流民街に広がる噂
セレニアに顔を出すと、方々から挨拶された。
中には、まるで神聖な偶像にでも話しかけるように、私に深々と頭を下げる人もいる。
村の入り口では、外国の行商人が干し肉や薬剤を並べていた。
近づくと、行商人は私の顔を見るなり、首を横に振った。
「タリス正貨は受け取らない」
そう言って、別の紙片を指でつまみ上げる。
「これなら受け取る」
軍票だった。
かつてタリス軍が物資の調達や労働者への支払いに用いた証票である。セレニアでは、役場が軍票と穀物の交換を保証することで、貨幣に馴染みのない人々にも取引の手段として受け入れられるようにした。
しかし、あの制度は永続させるつもりではなかった。
私たちは軍票の流通を足がかりにタリス正貨を普及させ、最終的には正貨による取引と現物交易を両立させる道を選んだ。役場による軍票の交換も、いつまでも無制限に続けられるものではない。
ところが今、その軍票がセレニアから遠く離れた場所で、再び取引に使われている。
「どこから来たのですか?」
私は行商人に尋ねた。
「ノアリアの外れさ。あっちの市場じゃ、正貨より軍票を欲しがる連中がいる。妙な話だろう?」
「軍票を、ですか」
「ああ。もっとも、どれでもいいわけじゃないらしい。受け取ってくれる商人もいれば、紙切れだと言って突き返す商人もいる」
行商人は軍票を懐にしまった。
「俺は、受け取った軍票を使える市場があると聞いたから、こうして品を持ってきたんだ」
私は行商人の行路を聞き取り、次にセレニアへ来る際には、どのような証票を持ってくるのか教えてほしいと頼んだ。
そして、その場を離れた。
この話は、すぐに広まるだろう。
行商人の噂は風のように国境を越える。
セレニアでは、軍票による交換制度はすでに終わった、と。
にもかかわらず、軍票を受け入れる商人がいる、と。
その事実は、隣国だけでなく、ノアリアまで伝わるはずだ。
そして、私は気づいた。
必死の思いでセレニアの表立った経済から退場させたはずの軍票が、遠く離れた場所で出回っている。
しかも、単なる古い支払い証票としてではない。
別の価値を与えられ、蘇っている。
セレニアでは、軍票十枚を穀物一キログラムと交換する制度を設けていた。人々が軍票を信用したのは、タリス軍の威光だけが理由ではない。役場へ持ち込めば、実際に穀物と交換できたからだ。
その経験は、制度が終わった後も、人々の記憶に残った。
軍票は、確かな物資に裏付けられていれば使える。
ならば、別の土地でも同じことができるのではないか。
流民たちは、そう考えたのだろう。
彼らには国も、安定した役所もない。タリス正貨を持っていても、受け取ってくれる商人がいなければ意味がない。軍票を手にしても、それがどこで使えるのか分からなければ、やはり意味がない。
だからこそ、彼らは自分たちで信用できる仕組みを探している。
そして、彼らが目をつけたのがセレニアだった。
――セレニアには、穀物がある。
――セレニアには、絹がある。
――そして、かつて軍票と穀物を交換していた役場がある。
そんな連想が、人々の間で独り歩きしているのかもしれない。
だが、私は一つ訂正しなければならない。
セレニアの役場は、今や流通するすべての軍票を保証しているわけではない。交換保証の対象を無制限に広げれば、備蓄が尽きてしまう。
それに、軍票と、私たちが各地の倉庫をつなぐために整備し始めた特約票は、別のものだ。
軍票は、タリス軍が発行する支払いのための証票。
特約票は、登録された倉庫の物資と交換契約を結びつけるための証票である。
特約票そのものが、穀物や薬に変わるわけではない。登録された物資が存在し、契約が有効で、印章と台帳を照合できるからこそ、取引の手段になる。
ところが、流民街では、軍票と特約票の違いが正しく理解されているとは限らない。
紙に価値が宿ると聞けば、紙そのものをありがたがる。
交換できると聞けば、どこへ持っていけば交換できるのかを確かめずに受け取る。
そんな人々がいる一方で、紙の裏側に物資があるかどうかを疑い始めた者もいるはずだった。
私は、その流れを作った人物に興味が湧いた。
ハクジャ。
ノアリア旧市街地の外縁に広がるスラムを根城とする、流民自治組織の差配人。
彼は、流民たちの市場で軍票や手形を扱い、独自の信用網を築いているという。
しかも、単に紙片を流通させているのではないらしい。どこかに物資を蓄え、交換に応じられる範囲を定め、その信用を支える仕組みを作ろうとしている。
もしそうなら、彼は危険な人物であると同時に、今の私たちには必要な人物なのかもしれない。
タリスが倒壊し、正貨が信用を失ったとき。
帝国の兵士や商人、一般の住民が一斉に居場所を失ったとき。
セレニアだけですべてを受け入れることはできない。
だが、ハクジャの共同体に、人と物資を受け入れる仕組みがあるなら。
その交易網を通じて、流民を別の土地へ誘導できるかもしれない。
私は、セレニアの指導をアルマとエンドン、そして二人の愛弟子に託すことにした。
そして、自らハクジャの共同体へ向かうことを決めた。
「セレニアで、私たちは軍票を穀物と交換できるようにした。その仕組みは役割を終えたはずだった」
私は三人に説明した。
「ところが今、その軍票がノアリアの流民街で使われている。ハクジャという男が、独自の信用網を築いているらしい。私は彼の共同体に入り、何を考えているのか確かめてくる」
アルマが目を見開いた。
「待て。あそこは流民とならず者の吹き溜まりだぞ」
珍しく声が大きい。
「正体がばれたら、どうなるかわかったものじゃない」
「わかってる」
私は頷いた。
「でも、セレニアだけを守っていればいいわけじゃない」
私は机の上に、セレニア周辺の地図を広げた。
「もしタリスが倒壊して、タリス人の流民がセレニアへ一気に流れ込んできたら……」
セレニアの食料だけでは、とても支えきれない。
「他の派遣民たちが、約束どおり配属先の役場に交換所や備蓄倉庫を整えてくれていれば、そこへ人を誘導できる。各地の倉庫と取引先がつながっていれば、流民を分散させながら食料や薬を回せる」
私は地図上のいくつかの村を指で辿った。
「でも、もしそれが間に合わなかったら」
セレニアに人が集中する。
食料が足りなくなる。
仕事も住居も足りなくなる。
生きるために奪う者が現れれば、村そのものが暴力に飲み込まれる可能性がある。
「そのとき、ハクジャの持っている人のつながりと、物資を融通する仕組みが役に立つ」
私は地図を見つめた。
「彼らの経済網がすでに流民街に根を張っているなら、私たちはそこへ人を誘導できる。物資を届けることもできる。セレニアだけで何万人も抱え込む必要がなくなる」
エンドンは黙って地図を眺めていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……たしかに、非常口が必要だ」
私は頷いた。
「行ってくる」
*
ハクジャの共同体に、セレニアの身なりのまま入るのは危険だった。
服装が違いすぎる。
セレニアでは粗末な服を着る者も少なくないが、村の経済が安定した今では、流民街の住民とは明らかに生活水準が違う。清潔な衣服や靴だけでも、よそ者だと見抜かれる可能性がある。
私は古着を手に入れるため、流民街の露店へ向かった。
懐には、一枚の特約票を忍ばせていた。
かつてセレニアが一部の大商人との取引に用いたもので、登録した倉庫の物資と契約が結びつけられている。特定の相手との間で使うために発行されたものであり、一般の軍票とは違う。
表にはセレニア側の割り印があり、裏には契約先の登録記号が記されていた。
あれを見れば、古い取引を知る商人ならば、何らかの裏付けがある証票だと気づくだろう。
私は露店の前で足を止めた。
店先には、擦り切れた上着や、穴の開いた靴、色あせた布が並んでいる。
店主は屈強な男だった。客を見る目に油断がない。
私は、できるだけ目立たない古着を一着選んだ。
「これを」
代金を求められ、私は特約票を差し出した。
商人は受け取ると、怪訝そうに裏返した。
指先で紙質を確かめ、印を覗き込む。
「……なんだ、この割り印」
「セレニアの取引で使われていた特約票です」
商人の目が、私の顔へ戻った。
「軍票じゃないのか?」
「違います。登録された倉庫の物資と、交換契約を結びつけるためのものです」
「物資と?」
「ええ。印と登録記録が一致し、契約が有効なら、定められた条件で物資を受け取れます。ただし、どこへ持っていっても使えるわけではありません」
私は説明を続けた。
「これには、どの倉庫の、どの契約に対応するものかが記録されています。紙そのものが価値を持つのではありません。裏付けとなる物資と、交換を認める相手がいるから使えるのです」
商人は、特約票をもう一度裏返した。
「……そんな仕組みがあるのか」
「セレニアでは、軍票を穀物と交換する制度がありました。でも、軍票と特約票は別物です。軍票はタリス軍が発行する支払いの証票。特約票は、登録した物資と契約を結びつける証票です」
「じゃあ、俺たちが使っている軍票は?」
私は、すぐには答えなかった。
商人の手元には、何枚かの軍票があった。紙質も印も、発行された時期によって違うようだった。
「それぞれの軍票が何を裏付けにしているか、確かめたことはありますか?」
商人は黙り込んだ。
「タリス軍が発行したというだけで、すべての軍票が同じ価値を持つとは限りません。発行元の信用が失われれば、受け取る者はいなくなります。交換できる物資がなければ、紙だけが残ります」
「……じゃあ、今まで俺たちが受け取っていたものは?」
「私には分かりません。どこで発行され、誰が受け取り、何と交換する約束になっているのか。それを調べなければ、何とも言えません」
私は、そこで口を閉じた。
商人は特約票を見つめていた。
これは本物だった。
過去に実際に使われた契約の証票であり、記録された物資と交換条件に結びついている。偽造品でもなければ、価値を装っただけの紙切れでもない。
しかし、その一枚が、この市場で使われている軍票すべての価値を保証するわけではなかった。
「この特約票なら、本当に交換できるんだな?」
「記録と契約が有効で、定められた条件を満たしているなら」
私は答えた。
「逆に言えば、確かめる必要があるということです」
商人はしばらく考え込んだ後、特約票を差し出した。
「俺には、これの価値を判断できねえ」
「そうでしょうね」
私は特約票を受け取ると、今度はタリス正貨を支払った。
商人は正貨を手に取ったものの、喜んでいる様子はなかった。
「悪いが、正貨も今は信用できねえ。明日になれば、同じものが買えるとは限らない」
「それなら、物資で受け取ってもらっても構いません」
私は、干し肉と薬剤を指さした。
「この二つを、交換してもらえますか?」
商人は少し迷った後、頷いた。
私は代わりに干し肉と薬剤を受け取り、古着を抱えて店を離れた。
背後では、商人が別の露店主に声をかけていた。
「おい、セレニアの特約票って知ってるか?」
私は振り返らなかった。
噂を広めるために、嘘をつく必要はなかった。
ただ、事実を一つ示せばいい。
同じような紙片でも、その裏側にある保証は同じとは限らない。
その日のうちに、話は流民街へ広がった。
――セレニアには、登録された物資と交換契約を結びつけた特約票がある。
――軍票とは別の仕組みだ。
――軍票を受け取るなら、発行元と交換の裏付けを確かめたほうがいい。
噂は、軍票そのものの価値を高めたのではなかった。
むしろ、人々に疑問を抱かせた。
自分が持っている軍票は、本当に信用できるのか。
その軍票を受け取った相手は、次の取引でも受け取ってくれるのか。
もし誰も受け取らなくなったら、手元に残った紙片はどうなるのか。
彼らは、初めて自分たちの使っている証票の正体を疑い始めた。
だが、その疑念は、流民街の経済をただ壊すだけとは限らなかった。
信用の裏付けを確かめようとする者が増えれば、物資を保有する倉庫や、交換を履行できる相手が必要になる。やがて彼らは、軍票そのものではなく、実際に交換を保証できる仕組みを求めるようになるだろう。
セレニアがかつて築いた制度と、ハクジャが流民街で作ろうとしている信用網。
その二つは、まだ結びついてはいない。
しかし、どちらも紙の向こう側にある物資と、人々の約束によって成り立っている。
その違いに、ハクジャが気づいていないはずはなかった。
私が渡したのは、ただの古い特約票ではない。
流民街で使われている証票の信用を問い直す、ひとつのきっかけだった。
そして、その話がハクジャの耳に届くまで、そう時間はかからなかった。




