第八章 真実
黒い何かが、駿の心と体を無理やり縛りつけようとしていた。
堪らず、駿は膝を付く。
と、同時に武志は、織姫を睨みつけた。奈那さえ捕らえられていなければ殺している、そういう目であった。
だが、駿は武志の足を掴み、息を苦しそうにさせながらも武志を睨むのだった。
「武志……仲間をそんな目で見るな…!」
「………………」
「俺なら……大丈夫だから……」
言った途端、駿の学生ズボンのポケットが光り始めた。駿がポケットに入れていたグレッグのタリズマンが放つ光であった。その輝きは更に増してゆく。
と、駿の胸からは無数の小さな黒い蛇がボタボタと床に落ち始め、消えていった。
ようやく呼吸が楽になった駿ではあったが、すぐには整えることも出来ず息を切らす。それでも駿は、織姫に言うのだった。
「おーちゃん、どうしたんだよ? なに怒ってんだよ……」
「…………………………」
「そっか、この呼び方か。ごめんな、俺、勝手でさ。でも、本当にカワイイと思ってさ、気に入ってくれると思ったんだよ……でも、奈那は関係ねぇよな?」
駿は、次第に呼吸を整えながらゆっくり立ち上がる。
「もしかして、奈那とケンカでもしたのか? コイツ、口悪りぃからな、俺でもカチンとくるんだよ。でも、友達だろ? 友達に、そんな事しちゃいけねえよ」
その時、「クックックッ……」と、嘲るような含み笑いが聞こえた。それは、不意に高笑いへと変わった。
「アーッハッハッハッ! 友達? 仲間? 面白すぎるよ、オマエ!」
駿は一騎を睨み付ける。が、一騎は、嘲る笑みを更に深く浮かばせた。相手が怒れば怒るほど嬉しくてしょうがないと言った嘲りの笑み。
そこに、あゆ美が叫んだ。
「もうやめて、兄さん! 約束が違う!」
途端、一騎の表情は一変した。悲しげな表情を、あゆ美に向けたのだった。
「可哀想に、あゆ美。こんな奴らに関わったばっかりに泣かされてしまって……こっちにおいで、僕が守ってあげるから」
「違う違う! 兄さんは約束したじゃない! だからあの日、私は兄さんの言う通り都庁へ行った! 体ごと思念を飛ばしてまで、兄さんに協力したのに!」
と、巌が何かに気が付いたように口を開いた。
「なるほどな。オマエが学校に現れた時、やけに簡単に引き下がったとは思っていたが、そういう事だったのか……」
巌は、更に鋭く一騎を睨む。
「あの時、嬢ちゃんの髪の毛を手に入れていたとはな……」
「察しがいいですね、その通りですよ」
一騎は、再び嘲りの笑みを浮かべる。
「貴方に気付かれる事なく、僕があゆ美とテレパスで通じ合うのは可能でした。双子の繋がりし魂は、直接回線ですからね。しかし、接触となると、そうはいかない。そこで必要だったのが、あゆ美の体の一部、髪の毛です。貴方もご存知の通り、テレパス能力者は、そこに例え髪の毛でも体の一部があれば、思念による自己投射という形でそこに出向く事が出来る」
「迂闊だったよ……」
その言葉に、一騎は再び高く嘲笑った。
「アーッハッハッハッ! 迂闊だった? まさか『妖刀』とまで異名を取った貴方から、そんな言葉を聞くとは! 老い過ぎてボケでも始まりましたか?」
兄の高笑いに、とうとうあゆ美は、感極まったように泣き崩れた。
「兄さんは言ったじゃない。都市を消すだけで、誰かが傷つくような事はないって――私が協力すれば、私の大切な人達を傷付けるような真似はしないって……約束したのに……」
「僕は嘘は言っていないよ、あゆ美。新宿は消したけど、それによって誰かが傷付いたりはしていないだろう? ただ眠っているだけだ。このグレッグという男だって、別に僕が殺ったわけじゃない。そうだろ?」
「いい加減にしろよ、テメェ…!」
堪え切れないように、駿が声を上げた。
「なんだ、そのへ理屈は! ヘドが出るぞコノ野郎!」
だが、そんな駿に一騎は薄ら笑いを浮かべる。
「低能が、何をムキになっている」
「この……ぶん殴ってやるッ!」
踏み出そうとする駿。しかし、その駿を、巌は即座に止める。
「動くな、駿。周りを良く見ろ……」
新たになだれ込んで来たガスマスク達に加え、グレッグの死によって束縛の魔術が解けたガスマスク達までもが、その銃口を一斉に向けていた。
「くそッ…!」
駿は、やり場の無い握り拳を空に切った。
「さあ、あゆ美、こっちにおいで。君さえこっちに来てくれれば、僕は何もしない」
「本当ね…?」
泣き崩れていたあゆ美は、ゆっくりと立ち上がる。
一騎は、にこやかな笑顔を向けて言う。
「約束するよ」
「わかりました……」
ダメだ! と、駿は声を上げようとした。が、それより早く声を上げた人物が居た。
「いけません、お嬢さま!」
篠田が、あゆ美の前に立ちはだかったのだった。
そんな篠田の背中に、一騎が嘲笑うように言った。
「お嬢さま、か――その醜い姿、いいざまだな」
辛そうな顔を作る篠田。あゆ美は、わからない顔をする。
その時、ガスマスク達の背後から声が上がった。
「何をしている一騎、時間が掛かり過ぎだ」
ガスマスク達の間から出て来たのは、スーツ姿に帽子を被ったギラついた眼の男。
「バーノン=カミング…!」
巌は、更なる殺気を身に纏う。しかし、バーノンはそれを無視し、一騎に更に言った。
「一騎、その男の能力は説明したはずだぞ。その男は……」
「もう遅いッ!」
信じられない、という言葉は、こういう時に使うものなのだろう。その声は、紛れも無く死んだはずのグレッグのものであった。自らの血の海に沈んだままグレッグは、『白銀の短剣』を床に突き立てる。と、束縛の魔術が再び発動した。
しかし、一騎は瞬時にフィールドを使い、それを押し返す。
その一瞬の間に動いたのは、ミシェルであった。そのスピードは、まさに神速。
光かと思うほどの速さで走り抜け、織姫の手から奈那を奪い返し、グレッグの下まで戻って来たのだった。
同時に、ガスマスク達は一斉にサブマシンガンの引き金を引いた。
「銃は使うな!」
叫んだのはバーノンであった。が、遅かった。ガスマスク達が構えていたサブマシンガンが一斉に火を噴く。
――ただし、銃口からではない。銃身からである。サブマシンガンは、次々に暴発したのだ。
グレッグは、束縛の魔術を押し返されると同時に、瞬時に呪文を唱え、五芒星を頂点から左下に向かって描く火の召喚五芒星を切っていた。それによって、この場のある火にまつわる物は全て、グレッグの意のままとなっていたのである。
そんな凄まじい連続魔術を見せた『不死身の魔術師』は、ようやく血の海から起き上がった。
「まったく、お気に入りのダンヒルが血で台無しだ……」
顔をしかめ、ぼやく。
と、一変して凄まじいまでの眼光をバーノンに向けた。
「このスーツの代金、高く付くぞ」
だが、バーノンも、フッ、と鼻で軽くあしらった。
「復活まで九分と二十一秒。化け物ぶりに磨きが掛かったな、グレッグ=クリスチャン=シーファス」
「私の聖なるミドルネームを、貴様のような薄汚い男が口にするな。不愉快だ」
睨みあう二人。
巌は、一騎に睨みを利かせながらも、多少驚きながらグレッグに口を開いた。
「魔術……じゃ、ねえよな? オマエさん、イレギュラーサイズだったのかい」
「ミスター、私はその言葉を好みません。異端者、という意味が含まれていますから。私の体は、先祖より受け継がれし神の鎧によって守られているだけです。普通の人間と同じく歳も取れば、ケガもするし、死にもします。しかし、そこに一片でも悪意が含まれていたならば、私の体は神の加護により何度でも復活するのですよ」
「以前、私が旅客機ごと爆死させた時も、二日で復活したものな。ゾンビより貴様はタチが悪いよ」
バーノンはそう言い、また鼻で笑うが、
「相変わらず、人の神経を逆なでするのが好きだな、バーノン」
と、グレッグは意に介さず、冷静に言葉を繋げた。
「減らず口を叩くのは結構だが、状況を見てから言うんだな」
兵隊であった周りのガスマスク達は、銃の暴発により全滅。さすがのバーノンも顔をしかめずにはいられないようだった。
「一騎、らしくない失敗をしたな。ここはいったん退却するぞ」
しかし、一騎はバーノンに目を向けなかった。
人の本質とは憎しみなのではないか?
そう思わざるえない程の表情で、むき出しの憎悪を巌にぶつけていたのだった。
「バカを言わないでください。コイツを消せるチャンスが、今目の前に転がっているのに…!」
一騎は、一気にフィールドを広げる。
一騎の前から、床、壁、天井、あらゆるものが消え去って行く。
だが、巌もすぐに両手を前に広げ、その力を押し返した。
「一騎、オマエはさっき俺の迂闊って言葉を笑ったが、言葉の意味を履き違えるなよ。俺の言う迂闊ってのは、オマエが純粋な嬢ちゃんを平気で騙せるような口八丁の男に育っていた事に迂闊だったと言ったんだ」
「何を今更…! だからなんだ!」
「ただのジジイだと思ったら、ケガじゃ済まねえって意味だよ!」
巌は、その能力に力を込めた。一騎のフィールドが一気に押し返される。
「くそっ! オマエなんか消えちゃえよッ!」
一騎も力を込め、フィールドを更に広げる。一騎と巌の間に挟まれている様ざまな物体が、まるで切れかかった電球のように現れたり消えたりしている。二人の力が拮抗している事が目に見えて判った。
だが、そんな様子を見詰めるバーノンは、「チッ…」、と、つまらない顔を見せていた。そして、すぐにスーツに付いていたピンマイクに向かって英語で口を開いた。
『第一斑、二班、三班は全滅。四班、五班は、ただちに屋敷に援護に来い。ただし、銃および爆薬の類は一切使うな』
それを聞き逃さなかったミシェルは、奈那を助け出した時と同じスピードでバーノンの目の前に立つ。司令官であるバーノンを倒せば、兵隊は動けないと考えた。
ミシェルは、バーノンの腹部に掌底を打つ。
だが、その掌底は空を切り、バーノンの背後の壁を破壊しただけだった。
――バカな! 確かに当たったはず…!
ミシェルのすぐ横に立っていたバーノンは、薄い笑みを浮かべて言った。
「体内に気を巡らせ錬気する技、小周天と言ったか? あの一瞬で五十……いや、百回はそれを行い、一気に放出させた。そのスピード、技、さすがは『仙人』と呼ばれたシラカワの娘だ」
と、突然、バーノンの影から漆黒が伸びた。バーノンの指示により援護に駆けつけたガスマスク達の一人が、ミシェルに向かって伸ばした漆黒のアーミーナイフであった。
ミシェルは、辛うじてそれを交わす。
瞬時にガスマスクは、二撃目を繰り出そうとする。
が、それは適わなかった。
ガスマスクの手首は、武志の右手によって握られていたのである。
武志は、掴んだ右手首を上方へ捻り上げる。ガスマスクの体が重力を失ったようにフワリと浮いた。合気道で言う小手返しである。だが、武志曰く〈人殺しの技〉と呼ぶ浅井流のそれは、ただの小手返しではなかった。
ガスマスクの体を浮かした瞬間、武志は躊躇なく脳天から相手を叩き落したのだ。
どんな屈強な人間であろうと、この技をくらって立ち上がれる者などいるはずがなかった。
「ほう……」と、意外そうな声を漏らすバーノンを横目に、武志はミシェルに訊く。
「ケガはありませんか?」
とても優しい口調。
だが、そんな言葉とは裏腹に、バーノンを睨む武志の顔からは、すでに童顔は消え去っている。そんな様子の武志にミシェルは信頼を憶えたようだった。
「浅井武志、申し訳ないけど手伝ってもらえるかしら?」
武志は、コクリと頷いた。
再び、左右の窓から、更には後方の扉からもガスマスク達がナイフをギラつかせ侵入してきた。武志とミシェルは、即座に応戦する。
そんな中、一向に様子がおかしいままの奈那の肩を揺すり、駿はとにかく叫んでいた。
「奈那! しっかりしろよ! 目を覚ませよ!」
「河本駿、私が渡したタリズマンを彼女の胸に当ててみたまえ」
グレッグに言われた通り、駿はすぐにポケットからタリズマンを取り出し、奈那の胸にタリズマンを当てた。ただし、遠慮がちに――顔は真っ赤である。
当てられた途端、奈那の目に光が戻った。同時に、胸からは無数の小さな黒い蛇がボタボタと落ち、消えていった。
「大丈夫か、奈那!」
倒れそうになる奈那を、駿はすぐに支える。
「駿…?」
ようやく正気を取り戻した奈那であったが、辺りの騒ぎにすぐに目を見張った。
「な、なにこれ? どういうこと!」
「なんつーか、バトルロイヤルの真っ最中?」
「いや、わけわかんないし……」
呆れた顔を作る奈那であったが、すぐに声を上げた。
「つーか、ヒメ! 駿、ヒメが変なんだよ!」
「わかってる……」
駿は、再び織姫に目を向けた。
と、その時だった。
「織姫ッ!」
バーノンの怒号が飛んだ。
何か戸惑うような様子を見せていた織姫であったが、その怒号と共にアイドルのような顔には再び鬼の表情が戻る。
そして織姫は、懐から新たな魔法陣が書かれた紙を取り出し、それを床に放った。
「ベルゼブブよ! 我が前の敵を滅ぼせ!」
最初に、虫のような羽音が聞こえた。それは次第に大きくなり、ついには不快極まりない音が響き渡った。
と、床に放られた魔法陣から、巨大な黒い影が姿を現した。
「蝿の王を召喚したか……ならばッ!」
グレッグは、駿たちの前に立ち『白銀の短剣』を片手に頭上に三角の印を結ぶ。
「ヘイ・コー・マー……」
その言葉に大気が震える。
黒い影は、自らその身を業火に包み、グレッグ達に襲い掛かる。
「エム・ペェ・ヘエ・アル・エス・エル……」
素早く呪文を唱えながら、グレッグは『白銀の短剣』にて左から五芒星を描く。
水の召喚五芒星。後、中心に天蠍宮のシンボルを刻印……
「Amen!」
その時、誰もが見た。悪魔の前に立ちふさがる神々しいまでの天使の姿を……
『退け』
人が理解できる言語では無かった。しかし、そう聞こえた。
途端、放られていたアブラメリンの魔法陣が描かれた紙は、水に溶けるように消え去った。
グレッグは、織姫を静かに見詰め、言い放った。
「止めるんだ、神崎織姫。ベルゼブブだろうがペイモンだろうが、君の術は私には利かない」
続けて、あゆ美が織姫に声を上げた。
「もうやめて、織姫さま! 私は貴方と争いたくない!」
すると、織姫はうつむき、小さく口を開いたのだった。
「東間さんは、もう判っているんでしょ? 本当は、ヒメが一体誰なのか……」
「それは……」
「河本君だって、もう気付いているよね? そんなに強いタリズマンを持っているんだから、ヒメがあの学校にかけた魔術なんて、とっくに解けてるはずだもん」
「………………」
「それなのに、なんで友達だとか仲間だとか言うの? ヒメにはわからないよ……」
「当たりめぇだろ……」
「えっ…?」
「当たり前だって言ってんだよッ!」
その場にいる全員が――感情と言う物が感じられないガスマスク達ですら振り返るほどの大声を駿は張り上げた。
「ああ、気付いてたさ! 神崎織姫なんて生徒は、うちの学校には初めから居ない! 俺達があゆ美ちゃんと初めて登校したあの日が、初対面だったなんて事はよおッ!」
織姫を見詰めながら、グレッグはふと呟く。
――やはりな。あの物理結界、たかだか低級の夢魔を呼び出す為だけに張ったにしては仰々し過ぎるとは感じていたが、生徒全員の記憶の改変が目的だったか……
「そりゃ、始めは訳が判らなかったさ。でも、奈那と武志で決めたんだ。この事は黙っていようって」
「なんで……」
「当たりめぇだろ! 仲間だからだよ! 同じ教室でお喋りして笑いあえば、それで充分だろうがよ! 時間なんか関係ねえ!」
「だって……だってヒメは……河本君たちを……」
「そんなの関係あるか。気の弱いオマエの事だ、どうせ言われるがままに動いていただけだろう? 人の心を弄んでる本当の悪党は、こいつらだよ…!」
駿は、一騎とバーノンを睨む。
一騎は、冷笑をたたえ、駿に言った。
「そんなセリフ、真実を前にしても言えるのか、君は?」
「なんだとッ…!」
「人の心を弄んでいる人間は、君の身近にも居るという事だよ」
一騎は、その冷笑を巌に向けた。
「なあ、村雨巌……」
「やめろ一騎!」
動揺を隠せないかのように巌が叫ぶ。その動揺が、一瞬、巌の力を鈍らせた。
一騎に力を押し返され、巌は肩膝を付いた。
「くそッ、寄る年波には……」
「じーちゃん!」
「さあ、消えろ……」
巌に一騎が迫り寄る。
その最中、バーノンが織姫に告げた。
「織姫、何を迷っている? またあの頃に戻りたいか?」
「わかってます…!」
織姫は、新たなアブラメリンの魔法陣を取り出す。
「神崎織姫、さっきも言ったはずだ!」
グレッグは素早く『白銀の短剣』を構える。と、そんなグレッグにバーノンは、嘲る笑みを浮かべて言い放った。
「グレッグよ、君も知っての通り『術士アブラメリンの魔術書』というのは、第一の書から第三の書で成り立っている。だが、第四の書という物が存在している事を知っていたか?」
「まさか、貴様ッ…!」
「現代にアブラメリンマジックを復活させた、かの天才魔術師マクレガー=メイザースですら手にする事の出来なかった幻のアブラメリン第四の書。私はそれを彼女に与えた」
グレッグは、新たに床に放られたアブラメリンの魔法陣に目をやる。あらゆる魔術書の知識が頭に入っているグレッグですら、それは見た事も無い魔法陣だった。
「やめろッ! 神崎織姫!」
「アブラメリンマジックは、様々な悪魔を紙切れに書いた魔法陣だけで使途できる。蝿の王とまで呼ばれるベルゼブブですらもだ。しかし、君は不思議に思った事はないか? これほどまでの魔術に、なぜアレを使途する魔法陣が存在していないのか?」
織姫は、床に放ったアブラメリンの魔法陣の上に手をかざし、念じ始めていた。
グレッグは、『白銀の短剣』を握り締め、織姫へと駆け出した。
――もう止められんッ! ならば、魔法陣を物理的に破壊するまで…!
「およそ六百年前、術士アブラメリンは弟子のアブラハムに、この叡智を与え、アブラハムは息子のラメクに、その術の全てを伝え、書き写させた。だが、六百年の時の流れの中で、第四の書は隠蔽された。その力が、あまりにも強大だったからだ」
グレッグは、『白銀の短剣』を魔法陣に向かって突き立てる――が、遅かった。
その場から弾き飛ばされるグレッグ。
辺りが、闇よりも黒い物に包まれてゆく。と、魔法陣の中から、無数の巨大な黒い蛇が、あたかも火山の噴火のように飛び出してきた。
戦闘状態であったガスマスク達が、一斉にその手を止め、恐れおののいた。
そこに、巨大な黒い蛇はガスマスクの一人にその牙を剝く。ただそれだけで、ガスマスクは断末魔の悲鳴と共に一瞬にして絶命したのだった。
「第四の書に比べれば、今まで伝えられていた魔法陣など、まるで子供の遊びだ。素晴らしい叡智の数々が網羅されていたよ。だが、それ以上に素晴らしいのは、それらの叡智をすぐさま使いこなした神崎織姫の才能だ――なあ、織姫……」
織姫は、どこか苦しそうにしながらも魔法陣に手をかざし続けている。
グレッグはバーノンに叫んだ。
「何が使いこなしているだ! あれを見てみろ!」
逃げ出すガスマスク達に、無数の巨大な黒い蛇が次々と襲い掛かっていた。まずは弱者から食らい尽くそうとするかのように。
「止めさせろバーノン! 彼女は召喚をしただけで制御など出来ていないに等しい!」
「それがどうした? 私は見てみたいだけだよ。君の『神の鎧』が、どこまで通用するかを。あのサタンと呼ばれる悪魔を前にしてな……」
「貴様ぁッ…!」
怒りをあらわにするグレッグであったが、向かったのはミシェルの方であった。
「ミシェル、すまないが彼らを連れてこの場を離れてくれ。このままでは全員サタンに魂を食われ地獄に引きずりこまれる……」
「何か手立てはあるのですか?」
すると、グレッグは笑顔で答えた。
「無いな。さっきのような簡易的な天使召喚では、あれはもう手に負えん」
「ならば、私がなんとか食い止めます――」
「ダメだミシェル…!」
「――愛してますわ、グレッグ様」
掛けたフチ無しメガネの奥に浮かべた美しい微笑みを残し、ミシェルは飛び出した。
――とにかく、あの少女さえなんとか出来ればッ…!
光のごとき速さで織姫に向かうミシェル。
襲い掛かる巨大な黒い蛇。
一匹……二匹……三匹……
次々と交わすミシェル。
――あと少し…!
その時、巨大な黒き蛇の根元、魔法陣の中から、暗黒が頭をもたげた。
「あれは本体…! 目をつぶれ! 邪眼が来るぞ!」
叫ぶなりグレッグも飛び出す。
「大天使ミカエルよ、聖なる御名アドナイの名の下に我らを守りたまえ!」
グレッグは、『白銀の短剣』を前方に突き立てる。
魔法陣より眼だけを覗かせ、暗黒は禍々しい闇の光を放った。
グレッグとミシェルは、崩れ落ちるようにひざまずく。邪眼に魂を食われる事だけは防げたようだったが、すでに立ち上がる事も困難なほどに息を切らしていた。
「チェックメイトだな、グレッグ=クリスチャン=シーファス」
「貴様が……私の……聖なる……ミドルネームを……」
まともに口すら利くことが出来ない。
「魂ごと食われてみろ。それでも復活できるのか、私に見せてくれないか?」
冷血漢という言葉があまりにも合いすぎるバーノンの言葉。
その時、駿が吼えた。
「ちっきしょォーーーーーッ!」
「いけない、駿さま!」
「待って、駿ッ!」
あゆ美と奈那の制止する声を振り切り、駿は飛び出した。
「ふざけるなよバケモン! 誰も傷つけさせやしねぇ!」
その声に反応したように、無数の巨大な黒き蛇が一斉に駿に襲い掛かった。
駿は、反射的にグレッグのタリズマンを前方に掲げる。だが、いかにそれが強力であろうと、タリズマン一つでどうにか出来る相手であるわけがなかった。
「――――――ッ!」
蛇が駿の体、手、足に喰らいつき、駿は言葉にならない叫びを上げる。タリズマンが強く輝きを放ち、辛うじて駿の体と魂を守ってはいたが、死は、もう目の前にあった。
「駿ッ!」と叫び、巌が駿を助けに向かおうとするが、自分自身が一騎に消滅させられる寸前であった。動く事も出来ず、巌は血が出るほどに歯を食いしばった。
「守るんだ……俺は、みんなを守るんだ……」
祈るように呟く駿。しかし、その願いは叶うことなく、駿は膝を折った……
「駿さまぁーッ!」
叫び、あゆ美は飛び出そうとした。が――
ゆらり、と……
「武志さま…?」
あゆ美の肩を掴んで制止させ、武志は、その一歩を踏み出した。殺気……いや、そんなものを遥かに超えたものを、まるで目に見えるかのように身に纏って……
ゆらり、ゆらり、と、ゆっくり織姫に向かって歩を進めてゆく。
新たな獲物を見つけた無数の巨大な黒き蛇は、その巨大な顎門を駿から武志に開く。
――正面……
ゆらり、と、武志は、わずかに左に体を移した。
巨大な黒き蛇は、武志の右肩を過ぎ去っただけだった。
――右……左斜め……背後……
四方八方から襲う蛇の攻撃は、全て寸前で外れた。ミシェルのように素早く動いている訳でもない。ましてや、タリズマンの力を使っている訳でもない。ただ、ゆらり、ゆらり、と、体を揺らし、歩を進めているだけ。まるで、何処に攻撃が来るか判っているかのように……
「あれは、テレパス……」
グレッグが、驚愕の表情で呟いた。
「この状況下が、彼の力を発現させたのか……」
武志は、駿の横を通り過ぎながら、静かに言う。
「駿、無茶しすぎだよ」
「武志、オマエ……」
「武道にもね、超能力みたいな物があるんだ。心眼、と言うんだけどね――使えたのは初めてだよ……」
「待て、武志…!」
構わず織姫に向かい歩を進める武志。織姫まで、あと数歩。
――さっきの攻撃……来る……
頭をもたげた暗黒が、再び邪眼の闇を放った。
と、その動きは、まさに舞うが如く。武志は体を入れ替え、美しいまでの曲線を描きながら巨大な暗黒を側面に交わした。邪眼という目に見えない攻撃すら、目に見えているように。
次に、武志の右手が握っていたものは、神崎織姫の左手首だった。
頭をもたげる巨大な暗黒と無数の黒き蛇が、その動きを止めた。
「やめろ武志ッ!」
駿が叫ぶ。だが、武志は振り向かなかった。
「僕は、僕の友達を傷付ける人間を決して許しはしない……」
「おーちゃんは……織姫は俺達の仲間だ! ヒーローは、絶対に仲間を傷付けない!」
「前にも言ったよ。僕は、ヒーローなんかじゃない……」
武志は、掴んだ左手首に力を込める。
すると織姫は、上げた顔に涙をにじませ、言った。
「浅井君の優しい笑顔、ヒメ、大好きだった――殺して、浅井君」
武志は、織姫の左手首を手元へと引く。大きく体を崩す織姫。その力を、そのまま返すように左手首の関節を極め、上方へと武志は押し上げる。
浅井流小手返し。
体を浮かした瞬間、相手の脳天を床に叩き付ける人殺しの技。
だが、その寸前、武志は自分の腰に誰かの腕が巻きついたのを感じた。
技を止め、振り返る。
「奈那……」
ニコリと、奈那は武志に笑みを浮かべた。そして、織姫の前に立つ。と、その頬を力いっぱい叩いたのだった。
「なにやってのよ、バカッ!」
「奈那ちゃん……」
叩かれた頬を押さえ、茫然とする織姫。
奈那は織姫の肩を掴み、更に怒鳴った。
「なに勝手に自分のこと追い込んでんのよ! 魔術だか何だか知らないけどさ、アンタがアタシの親友だって記憶は、今もこの頭の中に残ってんの! たとえそれが作られたものでも、この三日間、学校で一緒に過ごした記憶は真実なんだから!」
「でも……ヒメは……奈那ちゃんを……」
「どうして判ってくれないの? 初めからやり直せばいいだけじゃない。友達をやり直せばいい、たった、それだけの事なんだよ?」
そう言って奈那は、優しく織姫の手を取り、繋いだ。
「これでアタシたち二人は、いつでも一緒」
満面の笑みを浮かべる奈那。その笑みに、織姫は泣き崩れた。
「ヒメね、元の学校でイジめられてたの。あの頃は、ツインテールなんてしないで、髪も伸ばしっぱなしで、いつも暗い表情を作ってた。織姫だから『オッチャン』だって、みんなにバカにされて――ある日、ネットでアブラメリンの魔法陣を見つけて、それでヒメ、イジめてた子達に呪いをかけた。ヒメの事イジめてた子達の体には、一生消えない傷跡が残って、ヒメは、仕返しが出来たって喜んでた。でも、周りはもっと離れて行った。当たり前だよね……そんな時、バーノンさんがヒメの所に現れたの。修行もしないであの叡智を使いこなすなんて素晴らしい才能だって言ってくれた。誰かに優しくされたの、初めてだった……」
「ヒメ……」
「……でもね、奈那ちゃん達はもっと優しかった。河本君はヤンチャだけど、誰よりも友達思いで……浅井君の笑顔はいつも優しくって……ヒメね、浅井君のこと、すぐ好きになった。そして奈那ちゃんは、ヒメの事を誰よりも大事にしてくれた……」
泣き濡れた顔を上げ、織姫は叫ぶように言った。
「初めて……初めて学校が楽しいと思ったの! ずっと居たいって思ったの!」
「居られるよ。居ていいんだよ……」
奈那は、織姫を力いっぱい抱き締める。
奈那の肩で、織姫は号泣した。
その時――
「二人共ッ! そこから離れろッ!」
グレッグが叫んだ。
が、遅かった。
暗黒は、すでに奈那と織姫に振り返っていた。
「魔術師が術の最中に心を乱してどうする――しょせん、子供か……」
バーノンが、つまらなそうに呟いた。
「奈那ちゃんッ!」
織姫は叫び、奈那から奪ったタリズマンを再び奈那に手渡すと、同時に奈那を突き飛ばした。
「ヒメ!」
邪眼が織姫を襲う。
織姫は、ビクンッ、と、体を大きく反らす。
そこに、無数の巨大な黒き蛇が次々と織姫の喉元に食らい付いた。
「ヒメ……ヒメェェッ! いやぁぁぁぁッ!」
崩れ落ちながら、織姫の口元がわずかに動いた。
「みんな……だまして、ごめんね……」
「ヒメッ! ヒメッ! イヤだ! イヤだよッ!」
「逃げるんだ奈那!」
うつ伏せで倒れている織姫にすがり付く奈那を、武志は引き離そうとする。
暗黒が、奈那と武志に向く。無数の黒き蛇が一斉に襲い掛かる。
「殺られるッ…!」
口にすると同時に、武志は奈那を抱き、かばおうとする。
と、突然、辺りを覆っていた闇より深い暗黒が一気に晴れていった。
「な、なんだ…?」
必死に起き上がりながら呟いた駿の見たものは、一瞬にして塵と化してゆく暗黒と黒き蛇、何かの力に自分の力が一気に押し返されて吹き飛ぶ一騎、そして、その美しい顔を怒りに打ち震わせ一騎に向かうあゆ美の姿だった。
「もう、沢山……こんな事、もう沢山よ……」
「あ、あゆ美……さあ、こっちにおいで」
一騎は言う。だが、その顔はどこか恐怖に震えていた。と――
「ぐあぁぁぁぁぁーッ!」
一騎は悲鳴を上げ、その場にうずくまった。
「もう沢山なのよ…ッ!」
「いけません、お嬢さまッ!」
篠田は飛び出し、あゆ美の前に立ちふさがった。
「一騎は……あの子は貴方の兄です。いけません……」
「婆や…?」
不可解な表情を浮かべるあゆ美。
その様子に、巌はやり切れない表情を作っていた。
――上出来だ。作戦終了だな……
誰に聴かれる事も無く、バーノンはあゆ美を見詰めて呟いていた。そうして、一騎に向かう。
「退くぞ、一騎。作戦を立て直す」
「しかし…!」
「現状を把握しろ。今の君では東間あゆ美を捕らえる事は出来ん。それに、余計な連中も集まり始めている」
外は、屋敷の塀を破壊した爆薬によって、庭には高く炎が燃え広がっている。そこに、非常サイレンの音と赤灯の明かりが交じり始めていた。
「今、我々の素性を知られる事は、老人方も望んではいない」
「………………」
不意に、庭から轟音が響いてきた。バーノンは、すでに迎えのヘリを呼んでいたようであった。
「あゆ美、また来……」
「待てよッ!」
捨て台詞を残し、踵を返そうとした一騎に駿が怒鳴った。駿は、ボロボロになった体を引きずるように踏み出す。
「ふざけるなよ。許さねえぞッ…!」
「何の能力も持たない低能が、僕に何をしようって言うんだ?」
「てめえら、ここまでの事しといて……」
「……ただで帰れると思ってんの?」
奈那だった。
駿の言葉を繋ぎ、奈那は大理石の柱に手を掛けながら、ゆっくり立ち上がる。
「人の友情、散々引っ掻き回して、ヒメをこんな目に合わせて……ゆるさない……絶対にゆるさないッ!」
大理石の柱が、メキメキッ と音を立てた。
と、次の瞬間、その光景に誰もが目を疑った。
奈那の右手は、大理石の石柱を、いとも簡単にもぎ取ったのである。
「アンタ達、絶対にゆるさないからぁーッ!」
奈那は、もぎ取った石柱を一騎に向かって投げつけた。それは、凄まじい勢いで一騎に命中した――ように見えた。だが、当たったのは、一騎がテレパスで作り出した幻像だった。
「これは驚いた。ただの少女かと思っていたが……」
バーノンが呟く。
「なんです? あれは……」
いつの間にか一騎はバーノンの横に立ち、そう訊く。
「見ての通り、サイコキネシスだよ――想定外、だかね」
バーノンは、どこか嬉しそうな笑みを浮かべていた。
一騎とバーノンを睨みつけながら、奈那は新たに大理石の石柱をもぎ取ると、今度はそれを両腕に抱えて二人に向かって行った。
そんな奈那の背中を見詰めていたグレッグは、武志の力の発現を見た時以上に驚愕の表情を作っていた。
――バカなッ! 浅井武志に続いて奈那嬢までもだと…! そんな偶然が、重なるものなのか? 確かに、スプーン曲げが出来たように、力の片鱗はあった。あの時のミスター巌が貸した力が切っ掛け……いや違う。だからと言って、あれほどの力が突然発現するものか! なんだ? 一体、何の力が働いている…?
「オマエ達ィィィーッ!」
奈那は、抱えた石柱を一騎とバーノンに向かって横殴りに振り回す。だが、命中したのは、またもや幻像。二人は数歩後ろに下がっていた。
「お嬢さん、発現したばかりの力を、そんな滅茶苦茶に使うものじゃない。酷い目に合うぞ」
バーノンは、いかにも心配するような口調で言う。
しかし奈那は、かまわず石柱を振り上げた。が、そのまま石柱を落とし、膝を崩した。
「まずい! 反動だ!」
グレッグが叫ぶ。
「だから言ったじゃないか。発現したばかりの能力を、そんな馬鹿みたいに振り回して、肉体がついていける訳がないだろう?」
「か……体が……あああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
奈那は、四肢を同時にもぎ取られるような想像を絶する痛みに、凄まじい悲鳴を上げた。
そんな奈那に、一騎は無表情に奈那の頭に手を当て、バーノンに訊く。
「殺しますか?」
だが、バーノンは首を横に振った。
「止めておこう。これ程の能力、殺してしまうには惜しい。君の妹に、これ以上力を使われても面倒だしな」
バーノンと一騎に向かい、あゆ美がその美しい顔を再び怒りに歪ませていた。
「いいかげん、退き時だ……」
と、バーノンが言った瞬間、バーノンと一騎が背にしていた窓から、白い煙を噴く黒い金属の物体がいくつも撃ち込まれた。
「催涙弾か…!」
グレッグが声を上げ、催涙弾は、瞬く間に大広間を煙に包む。
同時にグレッグは、呪文を唱えつつ『白銀の短剣』で風の召喚五芒星を中空に切った。すると、逆側の窓から突風が吹き込み、それは催涙ガスの煙を一掃した。
だが、その時には、目の前に居た一騎とバーノンの姿は無かった。先程まで聞こえていたヘリの轟音が、段々と離れて行っていた。
「くそっ…!」
と、グレッグは窓の外を憎らしげに見詰める。
その傍らで駿は、
「奈那ぁーッ!」
と、叫びながら奈那に駆け寄った。武志も同時に奈那に駆け寄る。しかし、奈那の視線は、青白い顔で横たわる織姫だけを見詰めていた。
「ヒメ……ヒメ……守ってあげられなくて……ごめんね……」
奈那は泣きじゃくり、痛みで到底動く事など出来ないはずの体を無理やり動かす。当然、立ち上がる事など出来るはずがなく、這いつくばりながら織姫に近寄り、その手を握り締めた。
すると、本当に、本当にわずかだったが、青くなっている織姫の口元が動いた。
「生きてる…? ヒメ! ヒメッ!」
声を出すだけでも走る激痛に必死に堪えながら、奈那は声を上げた。咄嗟にグレッグは織姫に駆け寄り、手首の脈を取った。
「……確かに生きてる。魂を食われる寸前で、あゆ美嬢がサタンを打ち祓ってくれたおかげだ」
「じゃあ、ヒメは…!」
だが、グレッグは悲痛な面持ちで首を振った。
「生きているとは言っても、もう虫の息だ。彼女の魂が地獄に引き擦り込まれなかっただけでも幸い……」
「なんでよッ…!」
「奈那嬢……」
奈那は嗚咽を漏らし、涙を止め処も無く涙を溢れさせてグレッグに訴えた。
「グレッグさんは魔法使いなんでしょ? 助けてよ……得意の魔術で、アタシの親友を助けてよ……」
「奈那嬢、私は以前にも言ったはずだ。我々は万能ではない。呪文一つで何でも出来るのなら、現代の科学や医学は、ここまで発達してはいない」
「違う……違うよ……そんな言葉を、アタシは聞きたいんじゃない……」
奈那の嗚咽は、号泣へと変わろうとした。と、そこに、
「私が、何とかしてみましょう……」
未だ体をふらつかせながら、ミシェルが近寄ってきた。そして、横たわる織姫のそばに静かに座る。
「大周天で、神崎織姫の丹田から気を送り込みます。幸い、この紗月町は緑に囲まれていますから、龍脈を形成するのに問題は無いでしょう」
「無茶だ! 今の君は気力、体力、共に限界のはずだ。小周天すらままならないはずの今の君が、大周天など使ったら…!」
「グレッグ様。こんな子供達に、目の前で大切な人を失う悲しみをあじあわせるべきではありません」
グレッグを見詰めるミシェルの瞳からは、その決意の固さがうかがえた。グレッグに、もう返す言葉は無かった。
「……わかった。肉体に生気が戻ったら、私が魂を定着させよう」
「お願いします」
ミシェルは、織姫の体を仰向けに直し、彼女の下腹部、丹田に両手を当て、意識を集中し始めた。
大周天――体内の気を巡らせ練気する業である『小周天』に対し、木々や草花といった物から発せられている気を体内に取り込み、大地を伝い循環させ練気する業を『大周天』と呼ぶ。その為には、一度自分の気を大地に張り巡らし、気が流れる道、龍脈を形成しなければならない。それだけでも相当の気力を必要とする上に、自分自身が持つ何倍もの量の気を扱うのだから、肉体に掛かる負荷は並大抵のものではなかった。
しかし、ミシェルに迷いは無かった。
ミシェルの体から、肉眼でも捉えられる程の気が立ち昇る。まるで、夏の日の陽炎のようであった。ミシェルを中心に、力が奔流になって流れ込む――
「――杷ッ!」
気合と共にミシェルは織姫の体に気を送り込んだ。織姫の体は、大きく跳ね上がる。
が、織姫の青白い顔は元に戻らない。
「だめ……もっと気を練らなければ……」
とは言うものの、その肩と腕は小刻みに震え、ミシェルは、自分の体を支える事すら辛そうに顔を歪ませていた。しかし、ミシェルは止めなかった。
と、そこに、ミシェルの背中に手を当てた人物がいた。ミシェルが振り返ると、巌であった。
「俺も手伝おう。気孔は昔、白川に少し教わった事がある。嬢ちゃんの後押しくらいは出来るつもりだ」
「ミスターが背中を押してくれるのならば百人力です」
ミシェルは綺麗な笑みで答え、再び大周天に入った。
巌が呼吸を整え、意識を集中し始めると、同時に、ミシェルの体からは先程以上の気の陽炎が立ち昇り始めた。その陽炎は、床を無数に伸びてゆく。形成された龍脈が、ハッキリと見て取れた。
凄まじいまでの力の奔流が、ミシェルの体に流れ込む。
――父さん、力を貸して……
祈る。と、同時にミシェルは気合を込めた。
「杷アアアァァァァァァァァァーッ!」
織姫の体が、何度も何度も跳ね上がる。あたかも、命の息吹が吹き込まれ、脈打っているかのように。
見る見るうちに、青白かった織姫の顔には赤みがさし、命の血の色が戻ってきた。
「よしミシェル! 後は私に任せろ!」
声を上げるなりグレッグは、右手を織姫の心臓の部分に当てた。右の掌には、すでに月のシンボルが入った魔法円が描かれていた。
「パラケルススの魔法円を持ちて我は願う。月の女神アルテミスよ、汝の力を持ちて、この者の魂に今一度肉体を与えたまえ――神崎織姫、戻ってこい!」
「かはッ…!」と、織姫の口は、何かを吐き出すように息を吐く。そして、わずかに目を開き、
「奈那……ちゃん……」
そう呟き、薄っすらと笑みを作った。
「ヒメッ! ヒメッ!」
奈那は必死に呼びかけたが、織姫は再び目を閉じた。
と、そこにグレッグが、奈那に笑顔を向けて口を開いた。
「奈那嬢、安心したまえ。彼女は眠っただけだ。魂は完全に定着したよ」
「本当に…?」
グレッグは、力強く頷く。と、奈那は、織姫の胸にすがりついて泣きじゃくった。
駿、武志、あゆ美の三人も、ホッとした顔を見せた。
すると、グレッグの言葉に安心したかのように、ミシェルも力尽きたように崩れ落ちた。それを巌がすぐに支える。
「大丈夫か? 白川の嬢ちゃん」
「礼を言います、ミスター巌……」
ミシェルは、巌に薄く微笑んだ。
そしてグレッグは、満面の笑みでミシェルを抱きかかえた。
「よくやってくれたな、ミシェル。愛してるよ」
「私もです、グレッグ様……」
二人は、そっと唇を重ねた。
そんな中、唐突に玄関から声が上がった。
「要救護者発見!」
駆けつけた数名のレスキュー隊員であった。
「ようやく来たか……」
言いながら、巌は立ち上がる。
同時に、巌が着る作務衣のポケットから、携帯電話の着信音が鳴り響いたのだった。
塀から庭へと燃え広がった火は、完全に消し止められていた。
先ほどまでは、近隣の町からも応援に駆けつけた何十台もの消防車で屋敷の中と外はごった返していたが、今は全ていなくなっていた。
数名の消防隊員が残り、火事の調査をしているだけである。
屋敷の大広間では、何名もの警官がすでに現場検証を行っていた。
とは言っても、形だけである。裏側世界での事件は、必ずもみ消されるのが常である。
屋敷までは火の手は回らずに済んだが、外壁には所々焦げ跡が見える。窓ガラスも、大広間に限らずあらゆる場所の窓まで無残に破壊されていた。戦いの最中、大広間後方のドアから現れたガスマスク達が侵入した跡だろう。
美しかった庭も、今は見る影も無く、焼け野原の様相を呈していた。黒焦げになった噴水が、ちょろちょろと寂しく水を流し続けている。
そんな庭に、あゆ美の姿はあった。篠田に肩を抱かれ、物悲しげな瞳で立ち尽くしていた。
その後ろには、駿と武志が疲れきった表情を作りながらも、心配そうにあゆ美の背中を見詰めている。
その傍らでは、巌が未だ携帯電話で何者かと話し込んでいた。
レスキュー隊員の誘導により屋敷の外へと出た全員の内、織姫はすぐにタンカで運ばれ、救急車に乗せられた。それに奈那が付き添って行った。
疲労困ぱいであったミシェルも一応救急車に乗せられ、グレッグが付いて行った。
ガスマスク達全員の死亡はその場で確認されたが、軍用の銃火器を携行していた為、レスキュー隊員はもちろん、警察も扱いに困った。するとそこに、呼んでもいない自衛隊の輸送トラックが現れ、一人残らずトラックの中に回収していったのだった。その時、駿と武志は自衛隊の隊長らしき人物が、警官に何かの書類を見せていたのを見ていた。書類の字は細かく、遠目では良く見えなかったが、唯一ハッキリと見て取れた文字は『内閣府』という文字てあった。
「なあ、武志……」
駿は、武志に横顔を見せたまま呼びかける。
「なに…?」と、答える武志も同様だった。
「俺達、これからどうすりゃいいのかな…?」
「そんなの、僕の方が聞きたいよ……」
「心眼とやらは、まだ使えるのか…?」
「多分ね……」
「なんか、すげえな……」
そんな言葉とは裏腹に、その声には虚しさが満ちていた。
と、三台ほどの車がこちらにやってきた。立ち尽くしているあゆ美と篠田の近くに、その車は停車すると、中からは数名の黒いスーツを着た男達が降りてきた。いつか見たあのSP――
咄嗟に駿は駆け出した。
「オマエら! あゆ美ちゃんに近付くな!」
即座にSP達は、駿に睨みを利かせる。
だが、叫んだのはあゆ美であった。
「来ないで!」
「あ……あゆ美ちゃん…?」
訳の判らない顔をして立ち止まる駿。
あゆ美は、今まで見せた事の無いくらいの厳しい顔を駿に向け、告げるのだった。
「これより私は、自分の犯した罪の責任を取る為……そして、東間の力を受け継ぎし人間として、兄、一騎と決着をつけねばなりません。ですから、もうこれ以上、私に関わるのはお止めください」
「な、何言ってんだよ! だったら俺も…!」
「もう無理なんです。私は、駿さまをこれ以上、守りきる自信がありません」
「守るって……守るのは俺の役目だろ!」
「バカを言わないでください。何の能力も持ち合わせていない貴方が、どうやって私を守るというのですか」
痛烈な言葉だった。
駿はうつむき、強く握り拳を作った。自分の無力さが腹立たしく、あまりの悔しさに涙も出ない。そんな駿に、もう言葉は無かった。
「わかってください――さよなら、駿さま……」
あゆ美は、SP達に守られるように囲まれ、篠田と共にSP達の車に乗り込んだ。
走り去ってゆく車。
駿は、その車を追いかける事も、見る事すら出来なかった。
「駿」
巌が、駿の背中に呼びかけた。しかし、駿はうつむいたまま振り返ろうとはしなかった。
「なあ駿。辛いだろうが、あゆ美嬢ちゃんの言う事は事実だ。オマエはもうこれ以上関わるな。あゆ美嬢ちゃんだって、オマエをこれ以上巻き込みたくないから、あえて厳しい言葉を言ったんだ。それくらい、判らない歳じゃないだろう」
「…………………………」
「武志君、すまないが、駿の事を頼めるか?」
「はい……」
「俺も、今からあゆ美嬢ちゃんや篠田さんと一緒に首相官邸に行かなきゃならん。もう判っているだろうが、さっきの電話は首相からだ。今、正式に依頼を受けた。内容は、消失した新宿の解決と、東間一騎、並びにバーノン=カミングの拘束。それが無理ならば、殺してもかまわないということだ」
「本当に、血にまみれているんですね……僕達と同い年の少年に対して、そんな命令が下るなんて……」
「そういう事だ。だから君も、これ以上は裏側世界に関わるな。一度発現してしまった能力を引っ込める事は出来ないが、使わない事は出来るはずだ。そうすれば、平穏無事な人生を送れる。奈那ちゃんにも、同じ事を言っておいてくれ。そして、俺が不甲斐ないばかりに怖い目に合わせて、すまなかったと……」
「わかりました」
最後に、巌は寂しそうに駿の背中を見詰め、踵を返した。
だが、その時だった。
「ちょっと待てよッ!」
駿が振り返って、巌の背中に怒鳴った。
「言いたい事だけベラベラ喋って、はいさよならか? ふざけんな、このクソジジィ!」
だが、巌は振り返らない。立ち止まる事もしなかった。
すると、駿は怒鳴るのを止め、静かに問いかけたのだった。
「村雨巌って、誰だよ…?」
巌の足が止まる。
「一騎の奴が言ってたよな? 真実がなんだとか、人の心を弄んでいる奴が身近に居るだとか。真実ってなんだよ? 村雨巌って、一体誰なんだ…?」
巌が、ゆっくりと振り返った。
「オマエ、それを聞いたら後悔するぞ。それでもいいってんなら話してやる」
厳しい顔を向ける巌。
首を横に振ってほしかった。「やっぱ止めとくよ」、と言ってほしかった。
しかし、駿の強い眼差しに揺るぎは無かった。
――家族ごっこも、そろそろ潮時か……
巌の話を聞き終わった時、駿の瞳は、絶望の二文字をたたえていた……