2. 婚約者との対面
アンドレアの帰還と婚約者との顔合わせ
朝早くに砦を出たアンドレアが二年ぶりに子爵家に戻った時、太陽は真上にあった。
アンドレアは顎に伝う汗を拭うと、厩舎の外で愛馬の首を撫でて旅の疲れを労わった。
「ありがとう、オードリー。ゆっくり休め」
二年ぶりではあるが、馬房はしっかり整えられており不在の年月を感じさせなかった。
馬房には清潔な水とオードリーの好物である果物がたっぷり用意されていた。
オードリーは甘えるように頭をアンドレアの胸に押し付けた後、馬房へ入った。
その尻尾は満足そうにゆったりと左右に揺れていた。
その後ろ姿を見送ると、アンドレアは本邸に足を向けたのだった。
♦♦♦
「あらあらあらあら!お嬢様……ご無事のお帰りで……!」
「ただいま、ばあや。父上はどこに?」
「まぁ、お久しぶりなのに素っ気ないことですね。お部屋にいらっしゃいますよ。汗を流してからになさいますか?」
エントランスホールに足を踏み入れたアンドレアを迎えたのは、息を弾ませた乳母のマリアだった。
汗と埃に汚れたアンドレアを気遣うが、アンドレアは首を振った。
「いや、先に父上に挨拶をしてくる。部屋に戻ったら入浴をしたいから頼む。……それと、ばあやのスープも頼む。夢にまで見ていたんだ」
「お嬢様はお好きでしたものね。さぁ、汗を流したらすぐお食事にできるように準備しますからね。それでは後ほど」
マリアの目に薄っすらと浮かんだ涙を見て、アンドレアの鼻の奥がつんと痛んだ。
一度強く息を吸い込み、アンドレアは帰還の挨拶をするために、父親の執務室に向かった。
分厚い扉の前に立ち、ノックをするとすぐに扉が開かれた。
椅子に座っていたアンドレアの父、ジークフリートはアンドレアの姿を認めると立ち上がった。
今年五十歳になる彼は、アンドレアと同じ漆黒の瞳で久しぶりの娘を見詰めた。
「帰ったか……変わりないか?」
「はい、父上もお変わりなさそうですね」
「おう、皆変わらず元気だ。全員出払っているが、晩餐は共に過ごせるはずだ。お前も休むといい。婚約の話は、明日でもいいだろう」
「ええ、では私は少し休みます」
アンドレアは早く知りたい気持ちもあったが、久しぶりの穏やかな時間にもう少し浸りたいと、父の言葉に頷いた。
部屋で久しぶりにゆっくりと汗を流し、ほっと息を吐いた。
砦での入浴は、時間を決められていたため最低限汗を流すのみだった。慣れていたとはいえ、忙しなかった。
二年ぶりに袖を通したワンピースは、歩く度に裾がふわりと膨らんで、その軽さに心許ない気分になった。
砦では常にトラウザーズを纏い、軍靴を鳴らして歩いていた。
柔らかなワンピースと室内履きに着替えた時、アンドレアはやっと戦場から帰ってきたことを実感したのだった。
安全な場所にいると、さして不安に思っていなかったこれからの事が少し気掛かりだった。
「お嬢様、入ってもよろしいですか?」
足元を気にしていたアンドレアは、ノックの音に顔を上げ、入室の許可を出した。
「入っていいぞ」
「失礼いたします」
湯気の立つスープを載せた木の盆を両手に抱え、マリアがそっと入ってきた。
アンドレアはその香りにそわそわしながらテーブルについた。
その様子を見たマリアは微笑みながら、アンドレアの前にスープとパンを手際よく並べていく。
「ああ、懐かしい香りだ。もう食べてもいいか?」
「お嬢様、ここは砦ではございませんよ。お言葉にはお気を付けくださいませね」
「そうだな。すまんな、ばあや」
「ほらまた」
「……ああ、久しぶりだと違和感があるな。……ありがとう、ばあや。美味しそうね、いただくわ」
野菜がたっぷりと入ったシンプルなスープは、幼い頃からアンドレアの大好物だった。
砦に行って一番辛かったのはこのスープを口にできなかったことだった、とアンドレアはスプーンを動かしながら思っていた。
「この後晩餐もございますからね。少な目にしていますがゆっくりお召し上がりください」
「……ええ、ありがとう」
油断をすると砦にいた頃の言葉遣いになりそうで、アンドレアはゆっくりと返事をした。
婚約者の前では気を付けなければ、とひっそりと心に誓ったのだった。
アンドレアは軽食を済ませた後、少し横になるつもりがすっかり寝入ってしまっていた。
薄暗い中目を凝らすと、枕元にはすぐに食べられる焼き菓子が並べてあった。
体感として、晩餐は終わってしまっていると察せられた。アンドレアの好物ばかりなのはマリアの気遣いだろう。
アンドレアがベッドの上で軽く伸びをするとタイミング良く扉がノックされた。
「レア、起きている?」
扉越しに聞こえる声は、記憶のままの母の声だった。
「起きています、どうぞ」
中から返事をすると、扉が静かに開きアンドレアの母、スマラグダが静かに入ってきた。
二年前と変わらぬ姿にアンドレアはふっと力を抜いて笑顔を見せた。
「起こしてしまったかしら?ごめんなさいね」
「いえ、ちょうど起きたところです。……遅くなりましたが、無事に戻りました」
「ええ、お帰りなさい、ゆっくり休めたかしら?」
「はい、こんなに安心して寝られるのは久しぶりです」
ベッドから起き上がろうとするアンドレアを制し、スマラグダはベッドの端に腰をかけた。
そしてそのままそっと娘の肩を抱き寄せ、丁寧にその髪を撫でた。
母の優しい指先で髪を撫でられると、気恥ずかしさと嬉しさが同時にこみ上げてきた。
「母上、私ももう十八ですよ」
「あら、十六から二年いなかったのですもの、その時間を母に与えてはくれないのかしら?」
もう少し、家族と過ごす時間を持ちたかったと、アンドレアは砦行きを決めた日にそう思っていた。
それを誰にも打ち明けることなく家を出たが、きっと母にはお見通しだったのだと今更気付いた。
それでも何も言わずに送り出してくれた母の柔らかな手に、アンドレアはそっと目を伏せた。
「でも、すぐに嫁ぐことになるのでしょう?」
アンドレアの小さな呟きは、静かな部屋ではっきりとスマラグダの耳に届いた。
アンドレアは昔から物怖じしない、肚が据わった性格だった。
そんなアンドレアが、姉のジョアンナのように不安そうな声を出したことに、スマラグダは胸の奥が痛んだ。
しかし、領主一族として、新たに発見された鉄鉱石の扱いを整える義務がある。
「そうね。……明日また話しましょう。まだ逢ってもいない婚約者のことで悩むなんて貴女らしくないわ。でも貴女はきっと大丈夫よ。何かあったら全員で取り返しに行ってあげるから」
「……それは、伯爵家がなくなるのでは?」
「いやぁねぇ、奥方一人守り切れない、政略の意味も分からない家ならなくてもいいじゃない。……そのくらい、今は気負わずに」
冗談めかして笑う母の柔らかな声に、アンドレアは肩の力を抜いた。
甘えるように体を預ける娘を再度しっかり抱き寄せ、スマラグダは囁いた。
「今はゆっくり眠りなさい。夜に悩むと碌なことはないわよ」
「はい……お休みなさい、母上」
扉を出る母の後ろ姿を見送り、アンドレアは再び目を閉じた。
纏わりついていた少しの不安は、完全になくなっていた。
翌日、顔合わせの日取りを伝えられたアンドレアは、素直に婚約者に会う日が楽しみだと思っていた。
♦♦♦
「初めまして、ホワイトリッジ伯爵家嫡男、レオンハルトと申します。お目にかかれて光栄です」
「初めまして、ブラックリッジ子爵家の次女、アンドレアでございます。お会いできて光栄に存じます」
金色の髪をきっちり整えたレオンハルトは礼儀正しく初めて会う婚約者に挨拶をした。
アンドレアも黒髪を結い上げ、深いグリーンのドレスの裾を持ち上げて礼をした。
レオンハルトの琥珀の瞳とアンドレアの漆黒の瞳が交差し、お互いが真っ直ぐにお互いを見詰め返していた。
レオンハルトはアンドレアの視線の強さに内心驚いていた。
父の伯爵からはアンドレアの大胆な武勇伝を聞いていたが、実際に対面すると小柄な体躯と柔和な顔つきで、父親に担がれたのだと思っていた。
しかし、視線の強さに圧倒されたのはレオンハルトの方だった。
「レオンハルトとお呼びください。アンドレア嬢とお呼びしても?」
「ええ、レオンハルト様とお呼びしますね。お好きなようにお呼びください」
子爵家の執務室で、二人は初めて言葉を交わした。
アンドレアは、砦にいた伯爵の面影を宿している青年に悪い印象は持たなかった。
レオンハルトの手は、遠目から見ても分かるくらいに剣を持つことに馴染んだ印象だった。
努力を欠かさない人間には好感が持てる、とアンドレアはレオンハルトに笑いかけた。
「レオンハルト様、ご一緒にピクニックは如何ですか?」
笑うアンドレアの瞳の奥、獰猛な光をレオンハルトは見逃さなかった。
「ええ是非とも。これからすぐに?」
「ええ、すぐ向かいましょう。荷物は全て揃っておりますのでそのままで」
アンドレアが視線を向けた先は、鬱蒼と繫る林だった。
狩場を兼ねていることはレオンハルトも気付いているだろう。
弓矢も剣も用意がある。
レオンハルトが乗る馬と着替えを用意すればいいだろう、とアンドレアは窓から父に視線を変えた。
アンドレアの視線に、父の子爵は頷いた。
「軽食は後から届けさせよう。先に向かいなさい。交流を深めるのはいいことだ」
「ありがとうございます。では、アンドレア嬢、案内をお願いしても?」
「ええ、参りましょう」
アンドレアはドレスのまま、レオンハルトもジュストコールを脱ぐことなく馬房に向かった。
♦♦♦
「驚きました。ドレスでも馬に乗れるんですね」
「昔から一緒の子ですから。息はピッタリなんです」
猟銃を抱えるレオンハルトと弓矢を担ぐアンドレアは馬を並べていた。
アンドレアを乗せるのは当然オードリーだが、レオンハルトにはオードリーの弟にあたるファルコを選んだ。
レオンハルトはブラックリッジの軍馬に目を輝かせていた。
馬を単なる飾りではなく、敬意を払っている姿にアンドレアは余計にレオンハルトに好感を抱いた。
「アンドレア嬢は、この婚約のことをどこまでご存知ですか?」
「……確か、ブラックリッジの領から鉄鉱石が出たとか。ホワイトリッジ伯爵家は鉄鉱石の採取、加工に長けていますから、その関連でしょうか」
鉄鉱石が出ても加工する術のないブラックリッジでは鉄鉱石を買いたたかれる可能性がある。
鉱夫もいない、採掘の技術もない、解決すべき問題が山積みだった。
それをホワイトリッジ伯爵家と縁を結ぶことで解消したいのだろう、とアンドレアは予想していた。
「そうですね。貴女には別の家との縁談もあったはずです。それはホワイトリッジとはあまり関係の良くない家でしてね。こちらを選んでいただけて助かります」
レオンハルトは敢えて口調を軽くしていたが、声に潜む緊張感は本物だった。
「ただ、父からも聞いていると思いますが、少し柵があるんですよ。貴女が嫁いでくるまでに何とかしようとは思っていますが、根が深い。婚約者である貴女に言うことではないかもしれませんが、貴女は聞きたいかと思いまして」
レオンハルトは真っ直ぐ前に視線を向けていたが、繁みに向けてすっと銃を構えるやいなや引き金を引いた。
「お見事ですね」
「貴女が譲ってくれたお陰ですよ。すぐに弓を引く準備をしていましたが、一呼吸待つおつもりだったのでしょう?」
レオンハルトの台詞にアンドレアはにっこり笑い弓を掲げた。
「私は弓はどうも不得手なので、銃で仕留めていただけて助かりましたよ」
レオンハルトは愉快そうに笑うとファルコから降りて繁みの裏に向かうと、獲物が倒れている様を確認してから短剣で皮を剝ぎ始めた。
アンドレアもオードリーから降りると、レオンハルトに近付いた。
「鹿はお好きですか?」
「……ええ、ステーキでも煮込みでも、干し肉は砦ではよくいただきました」
「それはいい。今日の記念に背中の肉で干し肉を作りましょうか」
「背中は大好物の部位なんです。有難くちょうだいします」
捌かれていく様子を顔色も変えずに見るアンドレアと、服が汚れるのも構わず手際よく作業を進めるレオンハルトは暫く口を開かなかった。
アンドレアは暫く命が流れ出る光景を見つめていたが、息を少し吐き出してから静かに口を開いた。
「柵があると、仰いましたね。何故、切り捨てないのですか?」
「――そう、切り捨てられれば簡単なんですよ。ただ、血と記憶の柵とでも言いましょうか。……血縁の柵はままならないものです」
「そんなものですか……」
血縁の縛りがここまで根深いか、とアンドレアは溜息を呑み込んだ。
「月に一度、お伺いします。こうして、会話をさせてください。貴女が安心して嫁いで来られるように、言える範囲で、貴女が知りたいことをお話させてください」
獲物を切り分けていく横顔に陰が射すが、アンドレアは素直に頷いた。
「……わかりました。私も、貴方の婚約者として覚悟を決めようと思います」
「まだまだ、お互い知らないことばかりです。政略ではありますが、誠意をもってお迎えしたいと思っています」
誠実な人柄なのだろうと、とアンドレアは己の婚約者を観察していた。
代々騎士の家系で、それを誇りにしていることは砦にいた伯爵を見ていて何となく察していた。
口調を崩しても、泥臭い場所にいても、彼の戦い方はいつもお手本のように綺麗だったのだから。
その誇りを貫こうと雁字搦めになっているようだと、ジークフリートとスマラグダなら言うだろうか。
「……次は、雉でも狙いましょうか。来月なら美味しくなっている時期でしょうから」
アンドレアが呟くと、レオンハルトは微かに笑った。
「雉を捌いたことがないので、練習してきますね」
それきり、また二人は黙り込んだ。
それは嫌な沈黙ではなく、これからの未来に向けて微かな緊張を孕んでいるものだった。
けれど、停滞している伯爵家の何かが変わる予感を、レオンハルトは確かに胸に抱いていた。
続
タイトルに向けて進んでいきまーす。伯爵家軟弱問題。
オードリー 8歳
ファルコ 7歳
父系統が同じ。




