神の名の下に
村は静かだった。
静かすぎるほどに。
足音が吸い込まれる。
風の音さえ弱い。
まるで音そのものが拒まれているようだった。
「こちらへどうぞ」
神父が穏やかに歩く。
黒い法衣。
揺れない背中。
エレナはその後ろを歩きながら、村を見回した。
人がいないわけではない。
いる。
だが。
誰も目を合わせない。
全員が同じ方向を見ている。
教会。
「この村は、長く悪魔に苦しめられていました」
神父が歩きながら言う。
「ですが、ある日を境に救われたのです」
ラインハルトが短く問う。
「誰が救った」
神父は少し微笑んだ。
「天使様です」
その言葉に、ミリアが小さく息を呑む。
「天使……」
エレナは眉をひそめた。
「悪魔は」
「現れなくなりました」
即答だった。
あまりにも滑らかに。
作り物のように。
神父は教会の扉に手をかける。
「どうぞ。祈りの場所です」
扉が開く。
中は暗い。
だが。
異様に整っている。
埃ひとつない。
まるで誰かが常に見ているような清潔さだった。
その中央に。
大きな石像があった。
翼を広げた存在。
天使。
だが。
エレナは違和感を覚える。
形が、少しおかしい。
羽が多すぎる。
輪郭が曖昧だ。
「……これは」
ラインハルトが呟く。
神父は静かに答えた。
「この村を救った天使様です」
その声は優しかった。
優しすぎた。
エレナは視線を逸らす。
その瞬間。
肩の上で羽音が鳴った。
ブゥン。
いつもより小さい。
だが。
鋭い。
『触れるな』
エレナの動きが止まる。
珍しい。
ベルゼブブが“命令”に近い言葉を使った。
ミリアが小さく震える。
「……この像、なんか変じゃ……」
神父は微笑んだままだった。
「そうでしょうか?」
一歩。
神父が近づく。
空気が少し重くなる。
「人は救いを求めるとき、形を必要とするのです」
その言葉は正しいように聞こえた。
だからこそ、気持ちが悪い。
ラインハルトが一歩前に出る。
「村の記録を見せてもらえるか」
神父は少しだけ目を細めた。
「もちろんです」
だが。
その笑みは変わらない。
まるで最初から決まっていた反応を見ているようだった。
◇
村の外れ。
古い小屋。
そこに記録は保管されていた。
ミリアが埃のない部屋を見て呟く。
「ここ、本当に使われてるんですか……?」
「ええ」
神父は淡々と答える。
「必要なものだけを残してあります」
ラインハルトが棚を見る。
書類。
日誌。
整然と並んでいる。
だが。
エレナは気づいた。
日付が連続していない。
飛んでいる。
まるで“編集”されているようだった。
「……これ」
エレナが手を伸ばしかけた瞬間。
肩の上。
羽音が止まる。
ブゥン。
『それ以上触れるな』
エレナの指が止まる。
神父が微笑む。
「どうかされましたか?」
エレナはゆっくり手を下ろした。
「……別に」
神父は頷く。
「そうですか」
沈黙。
外で風が鳴る。
なのに。
この部屋だけは揺れない。
ラインハルトが低く言う。
「村人の証言は」
「すべて一致しています」
神父は即答した。
エレナはその瞬間、確信した。
一致しすぎている。
人の記憶は、そんなに綺麗じゃない。
◇
夜。
宿に戻る道。
村は静まり返っていた。
だが。
灯りだけは多い。
どの家も、同じ明るさで光っている。
同じ時間に。
同じ強さで。
「……気味悪いですね」
ミリアが小さく呟く。
ラインハルトは何も言わない。
エレナは空を見上げた。
星が見えない。
その時だった。
肩の上。
羽音が消える。
完全に。
エレナは足を止めた。
「……ベルゼブブ?」
返事はない。
初めてだった。
呼びかけに“応えない”のは。
風が止まる。
村が静かになる。
その瞬間。
神父の声が、背後から響いた。
「どうかされましたか?」
振り向く。
そこにいた神父は。
変わらず笑っていた。
だが。
その目だけが。
一瞬だけ、何も映していなかった。




