第37話 夜の屋上で
魔王城の周辺は、闇の精霊が守護する地域だ。地水火風、全ての精霊の気配を感じることは出来るが、彼らが活性化することはない。夜の闇に包まれて、静かに眠っているような状態。それを生み出しているのが静かに漂う闇の精霊たちで、だからこそ、この地は一日のほとんどが夜の闇に包まれている。
その屋上に立ち、天を見上げる。思えばおよそ一ヵ月前、セラスがここで魔力を暴走させたことが始まりだった。薄暗い空は、そのときとほとんど変わらない。
ただ、自分は確かに変わった――エザフォスと並んで立ちながら、セラスは思う。
「ねえ、パパ」
「……どうした?」
「うん……世界、ってさ。すごく、広かったんだなって思って」
エザフォスは静かな眼差しをセラスに向ける。きっと、今までならばそんな父を見て「もっとちゃんと話してよ」と文句を言っていただろう。何を考えているのかわからないよ、言葉で話すのをサボらないでよ、と。けれど、父の過去を知って、その気持ちは少し変わった。
産まれてすぐに石室に閉じ込められて、まともに会話をしていたのは恐らくラティオとリーリエ、数百年の時間を経て、トゥルマリナが加わったけれど、そこまでだ。たった三人。きっとエザフォスが言葉に詰まって困っても、彼の考えていることを汲み取って会話は続いていたのだろう。
セラスには、そこまで父を理解できていなかった。今もきっと、全てがわかるわけではない。それでも、エザフォスが伝えることを諦めているとは思わなくなった。
静かに、ゆったりと、時間が流れる。沈黙は、重くなかった。セラスがエザフォスを見上げると、彼は口元を緩めていた。
「何を見た?」
「んー……なんか、たくさん。魔王様信仰なんていうのもあったし、人間のことを助けたのに、怖がって逃げられたりもしたし……逆に、全然怖がらない人間もいた。魔族も、そう。私が魔王の娘だって知ったら睨まれたこともあったし、気にしない人もいたし」
出会った人たちの顔を思い出し、セラスは笑う。共通していたのは、彼らがセラスを知らなかったということだ。初めて出会ったはずなのに、魔王の娘だとか魔族だとか、それだけで判断されていた。
「私、魔王城って広いと思ってたの。こんな広い場所にたった五人で住んでて、贅沢だなあ、とか。でも世界はもっと広かったし――知らないものが、いっぱいだった」
地の精霊がいなくなった鉱山、豊かな水と自然に囲まれた水の都、火山のそばで暑かった温泉の土地、そして、鬱蒼と生い茂る森の奥で風に包まれた静かな遺跡。セラスが見た世界は、人と魔族と精霊がそれぞれ影響しあって生活しているように見えた。
「パパは、あんなに広い世界を全部見てるの?」
魔王として世界に目を光らせて、人間や魔族が暴走しないように見つめ続ける。それがエザフォスのしていることだということを、ほんの少しだけセラスは知った。でも、どうやって? その疑問は、まだ残る。
エザフォスは少し考えてから、全てではない、と呟いた。
「異変があれば、ラティオが様子を確認に行く」
「へー、やっぱりラティオなんだ」
「……私は、ほとんど動かない。人前に出なくてもいいように、ラティオが考えてくれている」
そうしてひとつ息を吐いてから、全てを託すような表情で、エザフォスは目を細める。
「ラティオがいるから、私は、お前に会えた」
――それは飛躍しすぎだよ、と。セラスは少しだけ笑った。けれど必ずしもそうではないことも、なんとなく伝わってきた。
あの狭い石室から連れ出してくれた人が――ラティオがいなければ、今ここに、エザフォスはいない。
でも、と、セラスは思う。
「ねえ……なんでパパは、ラティオが来てくれるようになってからも、石室から出なかったの?」
その問いに、エザフォスは目をそらす。くるりと背を向け、俯き、逃げようとする。
だがセラスはそれを認めなかった。父の正面に回り込み、じっと、見つめる。
「教えてよ。どうせもう、パパの過去はぜーんぶ知っちゃったんだから。だから誤魔化さないで教えて」
その大きな手のひらを握って、その瞳から目を逸らさない。
「パパの気持ちを、聞きたいの」
それでも一度は目を逸らそうとしたエザフォスだったが、やがて静かに目を伏せ、それからゆっくりと目を開けた。
真っ直ぐに、セラスに視線を合わせる。
「……ラティオが石室を開けるまで、私は、朽ち果てるまであの場にいるのだろうと思っていた」
朽ち果てるまで――その単語の重みに、セラスは心臓がぎゅっと痛むのを感じる。
「魔族って、どれくらい生きるの……?」
「その者の魔力が尽きるまでだ」
「魔力が尽きなかったら、ずっと生きてるってこと……?」
「そういうことになる」
「ごはんとか食べなくても? 水も飲まなくても?」
「魔族にとって、食事は嗜好以上の意味はない。生命の原理に関しては精霊に近い」
「じゃあ……それじゃあ、パパみたいに魔力が強い人は、本当に、簡単に死ねないじゃん! そのこと、村の人たちは知ってたんでしょ? 魔族なんだから、知ってたんだよね!?」
エザフォスは静かに眉を寄せただけで、それ以上は何も語らなかった。それはつまり、肯定だ。
「それを知ってたから、ラティオはパパを助けたんだ」
「……だが、私は、ラティオには私に近づいてはほしくなかった」
「どうして?」
「あいつは二種類の属性を扱える。村の者には隠していたようだが、私に近づくうちに露呈する可能性がある。そうなれば――」
エザフォスはゆっくりと息を吐いた。そうなれば、ラティオも閉じ込められてしまうかもしれない。暗く狭い石室に、魔力が尽きて死ぬまで、何百年も――千年以上でも。
「だったら余計にわかんないんだけど。パパならあんな石室、壊して逃げられたでしょ? ラティオを連れていくことだって出来ただろうし……あんなとこ、いる意味なかったじゃん」
思わず咎めるように言ってしまったが、それがセラスの本音だった。エザフォスの力があれば逃げられたはずなのだ。怖いからなどという理由で人の自由を奪うような人たちを相手に気を遣う必要などないのだ。最初から、彼らはエザフォスの味方でもなんでもない。
それでもエザフォスは、ゆっくりと首を振った。
「私の存在は、人々の恐怖となる。どこへ行ってもそれは変わらない」
「だから、どこにも行かなかったの……?」
「……徒に人の心を恐怖に染めることを、私は、望んではいない」
穏やかな表情に、嘘偽りは感じなかった。彼は心から願っていたのだ。自分が誰かを脅かす存在とならないことを――怖がられない、ということを。そのために、どこにも行かずに石室の中でただじっと、死が訪れるのを待っていた。
セラスは首を振る。理解できない。エザフォスの言うことはめちゃくちゃだ。他人のために自分が犠牲になろうとするなんて。それを、産まれたばかりの赤ん坊が願い、軟禁を受け入れるなんて。
「じゃあ……なんでパパは、魔王になったの?」
静かに、問う。
エザフォスは真っ直ぐにセラスを見据えたまま、じっと、思考を巡らせていた。なぜ魔王に。きっと、改めてそう問われる機会は、エザフォスにはなかったのだろう。当然だ。彼のそばにいたのはラティオとリーリエとトゥルマリナ。最初から彼の気持ちを知っていた者ばかりだ。
なぜ、というのはラティオにも尋ねた。けれど改めて父の口から聞きたかった。自分の存在が他者の脅威となることを良しとしないこの人が、一体なぜ、世界最大の脅威になろうとしたのか。
「魔王がいれば戦争を止められるっていうのは聞いたよ。もっと怖い人が睨みを利かせてるから、その人に殺されるかもしれないから、うかつに戦えなくなるんだ、って。でもそれってめっちゃ怖がられてるっていうことじゃん。そんなの、パパが一番嫌なことなんじゃないの!?」
思わず語気が荒くなる。責め立てたいわけではない。ただ、知りたいだけなのだ。どうしてエザフォスは自分が傷ついてでも、世界を護ろうとするのか。魔王などという、脅威となって。
エザフォスは少し考えてから、うまくは言えないな、と少しだけ嗤った。
「ただ、それでいいと思った。……衝動的に、故郷を破壊し尽くしたときに」
廃墟となったトルメンタの光景が、セラスの脳裏をよぎっていく――
エザフォスは静かに言葉を続けた。
「……あの光景を、もう二度と、見たくはない。ならば、私が望まないことであっても、やる意味はある」
魔王となり、脅威となり、怯えた目を向けられる。それを望んでいないのに、自ら受ける覚悟をした。それが魔王エザフォスの本音なのだ。
「だから」
エザフォスは、穏やかに微笑んで、告げた。
「ラティオもトゥルマリナも認めないだろうが……私は、お前が望まないのであれば、魔王を継がせるつもりはない」
そう告げた父の瞳の温かさに、セラスはもう、何も言えることがなかった。
***
部屋に戻り、エザフォスの言葉を考える。
魔王になった理由、でもその裏側にある本当の気持ち、立場、世界、精霊、人間。エザフォスはただ生きているだけで、それだけたくさんのしがらみに囚われている。
なら、セラスは?
父と同じ力を持ち、普通の魔族とは違った能力も眠っている。今はまだ完璧には扱えないが、きちんと魔術を勉強して、強くなったら、エザフォスのようにあらゆる人々の脅威になることができるのだろう。
それを自分は、望むのだろうか。
望むべきなのだろうか。
「私は――」
瞼を閉じる。その裏側に、あの日の炎が甦る。
セラスが燃やした、あの村が。
「……私も、パパと同じ……」
いや、もっと酷い。ラティオのために暴走したエザフォスとは違って、ただ自分の意地だけで、村を燃やしてしまったのだから。
その罪に、まだセラスは、向き合っていない。
「……ちゃんと、行かなきゃ」
呟いて、セラスは部屋を飛び出した。
あの日、燃やしたあの村へ向かうために。




