第2話 その荷物で全部です
「お嬢様、この夜会用のドレスと、王家から賜った真珠の髪飾りはどうなさいますか? あと、冬用の毛皮のマントも詰めたほうが……」
「エマ、全部置いていってちょうだい」
クローゼットからあふれんばかりの衣装を抱えて右往左往するエマを、私は手招きして制した。
「ですが、公爵令嬢として恥ずかしくない身なりを整えるには、これでも足りないくらいで……」
「恥ずかしがる相手がいないのだから、構わないわ。私たちが向かうのは南の温泉地よ。湯に入って、寝て、美味しいものを食べるだけなのに、コルセットで締め上げるドレスを着てどうするの? 移動用のワンピースが三着と、羽織るものがあれば十分」
「そ、それは……確かにそうですが……」
「それに、王家からの賜り物を持っていくと、後から『横領した』なんて言いがかりをつけられかねないわ。あの人たち、何を言い出すかわからないもの」
机の上に、ユリウス殿下から贈られた高価な細工のブローチや耳飾りを並べていく。
婚約者として贈られた品々。夜会に出るたび、「王家の品位に見合う装いをしろ」「リリアナが羨ましがるからあまり派手にするな」と、殿下の矛盾だらけの注文に合わせて身につけさせられていた、重たいだけの枷だ。
これらもすべて、寮の部屋に残していく目録に書き留める。
ついでに、殿下から毎月送りつけられていた『王妃教育の進捗確認書』や『次回の茶会での心得』といった説教じみた覚書の束も、暖炉の前に積んでおいた。もう二度と開くことはない。
王子の婚約者という肩書きを下ろしただけで、こんなにも持ち物が減るとは思わなかった。
大きなトランク二つに、私とエマの身の回り品がすっきりと収まる。
「旅費は、私の手元にある個人資産の金貨で足りるわね。公爵家の印章もあるから、現地の宿で為替を切れば不自由はしないわ」
筆頭公爵家の一人娘として、自由に使える手元の資金だけで、南の高級宿に滞在するくらい造作もない。
移動も、学園の裏門にある公爵家専用の待機馬車を使わせる。護衛の御者も私付きの気心の知れた者たちだ。無謀な一人旅をするつもりなど最初から毛頭ない。
私は羽ペンを取り、便箋に手早く文字を走らせた。
宛先は、領地にいる父。
内容は極めて簡潔だ。
『本日、放課後のサロンにおいて、全校生徒の前でユリウス殿下より身に覚えのない冤罪を突きつけられ、一方的な婚約破棄を言い渡されました。殿下の名誉を傷つけぬようその場でお申し出を受諾し、学園には退学届を提出いたしました。
これ以上王都に留まりますと、公爵家の名誉を損なう無用な混乱を招くと判断し、以前より予定しておりました南の温泉地にて静養に入ります。後始末および王家との交渉は、お父様の良きようにご判断くださいませ』
公爵家の一人娘が公衆の面前で侮辱され、一方的に破棄を叩きつけられたのだ。父がこの手紙を読んだ時、どんな顔をするかは容易に想像がつく。
父の返事が届き、王家との正式な手続きが完了するまで、私が王都で矢面に立ってやる義理など爪の先ほどもない。
もう一枚、学長宛ての退学届を封筒に入れ、公爵家の蝋で封をした。
「エマ。退学届は学長室の夜間受付ポストへ。お父様への手紙は、一番早い公爵家の早馬便に乗せてちょうだい」
「かしこまりました。今すぐ行ってまいります!」
エマが手紙を胸に抱えて部屋を飛び出していった。
入れ違いに、寮の玄関先で御者たちにトランクを運び出させる。夕暮れの薄暗がりの中、手際よく荷物が積み込まれていくのを見届けていると――
廊下の向こうから、慌ただしい足音が響いてきた。
「セシリア様! ユリウス殿下からの急使が参りました!」
息を切らして現れたのは、寮の管理人の女性だった。
その後ろから、見覚えのある第二王子付きの従僕が、いかにも偉そうな足取りで入ってくる。
「セシリア様。殿下より言付けを預かってまいりました」
従僕は私の部屋の前に積まれたトランクを一瞥し、軽く眉をひそめたものの、大した用件ではないとばかりに胸を張って口を開いた。
「『明日の放課後、大講堂での謝罪に遅れるな。反省の色を見せるため、黒を基調とした地味なドレスで出席するように』――とのことです。くれぐれも殿下の寛大なご温情を無駄になさらぬよう、しかとお伝えいたしました」
……黒を基調とした地味なドレス、ね。
罪人よろしく頭を垂れさせて、憐れみ深く許す自分の姿にどれだけ酔いしれるつもりなのだろう。
私が部屋着のまま無言で立っていると、従僕は慇懃無礼に頭を下げ、返事も待たずに踵を返そうとした。どうせ私が泣き腫らした顔で震えているとでも思っていたのだろう。
「使者の方」
「は? 何でございましょう」
「わざわざご苦労様でした。殿下には『しかと承りました』とお伝えください」
「はあ……。左様でございますか」
従僕は私の平然とした声に拍子抜けした様子で、小首を傾げながら去っていった。
嘘は言っていない。「明日は遅れるな」という言葉を、確かにこの耳で承っただけだ。行くとは一言も言っていない。
程なくして、用事を済ませたエマが小走りで戻ってきた。
「お嬢様! 退学届の投函も、早馬の手配も無事に完了いたしました!」
「ありがとう。では、私たちも行きましょう」
私は部屋の鍵を管理人に預け、一度も振り返ることなく馬車へ乗り込んだ。
夜の帳が下りる中、四頭立ての公爵家の馬車が、音もなく静かに走り出す。
車輪が石畳を叩くリズミカルな振動が、全身に伝わってきた。
窓の外を流れていく王都の夜景。貴族街の豪奢な街灯が、ひとつ、またひとつと遠ざかっていく。
座席の背もたれに深く体を預けると、胸の奥を締め付けていた重石が、跡形もなく消え去っていくのが分かった。
もう、明日の朝早く起きて王妃教育の予習をする必要もない。
殿下の身勝手な気まぐれに付き合って、予定を狂わされて悔し涙を呑むこともない。
泣き虫な留学生の機嫌を窺って、身に覚えのない悪意に耐える必要も、何一つないのだ。
「お嬢様、なんだか……とても晴れやかなお顔をなさっていますね」
向かいの席に座ったエマが、くすくすと笑った。
「そうかしら? 当然よ。ずっと行きたかった旅行ですもの」
私は鞄から、昼間に引っ張り出しておいた旅行案内を広げた。
ランプの柔らかな光に照らされる、美しい湖畔の温泉地。
「ねえ、エマ。ここの宿、名物の朝食がとても美味しそうなの。焼きたてのハーブパンに、絞りたての濃厚な山羊のミルク。それから、蜂蜜をたっぷりかけた焼き林檎」
「まあ! 美味しそうですね!」
「到着するのは明後日の昼過ぎになるけれど、その次の朝にはこれが食べられるわ。夜は露天風呂付きの離れで、星空を見ながら湯に浸かりましょう」
「はい、お嬢様!」
明日の放課後、大講堂に人を集めたユリウス殿下がどんな顔をするのか。
謝るべき相手がすでに王都から消え失せていると知った時、どんな悲鳴が上がるのか。
そんなくだらないことは、明日の朝食のメニューを選ぶことよりも、ずっとずっとどうでもいいことだった。




