第40話 戦と宴
広々とした洞窟の中に、何千もの足音が響いていた。
その足音の主たちは、ほとんどが緑がかった肌を持つ種族だった。
大きく屈強な者もいれば、小柄で素早い者もいる。
中には、巨体で鈍重な者たちもいた。
そう。オーク、ゴブリン、トロル、そしてほかにも洞窟で生きるいくつかの種族たちである。
だが、本来の好戦的で荒々しい気質とは違い、その足取りには不安がにじんでいた。
神経質そうに周囲を見回す者もいれば、つばを飲み込む者もいる。
そして大半は、疲れよりも恐怖で汗を流していた。
「戦王様! 戦王様!」
巨大で筋骨たくましいオーク、モロカルは、追いつこうとしてくる小さなゴブリンを肩越しに振り返った。
「戦王様! この洞窟、あまりにも深すぎます!」
モロカルは、蹴り飛ばしたい衝動をこらえながら鼻を鳴らした。
「そんなこと、俺が気づいてねえとでも思ったのか? 何週間も進み続けてるんだぞ!」
ゴブリンは主の苛立ちに身をすくませたが、それでも恐怖より不安の方が勝っていた。
「で、ですが戦王様……食糧も底をつきかけていますし、軍の中では……この洞窟の先にドワーフの砦なんてなくて……本当は、俺たち冥界へ入り込んでるんじゃないかって……」
モロカルは、怯えきったゴブリンの頭をつかんで持ち上げ、その顔を自分の目の前まで引き寄せた。
「全部がぶっ壊れたあの時を、お前も見ただろうが!」
そう叫ぶと、今度は軍全体へ向き直る。
「みんな見てたはずだ! この洞窟がどこへ続いていようと、行き着く先は俺のものだ! 俺の好きなように支配してやる!」
ゴブリンを放り投げたあと、モロカルは歩みを速めた。
冥界よりも、自分を恐れろ。
そう言わんばかりの視線で、軍を無理やり従わせる。
◇ ◇ ◇
ネレスは、本営の外れに張られた天幕を使っていた。
本隊の中心にある大きな天幕で寝る役目を断ったのだ。出入りするたび、いちいち平伏でもされかねず、落ち着いて歩けたものではなかったからである。
だが今は、その本営の天幕を訪れていた。
もうすぐ死の川を探しに旅立つことを、タエロルへ伝えておきたかったのだ。
移動の疲れはすでに十分取れていたし、セリスもまた、アヴェルが近くにいる時ほど強い調子で、『もう少し骨のある相手』と戦いたいと言っていた。
「本当に行ってしまわれるのですか、ネレジエル様……?」
タエロルが肩を落として尋ねた。
「最後の谷の街に、お屋敷をお建てになってはいかがですかな?」
「それは素敵です!」
サエも胸の前で手を合わせる。
「ネレジエル様もセリス様も、ずっとここで私たちと一緒に暮らせます」
「ありがたいけどな。稼ぎが欲しいなら死の川を見つけないといけないし、払わなきゃならないものもあるんだ」
「稼ぎ……?」
「税金、ですか?」
アルコンテとその孫娘は、ネレスが何を言っているのか分からず顔を見合わせた。
「はは。我ながら変な話だよな。細かいことは気にしなくていい。集めなきゃいけない、ある種の力だと思ってくれ」
(冥界に住むなら、黄昏の館が消えたって別に困らないんだけどな……いや、もし本当にそうなったら、セレネが真っ先に押しかけてきて、『神々の政治のど真ん中にあった重要拠点を失ったじゃない』とか文句を言いそうだ)
「そう……なのですね……」
サエは祖父と並んでしょんぼりした。
「でも、また会えますよね?」
サエとタエロルが声をそろえて尋ねる。
「……ああ。死の川は、もうそれほど遠くない気がする。そこで何をすればいいのかは、まだ自分でもよく分からないけど……たぶん、時々はまた顔を出せるはずだ」
「ですが、ネレジエル様」
タエロルが身を乗り出した。
「どこにお住まいになるにせよ、我らは必ずおそばにおりますぞ。召使いでも兵でも、必要なだけご用意いたします!」
「あ、ああ……その申し出はありがたいよ、タエロル。もし本当に屋敷なんてものを持つことになったら、その時は知らせる」
その時だった。
天幕の入口が勢いよく開き、セリスが嵐のように飛び込んできた。
「あのアヴェル、また野営地の広場いっぱいに果物と木の実と肉を置いてったのよ! あんな貢ぎ物、あいつの腰抜けっぷりを思えば何の足しにもならないってのに!」
セリスは怒りに任せて地面を蹴った。
「それに、自分の森で勝手に死んだ動物をかき集めて、ここへ捨てに来てるのがバレてないと思ってるの!? まるであたしたちを、あいつ専用の動物の墓場にでもするつもりみたいじゃない!」
……
「セリス、それはたぶんアヴェルの本意じゃない」
ネレスは呆れたように言った。
「というか、お前の理不尽な怒りも毎回更新されてる気がするんだが……」
「理不尽ですって!? 動物を寄こすなら、ちゃんと祭壇で捧げなきゃ駄目なのよ! そうすれば、あんただって信仰を受け取れるんだから! ただ死体を投げ込むだけなんて駄目に決まってるでしょ! そんなの常識よ!」
「ヴィシアレたちのことも考えてるんだろ。それに、お前、発酵果実酒は好きだよな? 出発前にもう少し飲めるってことだ」
「んー……それは、ちょっと分かる……」
「ですが、これはこれで困りますな……」
今度はタエロルが考え込むように言った。
「果物の保存も肉の燻製も、もはや手が回っておりませぬ。このままでは、せっかくの贈り物がかなり無駄になってしまいますぞ……」
するとサエが、ぱっと顔を上げた。
「いい考えがあります! ネレジエル様の送別会を開きましょう!」
「おおっ、素晴らしい案ですぞ、サエ!」
タエロルは目を輝かせた。
「これなら加工しきれない食べ物も無駄にならずに済む! さすがは儂の孫じゃ!」
……
「普通に宴を開く、じゃ駄目なのか……?」
ネレスはげんなりした顔になった。
「主賓なんて柄じゃないんだよ。隅で静かに飲む方が性に合ってる」
「何をおっしゃるのです、ネレジエル様!?」
サエとタエロルが声をそろえる。
「あなた様がいなければ宴は始まりません!」
「……」
「宴は好きよ」
セリスが、特に何の役にも立たない一言を添えた。
だが彼女にとっては、自分が宴好きだと知られておくことが大事だった。
◇ ◇ ◇
音楽は、ヴィシアレたちがエリュンデアへ運ばれてきた時に持っていた楽器と、その場しのぎで作られた楽器の両方で奏でられていた。
けれど、踊りと陽気さにそんな違いは関係ない。
酒と食べ物が余るほどあるとなれば、なおさらだ。
もっとも、セリスがいつものように宴を心ゆくまで楽しんでいる一方で、ネレス、サエ、イリーの三人は少し離れたところから、オスヴェルが少し年上の美しい女性に想いを告げる様子を見ていた。
その女性は発酵果実酒の杯を脇へ置くと、そのままオスヴェルの胸へ飛び込んだ。
サエはしばらく目を閉じていた。
だが、再びそれを開いた時、その瞳にはどこか安堵したような明るさがあった。
幼なじみが幸せなら、それを喜べるだけの優しさが彼女にはあった。
イリーは両手を頭の後ろで組んだまま、ただひとつ息を吐く。
頬が少し赤いのは、別に恋のせいではない。
ほとんどは発酵果実酒のせいだった。
セリスは相変わらず食べて飲んでいる。
「まあ、顔が良くて人気者なら、そうもなるか……」
ネレスが顎に手を当てながら、ようやく言った。
「あら、ネレジエル様。今の、少し羨ましそうに聞こえましたけど?」
隣のイリーがいたずらっぽく笑う。
「そりゃな。かわいい彼女が欲しくないやつなんているか?」
「ふふっ。もっと奥手な方だと思っていました、ネレジエル様」
「面倒を避けたいのと、奥手なのは別だ」
イリーはちらりとサエの方を見てから、続きを口にした。
「ネレジエル様。神様って、奥さんを何人も持てるんですか?」
だが、それに答えたのはネレスではなくセリスだった。
しかも、大きな壺一杯分はありそうな発酵果実酒を一気に飲み干したあとである。
「ない方がおかしいでしょ! 永遠の命で相手が一人だけだと、浮気が際限なく増えるって、もう証明されてるじゃない……ひっく……。しかも格上が女神なら、夫の数が多いのはそっちよ……ひっく……あうっ!」
言い終わるや否や、セリスの額にネレスのデコピンが飛んだ。
「いたっ! 何すんのよ!?」
イリーも無事では済まなかった。
「一人はくだらないことを口にした罰だ。もう一人は妙なことを考えた罰」
「別に妙なことじゃないもん……」
イリーは額をさすりながら抗議する。
サエだけは、何が起きたのかよく分からないまま、三人を見つめていた。
◇ ◇ ◇
そこは巨大な地下空間だった。
いくつもの川が流れ、光る植物と紫の結晶の輝きが、幻想的な景色を作り出している。
だが、向かい合う二つの軍勢の兵たちに、その景色を味わう余裕はなかった。
一方にいるのは、モロカル率いる緑の種族たちの連合。
もう一方にいるのは、人間めいた姿をした軍勢だった。
ただし、その中には角を持つ者、翼を持つ者、尾を持つ者、あるいはその二つ以上を併せ持つ者が混じっている。
魔族軍を率いるのは、ドラゼルとドラジラの姉弟だった。
「ドラゼル……こんなことをする必要はないわ。まだ話し合えるはずよ……」
ドラジラが言った。
「聞いただろう、姉さん。侵入者は滅ぼせと命じられた。まさか、こんなに早く見つかるとは思わなかったが……」
ドラゼルの口元に笑みが浮かぶ。
獲物を見つけたとでも言いたげな顔だった。
「止めろと命じられたんだ!」
だが、その言い争いに意味はなかった。
戦の角笛が響いたのは、モロカルの側からだった。




