正義なんていらない
星が夜空に輝く夜。その日も私たちは、村人に暴力を振るう兵士たちを相手に狩りをしていた。
アランが兵士の首筋に牙を立てた、その時——。
「——何をしている!」
鋭い声が森に響いた。
振り向くと、若い警官が拳銃を構えて立っていた。
倒れた兵士の首筋に噛みついているアランを見て、警官の顔からみるみる血の気が引いていく。
目の前の光景が信じられないのか、拳銃を構えたまま立ち尽くしていた。
アランは倒れている兵士の腰から素早くナイフを抜き取ると、警官に向かって投げつけた。
若い警官が咄嗟に身体をひねる。刃は胸を外れ、脇腹に突き刺さった。
「……ぐっ!」
警官が膝をつく。
けれど、倒れなかった。傷口を押さえながら、拳銃を空へ向ける。
銃声が森を震わせた。
「何があった⁉」
近くから声がした。すぐに仲間が来る。
「お姉ちゃん!」
ガーネットが私の腕をつかんだ。私は頷き、走り出そうとする。
「待て」
アランだった。
若い警官を見つめたまま、静かに言った。
「生かして帰せない」
背筋が冷たくなった。
「確かに、逃がせば僕らのことを報告される」
ブレイドの言葉に、胸がざわついた。
足音が大きくなり、近くに人の気配を感じる。
「早く木の上へ!」
ブレイドが叫んだ。
もう迷っている時間はない。
私たちは近くの木へ跳び上がり、枝葉の陰に身を隠した。以前なら、到底届かない高さ。自分の身体の変化にも、いつの間にか慣れていた。
その場に駆けつけたのは、黒髪の男だった。
「ノア!」
男は倒れている若い警官のそばに膝をついた。
「しっかりしろ! 何があった!」
ノアと呼ばれた警官は、苦しそうに息をしていた。
男は傷口を確かめると、自分の上着を脱いで押し当てた。
「大丈夫だ。今、助ける」
その声を聞いて、胸が苦しくなった。
ノアは震える手を持ち上げた。指先が、私たちの隠れている木を指す。
「……うえ……」
男はその先へ目を向けた。黒く鋭い瞳が、私たちの潜む枝葉を見据える。
けれど、男はすぐにノアへ向き直った。
「今はお前を助ける方が先だ」
ノアの腕を肩に回し、ゆっくりと立ち上がらせる。
「歩けるか?」
ノアは苦しそうに頷いた。
二人が森を出ようとした、そのときだった。
隣の枝が、かすかに揺れた。アランが飛び降りたのだ。
男の背後に着地すると同時に、腰の剣を抜き放つ。月明かりを受けた刃が、男の首筋へ振り下ろされた。
「——っ!」
男は咄嗟にノアを突き飛ばし、自らも身をひねった。
剣先が地面を削った。
「何者だ!」
男は拳銃を抜き、アランへ向けた。
「邪魔するな!」
銃声が響いた。
アランの肩先で服が裂け、弾丸が背後の木に突き刺さる。男は間髪入れずに二発目を撃った。
けれど、アランはすでに地面を蹴っていた。
速い。
銃口が追いつくよりも早く間合いを詰め、男の手首を蹴り上げる。
拳銃が闇の中へ飛んだ。
それでも男は怯まなかった。
腰の剣を抜き放ち、アランの斬撃を迎え撃つ。甲高い金属音が森に響いた。
「ぐっ……!」
男の身体が大きく沈んだ。
アランの一撃は、恐ろしく重い。
それでも男は巧みに剣を操り、攻撃を受け流した。
激しい金属音が何度も響く。
二人の動きは速すぎて、目で追うのがやっとだった。
次の瞬間、アランの蹴りが男を捉えた。男は数歩後ろへ押し戻されたが、すぐに体勢を立て直した。
強い。
今までの兵士たちとは、まるで違う。
私は枝を握りしめた。
男の剣には無駄な動きがない。アランの攻撃をかわし、受け流し、隙を見つけて反撃する。
けれど、アランの速さと力は、それを上回っていた。
「逃がさない」
アランが低く告げた。
「くそっ……!」
男が剣を振るう。
アランはそれを力任せに弾き返した。
激しい金属音が響き、男の身体が大きくよろめく。それでも男は剣を構え直した。
だが、次の瞬間。アランの一撃が、男の剣を弾き飛ばした。
銀色の刃が宙を舞い、地面に突き刺さる。
男は片膝をつき、肩で息をしていた。それでも、倒れているノアを庇うように立ち上がった。
「……ノア、逃げろ……!」
けれど、ノアは動けない。
アランがゆっくりと近づいた。月明かりの下で、剣が鈍く光る。
男は武器を失っても、その場を離れようとはしなかった。
「……ノアには、手を出すな」
アランは答えなかった。
剣を握り直す。
その表情には、ためらいがなかった。
私は息を呑んだ。
あの人は、ノアを助けようとしていただけなのに。逃げようとしただけなのに。
それでも、殺さなきゃいけないの?
アランが剣を振り上げた。
「やめて!」
気づけば私は木から飛び降り、アランと男の間に立っていた。
目の前に、銀色の刃が迫る。
アランが私を見たその瞬間、剣がぴたりと止まった。
一瞬、金色の瞳が驚きに見開かれる。けれど、その表情はすぐに消えた。
「何の真似だ?」
アランの声は低かった。
怖い。
でも、退けなかった。
「この人は、悪い人じゃないと思う!」
「だから逃がすのか?」
金色の瞳が私を見据える。
「こいつは、どこまでも俺たちを追ってくるぞ」
「それでも!」
私は首を振った。
「ノアって人を助けようとしてた。今までの兵士たちとは違う!」
「見ればわかる」
アランが一歩近づく。
「だからこそ厄介なんだ」
言葉に詰まった。
「姿を見られた以上、善人だろうが悪人だろうが関係ない」
アランは男から目を離さなかった。
「ここで始末する」
「でも、それをしたら……」
喉が詰まる。
「あなたは、本当の怪物になってしまうわ!」
アランの瞳が揺れた。ほんの一瞬。
「構わない」
彼は私を見つめた。
「大切な人を守るためなら、俺は何にでもなってやる!」
胸が痛んだ。
そんなこと、言わないで。私たちを守るために、アランが怪物にならなきゃいけないなんて。
「俺は公安警察のレオン・クロウだ」
背後から声がした。
振り向くと、レオンがこちらを見据えていた。
「今日ここで俺を逃がせば、公安は必ずお前たちを追う」
男——レオンは、はっきりと言った。
「それでも見逃すのか?」
「見逃すわけないだろ」
アランが私を脇へ押しのけようとしたその時、背後のレオンが動いた。
「きゃっ!」
首元に腕が回された。身体が後ろへ引かれ、冷たい刃が肌に触れる。
「動くな」
耳元で低い声がした。
ナイフをいつ抜いたのかもわからない。けれどレオンは私を盾にして、アランを睨んでいた。
「俺も、お前たちを見逃すつもりはない」
首筋に刃が押し当てられる。
「ノアも必ず助ける」
アランの顔から表情が消えた。
「その子を離せ」
「断る」
レオンは一歩も引かなかった。
「仲間がもうすぐ来る。抵抗するな」
私は息をするのも怖かった。
どうしよう。私のせいだ。私が止めなければ、こんなことにはならなかった。
誰も殺したくない。
そんな綺麗ごとを言いながら、今まで何人もの血を飲んできた。アランたちに戦わせて、私は死んだ人間から血をもらっていた。
それなのに、善人は殺してはいけないなんて……。
私は、まだ人間のつもりでいたの?
首筋に触れる刃が冷たい。
アランが動けば、レオンは私を傷つけるかもしれない。
レオンが動けば、アランはきっと彼を殺す。
このまま警官たちが駆けつけたら、アランはどうなる? 木の上にいる二人は?
確実に誰かが死ぬ。でも、死んでしまうのがアランだったら……大切な仲間だったら、私は耐えられない。
急に頭の中が静かになる。
「レオン・クロウ」
気づくと、落ち着いた声で名前を呼んでいた。
「その手を放しなさい」
赤い光が、私の視界をかすめた。レオンの身体が淡く赤く染まっている。
首筋に触れていた刃が、ゆっくりと離れた。
私を拘束していた腕も緩む。
「……え?」
レオンが戸惑った声を漏らした。
私は振り返った。彼の黒い瞳から、さっきまでの鋭さが消えている。
「あなたは、私たちを追うことができない」
レオンは黙って私を見つめていた。
「仲間には、アストラ大国のスパイに襲われたと報告しなさい」
少しの沈黙があった。そして、レオンは頷いた。
「……わかりました」
自分で命令したのに、心が冷えた。
あれほど私たちを捕まえようとしていた人が私の言葉だけで、従っている。
「……スカーレット」
アランの声がした。
どうやったかは分からない。でも、自分の意志で能力を使った。
いつの間にか木から降りていたブレイドが、私とレオンを交互に見つめている。
「……魅了」
「え?」
「相手の意思を支配する能力だと思う」
私は自分の手を見つめた。
人の命は奪えなくても、人の心を奪ってしまう。
それはなんだか呪いのような気がした。




