5
猿原栞莉は、暗い下校路を歩いていた。
日暮れの早い空はすっかり暗くなり、ひやりと冷たい空気が、薄闇の中を満たしている。連日の晴天による放射冷却の影響だ。
そんな夜道を歩く彼女の首筋には、汗が浮いていた。
振り向いては駄目だ。もし背後を振り返ってしまったら、この悪い気配が現実のものになってしまう気がした。
いつもよりはっきりと、誰かの視線を感じる。
彼女は早足にならないように、ただ前へ歩く事だけに集中した。
下校前、倉塚葉太郎が何か、もの言いたげな視線を猿原に送っていた。猿原はそれに微笑み返し挨拶をした後、一人で帰路についたのだ。
男の人に頼ってばかりではいけない。しかも彼は帰り道が反対方向なのだ。いつまでも好意に甘えてしまっては、葉太郎くんにも迷惑をかけてしまう。
猿原は背後から刺さる視線から意識を遠ざけながら、黙々と脚を運んでいった。
ゆっくりと後ろから走って来た車が、彼女のそばを通り越し、追い抜いて行く。
静かなエンジン音と共に、そのシルエットが闇に融けて行く。その車から発するひときわ明るいテールランプの光が、なぜかひどく頼もしく感じられ、彼女の足はそれを追いかけるように早足になっていた。
次第にその車との距離は離れ、尾灯の明かりもみるみる小さくなってしまう。追いつく事が不可能な距離まで離されてしまうと、また彼女は無意識に歩速を緩めていった。
何か、光がほしい。私の目の前に、カンテラを持った従者が居ればいいのに。と、彼女は心の中で思った。
しばらくすると、前方に明かりが見えた。いつも帰りに通るコンビニの前だ。
逸る心を抑えきれず、彼女の歩速は上がっていく。コンビニの明かりが、神聖なバリアのように思える。あそこに辿り着ければ安全だ。急いであの結界の中に入らないと。
気付けば彼女は駆け足になっていた。速度を上げる程、後ろから近づく影がスピードを上げて迫ってくるような錯覚に陥り、彼女は短い悲鳴を上げそうになった。
滑り込むように自動ドアの前に飛びつくと、肩を落として息をつく。のぼり旗の前で座ってタバコを吸っていた男が、そんな猿原に不審の目を向けていた。
「はぁ、はぁ」
変に上がってしまった息を整え、気持ちを落ち着ける。大丈夫、何も怖くなんてない。視線なんて、背後から分かるはずがない。あんなものは被害妄想、自意識過剰の産物だ。大丈夫、怖い人なんていない。
彼女は意識を背後に向けないようにしながら、取り敢えず店内に入る事にした。
外気とさほど温度は変わらないはずなのに、ひんやりと涼しい空気が、自分を迎え入れてくれたような気持ちになる。レジ員や客の存在がとても心強い。ここなら安心できる。気持ちが落ち着いてから、また店を出ればいい。
彼女は、店の中をふらふらと歩く事にした。
……プリン。最近は食べたくない。
あの「栞莉ちゃんへ」とだけ走り書きされた手紙と共に、袋に入ったプリンがドアノブに掛けられていた時、彼女は母親に相談した。私はストーカーの被害を受けている、このプリンがその証拠だと母に訴えた時、彼女の母親は引き攣った苦笑を見せながら、こういったのだ。
ーーでも、よかったじゃない。好きなプリンなんでしょう?
彼女は信じられなかった。母には昔からおっとりし過ぎているところがあるのは分かっていたが、見ず知らずの男から渡された物を、平気で口になど出来るだろうか。それが彼女の好きなものなら尚更だ。その贈り物が受取り手にとって価値が高い程、送り手が分からないという前提のせいで得体の知れないものに思えてくるのである。
コンビニに入って、また気分が落ち込んでしまった。携帯電話の時計を確認して、そろそろ出口へと向う。
窯出しとろけるプリン味のチョコボールを見つけた事で少し嬉しくなった。
コンビニから出ると、夜の闇が出迎えた。光の中から突き放されたような不安感は、もうあまり感じない。ここから真っ直ぐ進んで道の先を曲がれば、自宅のマンションはすぐだ。
猿原は歩き出し、ほっと溜め息を吐く。そのまま顔を上げると、
彼女は、全身に金縛りにあったような恐怖のせいで、息を止めていた。
目の前に男が立っている。
見間違うはずがない。以前、自分をつけていた、黒いコートの男。顔を上げた瞬間に、彼女は、男と目を合わせてしまっていた。
まずい……。
目を合わせてしまったキックラッカーは、身の危険を感じてたじろいだ。このまま声をかけられでもしたら大変な事になる……。
相手が行動を起こす前にキックラッカーは、足を動かしていた。
コートの男が、猿原に向って歩き出す。
彼女は身を引いて、ゆっくりと後ずさりをはじめていた。
男は一歩一歩、猿原の目を見たまま、近づいてくる。顔の下半分をマスクで隠し、目元はフレームの細い眼鏡がかかっている。年齢は判別出来ないが、顔立ちは美形のようだ。
猿原は声を上げようとしたが、筋肉が強張って口が開かない。
そんな猿原を見て、男の目が細まっていた。彼女を見ながら、笑っているらしい。
もう男は目の前まで来ている。充分に距離を縮めた男は、唐突に右手をコートのポケットから取り出し、ゆっくりと持ち上げた。
その瞬間、彼女は全身に緊張が走り、咄嗟に目を瞑ってしまっていた。後ずさる足も止まり、歯も食いしばっていた。
(怖い……いやだ、やめて)
次の瞬間、
ぽん、
と右肩に手が載せられていた。
目を開けると、男は彼女の右側と通り、すれ違っていた。男の足音が背後に遠ざかっていく。
彼女はようやく、ゆっくりと緊張を解いていった。
男が立ち去った後も、しばらく放心のせいで動く事ができなかった。
気付けば、手が微かに震えていた。
逃げ出す事も、声を出す事も出来ずに、目を瞑ってしまった。……彼女は悔しさから、目元が熱くなっている事に気付いた。
焦ってしまった心を落ち着かせる。何事も無くてよかった。
キックラッカーは、駆け足でその場を立ち去った。