第1話 婚約の件、承知いたしました
「明日、皆の前でリリアナに謝れ。嫌なら婚約は破棄だ」
学園のサロンに、ユリウス殿下のよく通る声が響いた。
放課後のサロンには、まだ大勢の生徒が残っている。誰もが息を呑み、壁際に立つ者たちも本を閉じてこちらを凝視していた。
中央の丸テーブルの上には、無残に引き裂かれた初級魔術の教科書。
その隣で、隣国からの留学生であるリリアナ様が、泣き腫らした目で殿下の腕にすがっている。薄桃色の巻き毛を震わせ、まるで嵐に怯える小鳥のような風情だった。
そして私の足元には、口の開いた私物の革鞄。
そこから教科書を引っ張り出したのは、殿下の後ろに控えている側近のトーマス様だ。彼は気まずそうに視線を泳がせながら、まだ破れたページの端を指先でつまんでいた。
「……あの、殿下」
「言い訳は聞かない!」
私が口を開きかけた瞬間、ユリウス殿下は待ってましたとばかりに言葉を被せてきた。青い瞳を怒りに燃やし、正義の執行者そのものの顔で私を見下ろしている。
「リリアナの鞄から教科書を抜き取り、破いて自分の鞄へ隠すなど、公爵令嬢のすることか! 君が彼女を妬んでいるのは知っていたが、ここまで陰湿な真似をするとはな。見損なったぞ、セシリア」
私の鞄から本が出てきたのは事実だ。トーマス様も、それだけは確かに見ただろう。
だが、誰が破いたのか、誰が私の鞄へ滑り込ませたのか。
その場にいた誰も――そして追及している殿下自身も、何一つ見ていない。
なのに殿下は、最初から「私がやった」という結論を用意してここに立っている。
問いただす気など毛頭ない。私の説明を聞く耳も持っていない。
殿下が欲しいのは真実ではなく、庇護欲をそそる可哀想な留学生の前で「傲慢な公爵令嬢を屈服させた正義の婚約者」という栄誉だけだ。
明日、生徒全員の前で頭を下げさせ、屈辱に震える私を見下ろして「反省したなら許してやろう」と慈悲を垂れる。そこまでが、彼の頭の中ですでに完成している筋書きなのだろう。
胃の奥にすとんと冷たいものが落ちていくのを感じた。
怒りすら湧かない。ただただ、呆れるほど乾いた諦念が広がる。
これは、何を言っても無駄なやつだ。
「無実です」「嵌められました」と訴えたところで、「見苦しい言い訳をするな」「証拠は鞄から出ている」と怒鳴られるだけ。
父を呼んで調査をさせれば、その間に「セシリア様が留学生をいじめて揉み消そうとしている」と噂を流され、泥沼の弁明合戦に引きずり込まれる。
何より、殿下は今、もっとも言ってはいけない切り札を切った。
『嫌なら婚約は破棄だ』。
私が公爵令嬢としての誇りや、王妃教育に費やした歳月にしがみつき、泣いてすがりつくと信じ込んでいるからこそ出た言葉。彼にとって婚約破棄は、私を脅して服従させるための都合のいい首輪に過ぎない。
なら――その首輪、いま外させていただきますね。
「セシリア! 聞いているのか! 明日の放課後、大講堂で彼女に詫びろ! さもなくば――」
「婚約の件、承知いたしました」
私は静かに、だがサロンの隅々まで届く明瞭な声で返した。
「……は?」
ユリウス殿下の整った眉が、間抜けに跳ね上がる。
すがりついていたリリアナ様も、涙を浮かべた瞳を丸くして動きを止めた。
私は机の端に残されていた、引き裂かれた教科書の表紙に指を伸ばす。すっと滑らせるようにして、それを殿下とリリアナ様の前に押し戻した。
「婚約破棄のお申し出、謹んでお受けいたします。これ以上、殿下のお手を煩わせることもございません」
「な……っ、何を馬鹿なことを言っている! 私が言っているのは、リリアナに謝れと――」
「失礼いたします」
殿下が腕を伸ばして掴みかかってくるより一瞬早く、私は完璧な角度で淑女の礼を執った。
床に落ちていた鞄の持ち手を拾い上げ、一度も振り返ることなく背を向ける。
「待て! セシリア、話を最後まで聞け!」
背後から怒鳴り声が追いかけてきたが、足を止める理由はない。
サロンの扉を開けると、廊下にいた生徒たちが驚いたように左右へ道をあけた。
殿下は追ってこない。
どうせ、「強がりを言って立ち去ったところで、明日になれば青い顔をして泣きついてくる」と高を括っているのだろう。今まで私が、彼の理不尽な要求や予定変更をすべて受け入れて調整してきたせいで、そう思い込んでいるのだ。
残念ですが、二度と戻りません。
「お、お嬢様……! いまのお話は、本当なのですか……!?」
サロンの外で控えていた侍女のエマが、真っ青な顔で駆け寄ってきた。小柄な体を震わせ、泣き出しそうな目で私を見上げている。
「本当よ。エマ、早歩きで寮に戻るわよ。時間がないわ」
「は、はいっ! ですが、婚約破棄だなんて……旦那様になんとご報告を……!」
「今夜、手紙を書くわ。サロンで殿下が『婚約は破棄だ』と仰ったのを、何十人もの生徒が聞いている。殿下の側近もいたわ。言い逃れはできない状況よ」
歩きながら頭の中で段取りを組み立てる。
父には事の顛末をありのまま手紙で知らせる。公爵家の令嬢に対して公衆の面前で冤罪を突きつけ、婚約破棄を口にしたのだ。いくら第二王子とはいえ、父が黙って頭を下げるはずがない。
そして何より、私自身がもう限界だった。
学園の寮に戻り、自室の重い扉を閉めた瞬間、ようやく深い溜め息がこぼれた。
静かな部屋。誰の視線もない空間。
「エマ。今夜の夜便で、王都を出ます」
「……えっ?」
クローゼットを開けようとしていたエマが、呆然と固まった。
「王都を出るって……どちらへ……?」
「南の温泉地よ。ずっと行きたかったでしょう?」
私は机の引き出しを開け、革の手帳を取り出した。
ページをめくると、今週末の欄には『殿下と庭園でのお茶会』、来週には『殿下の乗馬演習の観覧』と、黒いインクで几帳面に予定が書き込まれている。
本来なら半年前に行くはずだった南への湯治旅行は、殿下の「新しい馬の調教を見に来てほしい」「リリアナが社交界の作法を教わりたがっている」という身勝手なわがままのせいで、二度も三度も延期させられていた。
私は万年筆を抜き、手帳の予定をすべて、太い横線で塗りつぶした。
紙が擦れる鋭い音が、ひどく心地いい。
「荷物は最小限でいいわ。式典用の重いドレスも、宝飾品もいらない。宿で着る薄手の服と、旅費だけで十分よ」
「で、ですが、明日の放課後は……大講堂に生徒を集めると、殿下は仰っていました……!」
「集めればいいじゃない」
引き出しの奥から、学園の『退学届』の用紙を引っ張り出す。
王太子妃になるための特別履修ばかりで組まれたカリキュラムなど、婚約が消滅した今、一秒たりとも受ける価値はない。理由の欄に『一身上の都合』とだけ記し、シルフィード公爵家の印章を押す。
「謝罪するはずの人間が、すでに退学して王都にすら居ない。……舞台だけ整えて、主役のいない茶番を一人でどう演じるのか、せいぜい楽しみにさせてもらうわ」
「お嬢様……ふふ、わかりました。大至急、荷造りをいたしますね!」
エマの表情から怯えが消え、小気味いい手つきでトランクを開け始めた。
私は窓辺に寄り、夕焼けに染まる王都の街並みを見下ろす。
明日、あの馬鹿げた糾弾劇が空振りに終わった時、ユリウス殿下がどんな顔をするのか。リリアナ様がどう言い訳を取り繕うのか。
知ったことではない。
私は棚から、埃をかぶっていた南の温泉地の旅行案内を引っ張り出した。
名物の果実酒に、湯上がりの焼き菓子。
今夜、私はここを出る。




