1.戦場紳士の愚痴を聞く
第一話
馬上のアンドレアは剣についた汚れを無造作に服の裾で拭うと、息を吐いて剣を鞘に収めた。
頬に返り血が伝う感触に舌打ちをすると、手の甲で乱暴に拭い去った。
乾いた土地の風が砂埃を舞い上げ視界を白く霞ませているが、彼女の手にこびりついている鉄臭く赤黒い色は鮮明に浮かび上がっていた。
「……帰ろう、オードリー」
愛馬に声を掛けて、アンドレアは手綱を操った。
今日は特に疲れた、と早く腹を満たして横になりたい欲求だけが頭の中を占めていた。
国境付近にあるその砦では、異民族との小競り合いが毎日のように続いている。
大きな衝突こそ頻繁にはないが、物資が届く日は異民族もそれを狙って激しい戦いを仕掛けてくることが常だった。終わりの見えない戦いは砦の人々に重い閉塞感を纏わせていた。
十六歳で砦に来てから二年が経ち、アンドレアは目覚ましい活躍を見せていた。
愛馬に跨り単騎で敵陣に突っ込んで敵将を討ち取った時は、敵も味方もその豪胆さに驚いたものだった。
「アンドレア様、お帰りなさいませ!お手紙です」
「ああ、ありがとう。手間をかけたな」
砦に着いてから厩舎にオードリーを預け、部屋に戻る途中で手紙を受け取った。
部屋に着いてから手紙を開いたアンドレアは、内容に目を通すと汚れた手のまま髪をぐしゃりと掴んだ。
『婚約者が決まったから戻ってこい』と冒頭に結論が書かれた文字は懐かしい父の筆跡だった。
『ブラックリッジの領地で鉄鉱石が見つかった。故に早急にホワイトリッジ伯爵家と縁を結ぶ。詳しくは帰ってから説明する』
婚約者が決まった理由も書いてあり、急なことだ、と手紙を無造作に畳んだアンドレアは憂鬱になった。
腰に手をやると既に体の一部になっている剣の存在がある。
「もう少しここにいるつもりだったんだが……」
この砦から北に少し離れた山間の長閑な土地は、ブラックリッジ子爵家が治める軍馬の名産地だった。
子爵家の人々は鍛錬を好み、質実剛健という言葉がよく似合う。性別を問わず、希望した者は十六歳を迎える頃に砦で数年を過ごすのが常である。
アンドレアはそんな家に生まれた次女だった。
姉のジョアンナはブラックリッジとしては珍しく、物静かな性格だった。
そのため、周囲からはアンドレアが姉の分までブラックリッジの性を吸い取ってきたのだと揶揄されていた。
事実、アンドレアは豊かな黒髪を後ろで無造作に括り、小柄な体躯からは想像できない力で剣を振るい、大柄な漆黒の愛馬に跨って戦場を駆けていた。
アンドレアは自らの出自を隠すこともなかったが、わざわざ口にすることもなかった。しかし彼女に用意された部屋は歴代のブラックリッジ子爵家出身の者がよく使う部屋だったため、彼女の身分は広く知れ渡っていた。
アンドレアが砦に来た理由は至って単純だった。『実力を試したい』それだけだった。
幼い頃から剣を学び、手ずからオードリーの世話をしていた彼女は、自分自身の力で国を守る戦士になりたかった。
例え閉塞感があったとしても、己の実力が国を守ることに直結するこの場所がアンドレアにとっては居心地の良い場所だった。
未練がないと言えば嘘になるが、家長の命令がある以上はそれに従うしかない。
少ない荷物を全て纏め、帰る準備を終えたアンドレアは砦で最後の食事をしているところだった。
一人で座るアンドレアはパサついたパンと大麦を煮た薄いスープ、硬く塩辛い干し肉を黙々と口に運んでいた。
「おう、お嬢、今日が最後なんだって?」
「何だ爺さん、今日も生き延びてよかったな」
アンドレアをお嬢と呼んだ壮年の傭兵は、カラカラ笑うとアンドレアの前に腰を下ろした。
砦に来てすぐ、実力はあるが実戦経験の乏しいアンドレアを心配して何くれとなく世話を焼いてくれたのは彼だった。
アンドレアが父親より若い彼の本当の年齢を知った時、彼女は彼の見た目と実年齢の差に驚いた。
戦場で苦労が刻まれた深い皺は彼を実年齢よりも年上に見せていた。
彼の飄々とした雰囲気は砦には不釣り合いだったが、アンドレアはその雰囲気を好ましく思っていた。
葦毛の馬に乗る彼の家名をアンドレアは知らなかったが、そこそこの剣の腕とわざと無骨に振る舞っているような違和感から、貴族出身だと予想をしていた。
周りは知っていたかもしれないが、アンドレアは戦場では自らの耳で聞いたことしか信用しないと決めていた。
「お互いよく生き延びたもんだなぁ」
「当たり前だ。こんな所でくたばるような訓練はしてきていない。爺さんも元気でな」
アンドレアは胸を張って答え、傭兵は愉快そうに笑った。
「明日早々にここを去るお前さんに愚痴を言ってもいいか?」
「勝手に言え。気の利いた返答はできんがな」
彼は味の薄いスープを口にすると深く息を吐き出した。
「俺ぁ実は貴族なんだよ。なぁ、当主と家臣の距離が近いのはいいことだと思うか?」
「何だ爺さん、最高の軍馬に乗っているのに貴族だと隠せていると思っていたのか? ――そうだな、距離が近いのはいいことかもしれんが、馴れ合いになったら切り捨てるべきだと私は思うがな」
「何だ、知っていたか。そうだよなぁ……」
「当たり前だ。どんなに遠目でもブラックリッジの馬は瞬時に判断できる」
誇らしげに言うアンドレアから視線を外し、パサついた味気のないパンを一口食べた彼は薄いエールで無理やり腹に流しこんだ。
「初代とな、同じ戦場で戦った親戚どもがいる。その一族郎党、使用人として代々雇っているんだ。だがなぁ、表面的には職務を全うしてるが内実は腐りきってやがる。――懲罰を与えようもんなら血縁と何十年も前の戦果を盾に怒鳴り込んでくる。女房と協力して、何とか数は減らしてきたが……」
彼の顔には隠し切れない諦念と疲れが滲んでいた。
「尻尾を出さない狡猾な家がまだ二、三残ってやがる。息子はまだ若いが、俺よりよっぽど当主に向いてる。もうすぐ当主の座を譲るからな、早く綺麗にしてやりてえんだ。どうしたもんかな」
アンドレアは呆れたように彼を見た。
「くだらんな。そいつ等の家ごと潰してしまえよ。害しかないんだろ?」
「簡単に言うがな、お嬢。血縁と時間てぇのは、柵があるんだよ。やっと血縁関係のない使用人を雇い入れるとな、狡猾な奴らはわざと小さなミスをする。クビにもできねぇくらいのな。そんで大袈裟に謝るんだ。『長年仕えてきた功績を汚す行いでしょうか』ってな。……新しい使用人は長年仕えている血縁をこんな些細なことで切り捨てる当主に忠誠を誓えるか?」
アンドレアは少し考えて首を振った。
「誓わんだろうな。……ああ、それで爺さんは敢えてここで傭兵をやっているのか。当主がいなければ本質が出る。当主は頻繁に不在である必要があった、といったところか」
「……俺ぁとことん当主には向かねぇんだ。女房に全権を持たせて、信頼できる家政婦長と執事長に指示をして、ひっそり帰っては処罰して柵を減らして、まぁ、全部小手先だ。今残っている奴らは血が近い分柵が深いんだ。情に絆された親父に言われて、残しちまった重たい荷物だ」
空になった木のゴブレットを握り締め、彼はアンドレアを真っ直ぐ見詰めた。
「俺も明日ここを立つ。綺麗にして渡してやりたい気持ちは本当だ。――ブラックリッジ子爵令嬢。貴女の婚約者は、――俺の息子のレオンハルトだ」
アンドレアは何も言わずに彼を見詰め返した。
貴族の当主である彼が、何の関係もないアンドレアに弱点ともなる内情を語った理由を彼女は察していた。
「半年後、当主の座を息子に譲るまで俺に出来得る限りのことはやるつもりだ。どこまで片付けられるか分からんが……。レオンハルトは、俺から見ても筋の通ったいい男だ。引継ぎはほぼ終わっているが、年齢が若すぎる。……うちの柵に巻き込んでしまう、申し訳ない」
彼は時折いなくなっては戦場にいる時よりも疲れた顔をして戻ってきていた。
先ほどまでの話から察するに、夜中にホワイトリッジ領に戻り、『処分』をして戻っていたのだろう。
当主としては失格かもしれないが、アンドレアは彼の柵の深さも責務の重さも実感していないため、その謝罪をどう受け取るべきか迷った。
「……気にするな。もし、ホワイトリッジ伯爵令息が軟弱な男なら婚約は願い下げだ。だが、詫びの代わりに私がその柵を全て切り捨ててやろう。柵がなくなれば、新しい婚約者もすぐ見つかるだろ?」
アンドレアは彼の返事を待たず席を立った。
「――しかし、爺さんがいい男だと言うのなら私も安心して嫁げると思うがな。よろしく頼む、義父上」
アンドレアはからかうように笑って言うと、彼に背を向けて歩き出した。
「お嬢には、柵もねぇもんなぁ……」
彼はアンドレアのその自由さを羨ましいと思ったが、己が解決すべき問題を、次代に繋ぐ責任として全うするため、明日から取り掛かることを思い浮かべていた。
翌日、明け方に砦から二人分の影が離れていった。
漆黒の馬に跨るアンドレアは髪を解き、軽やかな雰囲気で北に向かった。
そして、葦毛の馬に跨るホワイトリッジ伯爵は、覚悟を決めた面持ちで東へと向かったのだった。
続
当主がずっと戦場いるっておかしい家じゃん、って突っ込みは自分でいれました、大丈夫です。
傍から見ていて、何故突っぱねないのかな、と思うケースは多々ありますが、それが人間関係の柵なんでしょうね。
アンドレアはさくっと闇討ちしそうですが、減らした方法は伯爵家の場面で書く予定です。予定です(二回目)
因みに爺さん(伯爵)の馬はエクウス君。名付けたのは爺さん。




