ブロック15「後悔」
瞳の中で少女が躍った。
知っているような、知らないような顔だった。
黒く染まった世界で、その娘だけが色を持っていた。
ふわり、ふわり、と、花びらが舞うように目の前をゆっくりと走り去っていく。
水の中にいるよりも遅い、スローモーションだった。
思わず手を伸ばし、やはりやめる。
ふと、利き手ではないもう一方の手には銃が握られていることに気付いた。
そちらの手を伸ばす。そして引き金を引き絞る。
狙いは自然と少女に向いていた。
意思に反しているのか、沿っているのかそれすらもわからない。
銃声が響いた。耳をつんざく悲鳴。
その声にだけは聞き覚えがあった。
あの時、妹が自分のアカウントを失ったことに気づいたときの、あの悲鳴。
倒れた女の体まで恐る恐る近づき、見下ろす。
その顔は、メグリのアバターのものだった。
海後はハッと息をのんでベッドから身を起こす。
滝のような汗。不快感の後に感じたのは、薄い後悔だった。
あれから、海後のフォロワーは激減の一途をたどった。
「テロリスト」。
そんなレッテルが日暮海後の名と共に広まっていた。
コーマは『吟遊詩人』のマイナーチェンジ版まで使って、あることないことを拡散し、海後の評判を貶めることに専念しているようだった。
等級を低下させ、発言力を減らし、海後が例の情報を公開するリスクを減らしにかかっているらしい。
ベヒモスにそんなことをされたらかなう道理はない。
俺も終わりかも知れん、と海後は思った。
このまま消えていくもよし、破れかぶれで襲ってくるもよし、コーマはそう考えているのだろう。
強者に敵対された時点でどうしようもないのだった。
「いなくなってしまって寂しい?」
何日もログインしていないある日、することもなく、外を用もなく歩く海後にカチアから連絡が入った。
「馬鹿野郎。裏切り者がいなくなったからって別にどうとも思わん」
「フォロワーがいなくなって寂しいか、と訊いたのよ」
海後は個人用携帯端末(PDF)を握ったまま立ち尽くす。
往来の汚いナリをした人間たちがチラチラと視線をよこした。
高価なものを手にしたまま油断するのは愚かな行為だった。
海後は気を取り直して自分の部屋へと急ぐ。
大きな歩幅を取りながら、会話を続ける。
「……気にしてなどいないからな」
「嘘ね、後悔しているのでしょう」
「お前に何がわかる」
カチアはそれには答えず、終わったわ。とだけ言った。何がだ? と問う海後。
「ハッキングに成功したわ」
「何の話だ?」
「あの人の履歴を得られたってことよ」
海後は言葉を失う。部屋に着いた。
ドアを閉めて鍵をかけた後、それに背中を預けてずるずるとへたりこむ。
海後は怖かった。知ることが。
「こんなログを見つけたわ」
海後の心臓が跳ねる。待て、と言おうとしたが、カチアがそれを送って来るのが早かった。
それは日記だった。ごく普通の日記。
てっきり、モーレ・ゲオメトリコ社への通話記録とか、もしくはそれが一切見当たらないこととか、そういうデータが送られてくるものかと思っていたから、海後は意外だった。
とにかく見なさい、というカチアの言に、個人用携帯端末(PDF)に送られてきたそのログを見る。
他愛もない内容が多い。
普段人の履歴を見なれている身でありながら、見てはいけないものを見ているような気分に支配され、少々後ろ暗い気持ちになる海後だった。
そしてそれは、あった。
その言葉を見たとき、一瞬意味が解らなかった。
だが、それは紛れもなく、彼女の本心からの言葉であると確信できた。
(――今日、海後から打ち明け話をされた。妹さんの話。悲しい、話。未だにあの人はその出来事の呪縛から逃れられないでいる。私が、あの人のささえになれたら、どんなにいいだろう。でも、今のあたしは、あの人にとって絶対必要な人と言うのではない。悲しいな。でも、それでもいいや。海後が妄執から逃れられますように)
「うわああああああああああああああああ」
海後はらしくもなく、取り乱して声を上げてしまう。
部屋の中で、一人。放り出した個人用携帯端末(PDF)はカチアにつながったままだが、彼女は何も言わなかった。
頭を掻きむしって、海後は後悔の吐き気にむせた。
これか。これを見られたくなかったからあの時拒否したのか。
海後は思う。なんといじらしい。そんな気持ちを俺は全く汲み取れなかったのか、と。
どれくらい、玄関にへたり込んでいただろう。
しわを寄せた眉の下で瞳を閉じ、ただただ精神を襲う後悔の苦痛に耐える。
尻の脇に転がった個人用携帯端末(PDF)を取り、握りしめる。
強く。強く。握ったそれが震えた。
海後は画面を見た。
久しぶりに、彼の目の中に意味のある像が結ばれた。相手はあのベヒモスであった。
「やあ、日暮。調子はどうだい?」
「最悪ですよ」
まんまとこの男の思う壺だったというわけだ。
裏切り者などいなかった。ではなぜ情報が漏れた?
今となってはもうどうでもいい。
コーマが話すがまま、海後はボーッと鈍い頭を抱えている。
でんわのむこうのあいてはなにかごちゃごちゃしゃべっている。
「ところで」
その話題転換の言葉の前、何を言っていたか海後はよく思い出せなかった。
君が力を失ったのはよくわかったからもういいが、クライアントは君の抹殺がお望みだ、「例の場所」で雌雄を決しよう。
とかいう内容だったか。
「まあ、君はビビって来ないかもしれないけどね。あ、そうそう。どうしても来たくなる魔法をかけようか?」
海後はなにも言わない。コーマはそれでも笑って、
「データを送るよ。騙されたと思って解析してごらん。じゃあ、一週間後の午前0時にね」
通話が切れた。
海後のアドレスにメールが届いたことを、ポン、という軽い通知音で個人用携帯端末(PDF)が教えてくれる。
内容を見てみると、どうもこれはネット接続用アカウントの履歴データファイルのようだった。
手の中の画面をスクロールして、読み取っていく。
履歴にはどこもおかしな点はないように見えたが、見る者が見ればそこには秘密の、その人間だけにしかわからないしるしが存在していた。
「これは、イサの……」
確かにそれは海後の妹のアカウントだった。「だった」、という物言いに間違いはない。
そのアカウントはある時点から見知らぬ誰かの履歴が記録されるようになっていた。
だが、確かにあの、妹がアカウントを盗まれた時点までは、確かに海後の知る出来事が記録されていた。
忘れもしない、事件が起こるその日に行った、仮想遊園地の思い出。
そして、そこから先、一切見知らぬ誰かの履歴。
その中に、知った名前を見かけた。
高馬初雪。と、婚姻、だと……!?
海後は立ち上がった。そして部屋の中を歩き始める。
どういうことだ、これは、と頭に手を遣って考え込んだ。
つまりだ、妹のアカウントを乗っ取ったどこぞの誰かは最終的にコーマと結婚したということだ。
呼吸が荒くなる。その意味するところは……。
最後にメッセージが添付されていた。
「あの時アカウントをかっぱらってくるように依頼したのは、オレだよ」、と。
「クソッ!!」
個人用携帯端末(PDF)を床にたたきつける。
がたっ、と、乾いた音がした。
ぜえぜえと、精神的高揚が海後の呼吸を激しくする。
すぅーっと冷たい空気を肺に入れ、落ち着こうとする。
このデータを使って告発するのはどうか。
無理だ。電子上の情報は分散型で保存され、改竄は不可能。だからこそ、その信頼は絶対だ。
そして電子の上の情報に沿うように現実世界の情報、DNA情報まで含む……を欺瞞されたらどうしようもない。
アカウント乗っ取りという事象の存在は上位層により、隠ぺいとごまかしのノウハウが構築され、公にすることは不可能だろう。
社会的暴力。それも、絶対の。奴と決着をつけたい。強くそう思った。
奴との会合の場は、例の場所――アンガヴァンスペース――か。
予備の個人用携帯端末(PDF)が鳴った。
深い呼吸で肩の上がったり下がったりするのが治まってから画面を見る。
うるさく持ち主を呼び出すそれには、「カチア」の名が映っていた。
机から取り上げる。
「どうした? カチア。悪いが今は誰とも話したくない。一人にしてくれ」
「日暮海後。あなたのフォロワーが97%減少したわ」
そんなものだろう。海後はそう思った。この時代の感覚ではこうだ。
誰も、テロリストのレッテルを張られた人間をフォローして同類に見られたくはないのだ。
覗くだけならフォローしなくてもできるわけであるし。
フォローは純粋な賛同のあかしなのだ。
「……それにしても、大変だったわね。日暮海後。妹さんのこと。知ってしまったのね。私は以前から掴んでいたけれど、言いあぐねていて。コーマと敵対した今なら言えるかと思っていたのだけれど、先を越されてしまったわね」
コーマの送ってきたデータを盗み見たのか。海後はその機敏なハッキング能力に空恐ろしい気持ちになる。
「お前は何者だ。なぜ妹のアバターをまとって現れた? お前も妹のアカウント乗っ取りに関係しているのか」
「私はあなたの履歴からあなたの妹の情報を再構成したに過ぎないわ。私にとってアバターは至極どうでもいい、いえ、語弊があったわね。いくらでも交換してもいいモノなの。この姿をまとったのはあなただけにわかるメッセージ。あなたに思い出してもらうためよ。妹さんの願いを」
――妹の願い? 何のことだ? 海後は思い出そうとしたがそれに該当する何も思い浮かばない。しかしそんなことはどうでもいい。今は……。
「今はとにかく、奴をどうにかできるだけの体制を整えなきゃな。奴め。のこのこアンガヴァンスペースにやって来るとは。違法プログラム同士の戦いでも勝つ自信があるということか」
「あるでしょうね。彼はあなたがまだ子供のころから第一線で活躍しているべヒモスよ。海千山千。そのくらいの用意はあるはずだわ」
「ではどうする? どうすれば勝てる? 奴に勝ちたい、カチア。お前は妹の因縁とは無関係だが、企業からの追っ手である奴を倒すことはお前の目的にもかなうだろう? 協力してくれ」
数舜、沈黙があって、いいわ、との声が個人用携帯端末(PDF)の超小型スピーカーを通じて海後の耳に聞こえてきた。
「でもそのためにはしなければならないことがあるわ。例の、私の渡した違法プログラムを起動することね」




