ブロック16「セットアップ」
コーマの指定の時までまだまだ日があるが、海後はアンガヴァンスペースにアクセスした。
当然、ウィンドウから覗くカチアも一緒だ。
おもちゃ箱をぶちまけてヘドロをかけたような猥雑な蚤の市。
退廃と自由の雰囲気。
「統治されない空間」。
目的はほかでもない。
カチアのもたらしたプログラムを起動することができると海後が考える唯一の人間に接触するためだ。
「スミ姉さん」
「おやおやまあまあ」
その女はバーの中にいた。
うらぶれたような、惨めったらしい有り様を晒しつつ片隅で酒様の酩酊プログラムを煽っている。
「現れたのは正義の味方かな? それともテロリスト? 果たしてなんでしょう」
店の中を嘲笑が支配した。
賢しそうなマスターも、怪しげな客たちも、みな海後のほうを見ている。
あるいは好奇の目で、あるいは侮りの目で。スミが言う。
「ついにアンガヴァンスペースに逃げ込んできたって訳だ。凄腕主役
も堕ちたもんだね」
ははは、と店内が沸いた。海後はなんの反応も示さない。カチアは黙って状況を見つめている。
「ねえ、なにか言いなさいよ。用があったんでしょう? 匿ってくれとか? 願い下げだけどね」
「依頼がある」
瞬間、店内はシンと静まり返った。
スミはじっと次の言葉を待った。
海後は相手が聞く耳を持っている――大方弱気な物言いをするものだろうと思っているのだろうが――のを確認すると、例の件を喋り始める。
「とある違法プログラムを解析して欲しい。あんたならできるはずなんですよ、スミさん」
テーブルがドンと叩かれ、物理演算がその上のコップを揺らした。
「はっ、何を言い出すかと思えば! そんなのごめんだよ! 誰がお前みたいな自己満足の自慰野郎に力を貸すかい! 主役なら主役らしく、フォロワーにでも頼みな!」
「俺にはもうフォロワーはいないようなものです」
「知ってる。キミの凋落はいいニュースだからね。『猟犬』日暮海後、テロ行為か。ねえ、ホント? それ。ホントなら少しはガッツを認めてあげてもいいけど」
「本当よ」
カチアがはじめて口を出した。ウィンドウからの聞きなれぬ公共チャット音声に全員の注目が集まる。
「日暮海後と私、そして今ここにはいない神崎メグリはモーレ・ゲオメトリコ社の犯罪の尻尾をつかんだわ。彼もこの社会を正すため、件の企業を追い詰めたいと言っているわ」
海後は驚いてカチアに個人チャットを開く。
「おい、俺はそんなこと言ってないぞ。フォロワーの回復のためには確かにそれも必要だが、今はコーマに復讐を……」
「少し黙っていて。話を合わせてね」
スミが海後に訊ねる。
「本当なの? 海後ちゃん」
「あ、ああ。そうですよ」
スミはフフっと笑って、
「そう。やっと気づいてくれたんだ。社会の犠牲者をどんなに追ったところで、それは正義の実行体の行為としては不適だって」
海後は答えない。代わりにカチアが、
「そうね。その通りだわ。あなたたちはそれが目的なんでしょう? 管理局、企業連、計算資源貸与会社。そこに一撃を加えることが」
スミは頷く。周りの客たちもその同志らしく、同じようにアバターに賛同の表情を浮かべている。
海後は怯んだ。彼らの視線のまっすぐさに。
自分の正当性を信じて疑わないその眼差しは、今の海後にはとても理解できないものだった。
「海後ちゃん」
スミがこれまでとはうってかわって優しげな声で海後に話しかける。
「あなたと初めて会った時のことを思い出すわ。妹を亡くしたあなたは復讐に燃えていた。管理局を構成する一部の企業に対抗して、アカウント取引の市場をぶち壊そうとしていたわ。でもそれも、アカウント消去を食らうまでのこと。再度ネットに接続するため、自分で同じ悪事に手を染めたのよね。新たなアカウントを買った。どこぞのだれかに泣いてもらって手に入れたアカウント。あなたはその事を恥じたから私たちのもとから去ったのよ。今ならその気持ちがわかるわ。でもね、もういいのよ。罪はこれから償えばいい。これから自由への戦いに身を捧げれば、そういう葛藤も消えていくでしょう」
海後の胸中を複雑な思いが駆け巡った。
そうだ、そうなのだ。
海後はあれほど妹を殺したアカウント売買を憎みながら、自分でそれに手を出したのだ。
そしてその事実を忘れるため、アカウント売買市場を突き崩すというかつての理想をわすれ、犯罪者狩りの世界に身を沈めた。
そしていつしかそれこそが自分の遂行するべき正義だと……。
「気付きの時が来たわね、日暮海後」
カチアが個人チャットで言った。
「そうか、それで俺は、こんな矛盾を抱えていたのか」
自分に言い聞かせるように、海後が言った。スミは、
「いいわ。協力してあげる。その代わり、教えなさい。モーレ・ゲオメトリコ社を殺るための情報を」
取引は順調に進んだ。カチアの違法プログラムの複雑さに、アンガヴァンスペースの誰もが匙を投げる中、
「ああ、こんなもの、私ならなんとかできる」
とスミは言ってのけた。
「五日以内に解読しろ? はっ、無茶言うねえ。それにしてもいったいこれだけのプログラムをどこで手に入れてきたんだい? 何をするためのプログラムかすらまだよくわからないんだけど」
カチアは、
「それは言えないわ」
としか答えなかった。
スミの解読が終わるまでの間、海後はアンガヴァンスペースの中で違法プログラムを買い漁った。
コーマとの決戦に備えるのに、いくらあっても足りないだろう。
そうこうしていると、思いがけない出会いがあった。
「『猟犬』……!」
「兵馬テルー!」
いつぞやの、少年の家のメイドだった。アンガヴァンスペースの仮想の露天市場でであった彼女は敵意も露に海後を睨み付け、
「お前、まだ管理局に突き出されていなかったのですか!」
と言葉を叩きつけた。強烈な視線を受けつつ、海後はとある事実に思い至る。
モーレ・ゲオメトリコ社に告発をしたのはこの女だという事実に。あの時、『魅惑の愛撫』で海後のアカウントの履歴を探っている時に、海後が持っていた情報に行き当たったのだ。
コーマの言っていた女とはテルーのことだったのだ。
(そうだったのか)
自分のしたことの不味さ、メグリへの申し訳無さ、後悔の念に押し潰されそうになる。
それをなんとか意思の力で押し止めて、テルーに相対する。どうする?
かかってくるなら迎え撃つ。そんな心づもりでいると、カチアが、
「止めなさい。兵馬テルー。日暮海後はあなたの主人から受け取ったデータに基づいて今、動き出そうとしているのよ」
海後は驚いてカチアのウィンドウを覗く。カチアは構わず続ける。
「あなたが盗み見たモーレ・ゲオメトリコ社のデータ。あれはアカウント売買という大悪を成すあの会社の唯一の泣き所である計算資源の過剰所持を突くためのものだったの」
テルーは息を飲む。海後は話についていけなかった。
管理局の一部がアカウント売買の温床になっているというのは公然の秘密だが、件の企業がそれに関わっているというのは初耳だった。
カチアがそんな情報を手にしているとは。こいつならハッキングでそれだけの情報を持っている。
「ではこの『猟犬』を告発した私は……」
「主人の意に沿うことをしたわけではなかったわね」
テルーはしゅんと萎れてしまう。
海後は居心地の悪い感覚を得る。
「ねえ」
カチアの呼びかけ。なんとなく、優し気な印象である。
「あなたも参加しない? この戦いに」
テルーは顔を上げる。
「なにを……」
「おい、カチア……」
(――私に任せて。日暮海後。味方は多い方がいいでしょう?)
じっ、と、テルーは海後の肩の上に浮かぶウィンドウを見つめる。
カチアもまたテルーを見つめる。
「ノブミツ様ならきっと、喜んで話にお乗りになられるんでしょうね」
そう言って微笑む彼女だった。
しかしすぐに口がきゅっと結ばれ、勇ましい表情になる。
まったくこのアバターは感心なほど表情演算が豊かだ、と海後は思った。
「いいでしょう、いえ、ぜひやらせてください。微力ながら戦列に加わらせていただきます」




