第1話 禁じられた魔術
城の屋上を冷たい風が駆け抜けていく。
セラスは静かに瞼を閉ざし、意識を自らの内側に集中する。地、水、火、風、四つの力を持つ精霊の魔力が体内を駆け巡る。それが父に禁じられた術だと知っていた。それでもセラスは、秘術を止めない。
「……精霊よ。神秘の力を我の前に示せ」
語りかける。瞬間、セラスの体内を熱が駆け抜けていく。まるで血が沸騰するように。身体が膨張して、直後収縮して、脳がかき乱されて、しかし一瞬の後には凪が訪れて――
「禁じられし冥界の王よ、我が前に姿を現せ!」
セラスの声に応じて激しく風が舞う。そして、セラスを中心としてその風は竜巻となり、天へと昇る刃となって上空を貫いた。白銀の光が高く、高く、高く――どこまでも駆け上り、そして、上空に魔方陣を描く。
――ほら、やっぱりできるじゃない!
セラスはわずかに笑みを浮かべた。大人たちは何度も言った。お前に禁術はまだ早い、と。だがそんなことを言われて大人しくしていられるほど、セラスは殊勝な性格をしていなかった。出来ないなどと誰が決めたのか。実際自分は、魔力だけならば世界で最も強いのだ。だったらそれを認めない大人たちに証明してみせるしかない。
天に描かれた魔方陣が、黒々と光り出す。その中心が、大きく渦を巻いた。轟々と音を立てながら、荒れ狂う海のように波打ち、禍々しい気配を放つ。
冥界の扉が――開く。
――今だ!
「我が魔力に従え!」
父がかつて行った召還術だ。世界でただ一人、父だけが使える禁術。自分はその娘。やがて世界を統べるのはセラスだ。だからこそ、証明しなければならない。自分が既にそれだけの力を持っているのだと。世界に、大人に、父に――
「……ゥ……ォ……ォォ……ォ……――」
地を這うような声が聞こえる。
「ゥ……オォォ……オォ……ォォ……ォォォ――」
空に亀裂が入るように、冥界の扉が開かれ――
「グオオオオオオ!」
ギョロリと目玉がセラスを睨む。
「……ッ!」
その瞬間、セラスの意識が支配された。――恐怖に――呼吸が止まる。口から泥を飲まされたように、体内にどす黒い何かが侵入してくる。
「――――――!」
叫んだ、つもりだった。
声が出ていない。
暗転。
直後、泥の海の中に落下する――ような感覚。
溺れる。
波に呑まれる。
濁流が。
意識をかき乱す。
こわい、こわい、こわい、こわい!
――誰か助けて!
「冥界の王よ! 彼の地へ還れ!」
……その声は、どこか遠くから聞こえた。
温もり。
しっかりと、誰かが手を握ってくれる。
濁流に呑まれて沈みかけていた意識と感情が、ふわりと浮上するのを感じた。柔らかな毛布に包まれるような、心地良くて、懐かしい感覚。
セラスはそれに必死でしがみついた。もう二度と、流されてたまるかと、縋り付くように。
そして――
「大丈夫か、セラス!」
名前を呼ばれて、セラスはゆっくりと瞼を持ち上げる。目の前にいたのは、澄んだ緑色の瞳をした、銀色の短髪の青年――
「オニロ……」
「よかった、意識が戻ったか」
安堵したように息を吐きながら、彼はセラスの手を握る。
その温もりを感じながら、セラスは上空を見上げた。既に魔方陣は消滅し、空にはいつも通り黒々とした雲が広がっていた。まるで魔術など使わなかったかのように。
「あなたが、助けてくれたの……?」
尋ねる。だが、
「あー……いや、うーん……」
オニロは苦い顔で言葉を濁した。その直後だった。
「……セラス」
オニロの後ろから強大な魔力が――冥界の王よりも威圧的な気配が、ゆっくりと現れる。その瞬間、セラスは全てを悟った。
「パパ……」
魔王エザフォス――この世界で最も強い魔族が、まるで悪夢のような声で、セラスを呼ぶ。
「禁術には手を出すなと、私は言ったはずだ」
一歩、また一歩。エザフォスは怒気を孕んだ声で語りながら、近づいてくる。倒れていたセラスを助け起こしたオニロは、そのままエザフォスのほうへと身体を向けた。
やらかした――と、悟ったが、もう遅い。セラスは慌ててその場から逃げようとする。が、オニロは決してセラスを離そうとしない。
「お前ではまだ制御はできない。そう何度も伝えたはずだ」
そう、確かに言われていた。それでもセラスは、止まらなかった。
「なぜ禁術に手を出した?」
「…………」
「答えろ」
短く、低く、そして重く。
響く声に、セラスは背中に冷たいものが走るのを感じる。逃げたい。だが、オニロが離してくれない。言いつけを破ったセラスがこの後どうなるか、彼は何度も見ているのだから、知っているはずなのに。
謝れ、謝れ、と、オニロが背後で囁いている。だが、知ったことではない。セラスはキッとエザフォスを睨み付け、言い放った。
「パパが私を見くびるからでしょ! 魔力は私のほうが強いんだから、禁術くらい使えるわよ!」
「お前……」
背後でオニロが唸っている。だがもうここまできたら結果は同じなのだ。だからセラスは勢いに任せてそのまま続けた。
「いつまでも子ども扱いしないでよ! 私だって魔力は十分にあるのに、なんで教えてくれないの!?」
「……まだ早い」
「じゃあいつになったら早くなくなるの!?」
「……今ではない」
「そればっか! だから証明しようとしたんじゃない! 私でも禁術が使えるって!」
「だが、失敗した」
端的に事実を述べられた。ぐうの音も出ない。うっ、と言葉に詰まったセラスの目の前で、エザフォスは立ち止まった。
もう一度逃げようともがいたが、無駄だった。エザフォスがセラスを抱き上げる。まるで人形を小脇に抱えるようにして、心なしか、尻が高く上がるようにして。そして――
「……反省しろ」
次の瞬間。
――バチィン! と。
「いったあああああああ!」
セラスの尻に、父の手のひらが振り下ろされた。
***
泣きはらした目でうつ伏せになって、ジクジクと痛む尻に呻きながらセラスはベッドに転がっていた。痛みは簡単には引かない。当然だ。今日はいつにも増して念入りに尻を叩かれたのだから。
「お前、ほんっとうに懲りないよな……」
ベッドの傍らに椅子を引っ張ってきて、足を組みながら座っているのはオニロだった。半眼で、ため息交じりに、セラスのほうを見つめている。
「エザフォス様に尻叩かれるの何回目だよ?」
「うるさい~! だって、パパが子ども扱いするから!」
「そりゃするだろ。対して勉強もしないで、練習もしないで、いきなり強い魔術だけ使おうとするんだから」
「だってぇ……」
唇を尖らせれば、オニロは盛大にため息を吐いた。
「お前、わかってんのか? 冥界の王を召喚する魔術って、エザフォス様しか使えないヤバイ術なんだぞ? 失敗したらどうなるかとか、誰も知らないレベルの」
「ううー……」
「エザフォス様が気づいて止めてくれなかったら、お前、ガチで死んでたからな」
「う……」
言われた瞬間、セラスは絡みつくような恐怖を思い出し息を呑んだ。言い返す言葉もない。実際に自分はついさっき、死ぬかもしれないと思ったのだ。冥界の王とは、闇の精霊を統べる者。その力を制御できるのはエザフォスだけで、そのエザフォスすらも滅多なことでは使わない力なのだ。
それでも――と、反論しようとしたときだった。
「セラス、いるかい?」
穏やかな声と共に扉がノックされる。
「いるよ、父さん。入れば?」
「ちょっと、なんでオニロが答えるのよ!」
「はは、その感じだと、元気そうだね……入るよ」
扉が開き、オニロによく似た目の色をした黒髪の男性が入ってくる。長い髪をひとつに纏めた長身のその人は、ラティオだった。
「痛い目に遭ったみたいだね。ちゃんと反省した?」
口調こそ穏やかだが、その声はわずかに硬い。どうやらラティオも怒っているらしい。それもそうか、とは思うものの、セラスはふいっとそっぽを向いた。
「……どうせ同じことを言うんでしょ。もう聞き飽きた」
「セラス、お前なあ――」
「いいよ、オニロ。この反抗期娘がそういう反応するのはわかってるから」
呆れたように息を吐いて、ラティオはベッドに近づいてくる。この人はエザフォスの古くからの友人で、どうやら世界を征服したときに父の右腕として色々と暗躍していたらしい。セラスとエザフォスの親子に対してもそうだ。きっとエザフォスの分まで説教をしに来たのだろう。
だが、違った。
「反抗期なのはわかってるよ。でもね――」
ラティオはセラスの首根っこを掴むと、驚くほどの力で勢いよく持ち上げた。
感情を全て消し去った目が、セラスを見据える。
「今日ばかりは、お前が何をしでかしたのか、その目に焼き付けてもらうからな」
そう言った次の瞬間、急激に空間が収縮し――
――ハッと気づいたときには、セラスは空中にいた。
「ひっ――」
空間転移だ。ラティオがセラスを抱えたまま、上空に浮いていた。
「見ろ」
彼の指先は、真っ直ぐに地上を示している。だが、その指先を追う前に、セラスは気づいていた。鼻先に、焦げた肉の匂いがする。
獣ではなく。
――人間の。
「……え?」
おそるおそる、足元に視線を向ける。
そこには焦げた建物と……人間の姿。そして。
「クソッ、魔王め!」
「お前が村を焼いたのか!」
人々の怒号。悲鳴。慟哭。それと、
「…………」
無言で佇む魔王・エザフォスの姿があった。




