らの中心にいる青年は、意外なほど静かな佇まいをしていた。
机の上には、軍票が何十枚も並べられている。
その横には、商人の手形や取引記録が積み重ねられていた。
中央には、特約票の特徴を描いた紙片が置かれていた。
青年が顔を上げる。
「ようこそ、セレニアの人」
ハクジャは、穏やかに笑っていた。




